池田真理
(ルカ 20:41-44, 使徒 2:30-39)
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すべての人のためのメシア
今日はルカによる福音書の20:41-44を読んでいきますが、後半では、関連して、使徒言行録の2:30-39を読みます。早速読んでいきましょう。
A. メシアはダビデの子? (ルカ20:40-44)
41 イエスは彼らに言われた。「どうして人々は、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
とても短い段落ですが、ここから私たちが何を学べるのかというと、すぐにはぴんと来ません。その理由は、おそらく、私たちにとって、「メシア」とか「ダビデの子」と言われても、それが何を意味するのかよく分からないからです。ただ、全体を通してイエス様がどういう結論を出そうとしているかは分かります。人々はメシアはダビデの子だと言っていたけれども、それは間違っている、ということです。メシアとは何なのか、ダビデの子とは何を指しているのか、聖書が教えていることをまず確認しておきたいと思います。そうすると実は、イエス様の結論に反するようですが、メシアはダビデの子であると、言えなくもないのです。
1. Yes (そうとも言える)
まず、メシアという言葉ですが、これはヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。旧約聖書では、油を注がれたのは王様や預言者や祭司で、油を注がれることによって、神様に役割を任されるという意味がありました。そして、その意味が更に深められて、やがてこの世界を神様の力で治めるために現れる王様、「救い主」を意味するようになりました。
そういう救い主としてのメシアがやがて来られるという預言が、旧約聖書にはたくさんあります。その預言では、メシアはダビデの子孫の中から生まれると言われていました。だから、メシアと言ったらダビデの子というのがユダヤ人の間では常識でした。新約聖書は、その旧約聖書の預言がイエス様によって成就したのだと教えています。ルカによる福音書1章でも、イエス様は預言されていた通りダビデの家系に生まれたとされています。だから、メシアはダビデの家系に生まれるという意味では、メシアはダビデの子であると言えなくもないのです。
では、イエス様はなぜこのことに反対したのでしょうか。それは、当時のユダヤ人にとって「メシアがダビデの子である」ということは、単にダビデの家系からメシアが生まれるということ以上の意味があったからです。そこにイエス様は反対しました。
2. No(でも違う)
当時のユダヤ人が、やがて来られる救い主メシアにかけていた期待というのは、彼らの民族的リーダーです。かつてのイスラエル王国を築いたダビデのような強い王様が現れて、彼らを異邦人の支配から解放してくれることを望んでいました。しかもそれは、世界の終末も意味します。メシアが現れて、神様の選ばれた民族ユダヤ人だけを救い出し、他の異民族は裁きを受けるという思想です。ユダヤ人は神様の側にいるので救われ、他の民族は神様の敵なので滅びるという考え方です。ですから、「メシアはダビデの子だ」と当時のユダヤ人が言う時には、「メシアはダビデのような王様で、ユダヤ人を救いに来られる」という意味がありました。そこにイエス様は反対しました。イエス様は、ユダヤ人という特定の民族のためだけのメシアではないからです。
この間違いを、私たちも簡単に犯します。クリスチャンは救われ、そうでない人は滅びるという単純な考え方は、当時のユダヤ人と同じマインドセットです。「メシアはダビデの子」と言う代わりに、「メシアはクリスチャンの子」または「教会の子」と言っているのと同じです。私たちは、イエス様を信じる信仰を大切にしていますし、イエス様を愛して生きることに誇りと喜びを持っています。それがどんなに素晴らしいか、他の人にも伝えたいと願っています。でも、それがただ一つの正しい道だから、あなたも信じなければならないと他の人に押し付けるのは間違っています。それは、自分を神様の側に置いて、あなたは間違っていて神様の敵だと言っていることになります。正しいのは私たちではなく、イエス様だけです。私たちのことをイエス様が誰よりもよく知ってくださっているのと同じように、他の人のことも、私たちよりずっとよくイエス様が知っています。私たちはただ、自分にとってイエス様がいかに大切か、いかに良い方かを伝えるだけです。そして、イエス様が自分を愛してくださるように、少しでも他の人を愛することができるように歩むことです。イエス様は、クリスチャン限定のメシアでも、教会のためだけのメシアでもありません。
