永原アンディ
(詩編 16)
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幸福をもたらす告白
1 【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってくださいあなたを避けどころとするわたしを。
2 主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
3 この地の聖なる人々わたしの愛する尊い人々に申します。
4 「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず彼らの神の名を唇に上らせません。」
5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6 測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました。
7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励ましわたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません。
9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなくあなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます。
この詩には、私たちが神様との関係をもっと確かなものとし、日々の歩みに幸いをもたらすためのヒントがあります。一番最初に出てくる「ミクタム」という言葉が気になるかもしれませんが、残念ながらはっきりした意味はわかってはいません。1節をもう一度読んでみましょう。聞くのではなく一緒に読んでみましょう。英語でも日本語でも何語でも自分の言葉で読みましょう。
A. 願い (1)
【ミクタム。ダビデの詩。】神よ、守ってくださいあなたを避けどころとするわたしを。
ダビデは初めに神様への願いを祈ります。私たちにとってもこれが出発点です。誰でも恐怖、不安を感じる時があります。呼び求めれば答えてくれる神様がおられる。これは私たちの信仰の核心です。なぜ私たちは信仰があるのに恐れを感じるのでしょうか?それはまだ世界が神様の目にかなうものにはなっていないからです。自分も、人も不完全であれば、世界が完全であることはできません。工事中の建物に様々な危険があるように、この世界で生きるには、危険があることを認めなければなりません。神様は私たちが不用意に危険を犯さないように恐れや不安という感覚を与えてくださっています。恐怖、不安を感じることは悪いことではないのです。問題は、恐怖や不安の奴隷になってしまい、現実を見られなくなることです。暗がりを恐れる子供の目には、何でもない物が恐ろしい存在に見えてしまいます。私たちの現実とは、神様が避けどころとなってくださるということです。神様が私を守ってくださるとわかれば、恐怖や不安に支配されることはありません。それらが自分の心を支配しやすいと感じる方は、このシンプルな祈りで1日を始めましょう。
B. 告白 (2)
次の節も一緒に声を出して読んでみましょう
主に申します。「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません。」
ダビデは神様に願いを伝えた後で、今度ははっきりと自分の神様に対する確信を告白しています。来週の月曜日に洗礼式をすることになりました。今回、洗礼を受けるのは神様に従って歩んできた両親に育てられた人です。人生の折々に神様の助け、恵みを頂いて歩んでくることができました。しかしこれからの歩みはもっと祝福に満ちたものになるでしょう。それは洗礼を受けるということが、神様に対する告白に他ならないからです。告白とは自分の気持ちを言い表すことです。神様は、それをしてこなかった人にも恵みを与えてくださいます。しかし無意識に受けるのと自覚して受けるのでは、その人の人生に大きな違いが生まれます。不幸な人は何かを手に入れていないから不幸なのではありません。自分に幸いをもたらすことがないものを追い求めているから不幸なのです。不幸な人は何かを失ったので不幸なのではありません。失う心配のない宝:神様の恵みの価値を知らないから不幸なのです。この告白は、神様の尊さに気づいた人の言葉です。誤解している人もいるのですが、世の中の様々な楽しみが否定されているわけではありません。ただそべてのものが神様が与えてくださったものだということを自覚していれば良いのです。神様はその時あなたに必要なものを必ず備えてくださいます。必要のないものは取り去られます。そのことを信頼しているなら、この目に見える世界で何が起こっても、あなたは幸いであり続けることができます。
C. 宣言 (3, 4)
この地の聖なる人々わたしの愛する尊い人々に申します。「ほかの神の後を追う者には苦しみが加わる。わたしは血を注ぐ彼らの祭りを行わず彼らの神の名を唇に上らせません。」
神様に告白したダビデは、この思いをさらに人々の前にも言い表します。このこともわたしたちが洗礼を受けることの意味の一つです。洗礼は、神様に対する告白であるとともに、人々に対する宣言でもあるのです。それは「私はイエスにだけについていきます」という宣言です。ダビデの宣言はかなり具体的に異教を退ける言い方ですが、これは現代に合った解釈をする必要があります。当時のイスラエルは周りの国々、民族の持つ宗教の影響を受け易い状況にありました。中には人間の生け贄を捧げるようなものもあったのです。私はそのようなものには近づかないという宣言です。神以外のものを神としない、偶像礼拝を避けるという宣言です。