ではイエス様は、メシアとはどういう者だと言われているのか、もう一度42-44節を読みます。
3. メシアはダビデが「主」と呼んだ方
42 ダビデ自身が詩編の中で言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。43 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで」と。』44 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」
イエス様は、メシアはダビデが主と呼んだ方だと言われています。ダビデは王様でしたが、自分の王は主であると知っていました。神様はもともと、ユダヤ人が王を持つということ自体に反対していました。真の王様は神様だけなので、人間の王は必要ないし、いない方がいいからです。それなのにダビデが選ばれ、王国が建設されたのは、神様の意志ではなく、ユダヤの人々の願望によります。彼らは、目に見えない神様よりも、目に見える人間の王に頼ろうとし、神様を離れていました。ダビデ自身は、神様を怒らせる失敗も多くしましたが、神様に聞き従うことを生涯忘れませんでした。ダビデが間違えずにすんだのは、彼が自分の弱さを認め、真の王は神様だけだと分かっていたからです。
ただ、ここでイエス様が言われているように、やがて来るメシアのことをダビデが実際に自分の主と呼んだかというと、疑わしいものがあります。今日最初に、旧約聖書にはメシアに関する預言がたくさんあるとお話ししました。ですから、ダビデに限らず、旧約聖書の人物たちは、確かにやがて世界を治めるメシアが現れるということは信じていたと言えます。でも、彼らは皆人間なので、時代と文化の制約を受けていて、現代の私たちが持っているグローバルな視点や民族を超えた平和というコンセプトは、持っていませんでした。実際、旧約聖書の中だけでも、時代と共に異民族との接触が増えるにつれ、異邦人に対する寛容さが変化しているのが分かります。そうだとしても、時代を超えて、旧約聖書全体を通して共通しているのは、神様を主と呼び、神様を第一に頼って愛した人たちの存在です。ダビデもその中の一人です。
ここでイエス様が引用しているのは詩編110篇1節です。イエス様はこの歌に、おそらくそれまで誰も考えていなかった解釈を加えました。この歌はメシアに関するものであるという解釈です。人々は、「これってメシアのことだったの?」と驚き、感心したと思います。この詩編だけでなく、イエス様が現れたことによって新しい意味が与えられた詩編がたくさんあります。それまでは個人的な経験とされていた歌が、実はメシアの経験を意味していたということが明らかにされたのです。それは、おそらくそれぞれの詩編の作者自身も知らなかったことですが、神様の霊が働いて、個人的な言葉が預言の言葉になっていたということです。ダビデも、自分がメシアについて預言しているとは思っていなかったかもしれませんが、彼の信仰が神様に用いられて、実は預言していたということです。
この詩編によれば、メシアは神様の右の座に着く方だと言われています。これが具体的に何を意味するのかは、イエス様が十字架に架けられて、復活されて初めて明らかにされました。使徒言行録の2章には、この同じ詩編をペテロが解説している部分がありますので、読んでみたいと思います。
B. イエスはすべての人のメシア
1. 死から復活された方 (使徒言行録 2:30-36)
30 ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。31 そして、キリストの復活について前もって知り、『彼は陰府に捨てておかれず、その体は朽ち果てることがない』と語りました。32 神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。33 それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。34 ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。35 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするときまで。」』36 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」
ペテロがここで言おうとしているのは、死から復活して、神様の右に上げられたイエスがメシアだということです。イエス様は十字架で死なれた後、三日後に復活し、その後四十日に渡って弟子たちに姿を現し、彼らが見ている前で天に昇っていかれました。弟子たちはその後聖霊を受けて、全てを理解しました。死から復活し、天に上げられたイエス様が、旧約聖書で預言されていたメシアなのだと分かったのです。反対に言えば、イエス様がどういうメシアなのか分かったので、旧約聖書の預言を理解したと言えます。
イエス様は、死から復活したメシアです。イエス様が死ななければならなかったのは、私たちの罪のためです。私たちは、神様以外のものを簡単に神様にします。イスラエルの人々が人間の王様を求めたように。イエス様の時代のユダヤ人が民族の繁栄を願ったように。クリスチャンが教会の繁栄を願ったり、自分の信仰を他人に押し付けようとしてしまうように。そういう時、私たちが神様に期待しているのは、自分に都合のいいメシアです。自分の目的達成のために利用できるメシアです。神様がイエス様をこの世界に送られたのは、そういう罪深い私たちの目を開かせるためです。そして、自分の利益のためではなく、私たちのことを愛しておられる神様のために生きなさいと教えてくださいました。イエス様が復活されたので、私たちも罪の中で死んでいるのではなく、神様と共に生きられるようになりました。イエス様は天に帰られたので、今は目には見えませんが、私たちの間で生きています。私たちが神様を愛し、神様の国がこの世界で実現されるように働く時、そこにイエス様はいつも一緒にいます。そして、その時が来れば、また目に見える形でこの世界に戻ってきて、「全ての敵を足台にして」、全てのものを支配する王となられます。だから、神様の右の座につかれたイエス様は、やがて戻ってくる神様の国の王、メシアだと、私たちは信じています。
このペテロの話を聞いた人々は感動して、自分たちはどうすればよいのか、と彼に聞きました。最後にこの部分を読んで、イエス様というメシアは、全ての人のためのメシアだということを確認して終わりたいと思います。
2. すべての人への招き (37-39)
37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」
「悔い改めなさい」という命令は、特定の人に向けられているのではなく、私たち全員に向けられているものです。この言葉を言ったペテロ自身も悔い改め、クリスチャンと分類される私たちも悔い改めましたが、悔い改めは一回切りのものではありません。一生続けることです。私たちは全員、イエスのことを知っていても知らなくても、常に何かを神様にして生きています。神様以外のものを神様にする傾向は、誰でも一生持ち続けるものです。だから、誰でも、一生、悔い改めが必要なのです。ただ、メシアはもう既に来てくださいました。私たちは全員、このメシアと出会い、メシアと共に生きる道に招かれています。「この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」イエス様は、すべての人のためのメシアです。私たちはすべての人と共に、神様の国が私たちの間で実現することを望み、歩んでいきましょう。
メッセージのポイント
メシアは特定の民族や宗教にとらわれず、全ての人のために来られました。私たちはイエス様がそのメシアだと信じていますが、イエス様はユダヤ人のものでもキリスト教のものでもありません。私たちは自分の信仰を喜び、イエス様を愛して生きたいと願っています。それは正しいことですが、正しいのはイエス様であって、私たちではありません。ここを間違えると、私たちはすぐに、自分に都合のいいメシアを求めることになり、神様が愛している人を排除するようになってしまいます。
話し合いのために
1) メシアとはどういう意味ですか?
2) なぜイエス様はすべての人のメシアだと言えるのですか?
子供たちのために
今回の聖書箇所は難しいので、読まないでいいと思います。ポイントに沿って、神様はすべての人を愛しておられるということを話してみてください。子供達は、自分のことや自分の家族のことを「クリスチャン」だと思っているでしょうか。思っているとしたら、クリスチャンとクリスチャンではない人で何が違うと思うでしょうか。「クリスチャン」であることをあまり意識していないとしたら、それは良いことです。「クリスチャンである」よりも、イエス様のことを好きかどうか、で考える方が大切です。自分はイエス様のことをどう思っているのか、家族はどう思っているのか、話し合ってみてください。