偶像礼拝は誤解されやすい概念です。その本質は、神様以外のものを神様のように見做して追い求めるということです。偶像礼拝の禁止とはただ形式的に木や石の像を拝まないということではないのです。誰かの心を尊重するために、偶像の前でひざまづいても、あなたの心がそれに向いていないなら問題ないと旧約聖書でさえ認めています(列王記5)。本当に警戒しなければならない偶像は木や石の像ではありません。お金や地位や名誉、自分の欲望こそ、わたしたちが神様から背を向けて追いかけてしまいやすい偶像の正体です。誰があなたの主なのか、自分ではっきりと知る必要があります。人々は様々な偶像を拝みますが、本当はそれに従っているわけではありません。その背後に潜んでいるのは自分の欲望です。自分の欲望こそ影の偶像なのです。「他のものを追い求めず、イエスについて行く」と宣言しましょう。実はこの教会のメンバーとなっている人は毎年カヴェナントに署名をすることでこの宣言をしているのです。
D. 理解 (5-11)
ここまでお話ししてきた、願い、告白、宣言が、心からのものであるために知っておくべきことがあります。その理解がなければ、それはただ口で言っているだけのことであり、そこには幸せをもたらす力はありません。私たちは何を知るべきなのでしょうか?それは神様がどのような方であるか、ということと、私たちが神様にどう応えるかということについての理解です。5-11節を読みます
5 主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。
6 測り縄は麗しい地を示しわたしは輝かしい嗣業を受けました。
7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励ましわたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません。
9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
10 あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなくあなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
11 命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い右の御手から永遠の喜びをいただきます。
1) 神様はどのような方か
まず神様がどのようなお方かということから見ていきたいと思います。5、6節を見ると私たちに必要なものを与えてくださる方。私の人生に良いプランを用意していてくださる方であることがわかります。そのプランはただ自分の生活が充実するだけではなくではなく人々に貢献できるものです。7節の後半では、神様が私たちの思いを励まし、その心を夜ごと諭してくださる方とあります。神様が誰よりも近くに立ってあなたを支えられるので、あなたは揺らぐことがありません。決して見捨てることなく、かえって永遠に共にいてくださることを約束してくださったのです。あなたに歩むべき道を教え、その歩みは満足と喜びで満たされます。
サムエル記を読むとダビデの人生は全く平坦なものではなかったことがわかります。王から命を狙われ逃げ惑う時期を耐えました。みんなに期待されて王となり権力の頂点に立ちます。しかし、先週お話ししたように、誘惑に負けて酷い罪を犯してしまいます。それでも彼の体験を総合した結論はこうなのです。そしてそれが間違いではなかったことを神様はイエスとして実現したのです。
2) 私はどのように応えるか
7 わたしは主をたたえます。主はわたしの思いを励ましわたしの心を夜ごと諭してくださいます。
8 わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいましわたしは揺らぐことがありません。
9 わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。
それでは最後にこの神様にどう応えていけば良いのか、そのために大切な基本的態度についてお話しして終わります。7、8、9節の強調されている部分を一緒に読みましょう。ここから私たちは何を読み取ることができるでしょうか。それは礼拝するということです。私たちが優先順位の一番上に礼拝を置くのは、神様との関係においてそれが一番大切なことだからです。祈る、聖書を読む、イエスを誰かに紹介する、人々を愛することが大切だと何度もお話ししてきましたが、その前に「礼拝する」がなければそれ以外のことは決してうまくいきません。礼拝(worship)という言葉は非常に幅広い意味を持った言葉です。原語には、身をかがめる、敬意と誉れを捧げる、膝まづく、こうべを垂れる、近づいて口づけする、といった意味があるので、日曜日に集まって神様に捧げる礼拝 (service) も礼拝と言って間違いありません。しかし、この日曜礼拝 (service) の中でも、最も豊かにワーシップが実現するのが主に向かって歌う時です。私たちは主に向かって歌います。しかし空の彼方にいる神様に向かって歌うのではありません。眼の前で、顔と顔をあわせるようにして歌います。時には喜び、踊ります。しかし、興奮して我を忘れるわけではありません。その中に安心して憩うことのできるのが礼拝(worship)です。日本では、どんな歌でもキリスト教的な歌を歌うことを「賛美する」と表現することが多いです。残念なことにそれが礼拝をもっと豊かなものにすることを邪魔しています。私たちが、「賛美」とは言わず「神様に向かって歌う」と言うのは、私たちが歌うことを通してしていることは、賛美だけではなく、祈りや、願い、告白だからです。日常の様々な出来事によって喜んでいる人もいれば悲しんでいる人もいる、元気な人もいれば疲れている人がいる、悩み、不安を持ちながら神様の前に出てきた人もいます。「誉めたたえるって気分じゃない」でもいいのです。無理に元気なふりをして、みんなに笑顔を振りまいて、家に帰ってため息をつくような礼拝ならしない方がマシです。これが私たちの歌う歌が元気で楽しい賛美の歌だけではない理由です。
日曜日の朝の礼拝についてお話ししてきましたが、礼拝はいつでもどこでも一人でもできます。毎日、ほんの少しの時間でも主の前に心を携えて進み出て礼拝し、その中でも祈り、告白し、神様ともっと親しくなってください。
メッセージのポイント
ダビデは自分がこの基準に達していない人間であることを知っています。そうであっても、神様が自分を見捨てないことを信じています。ダビデはイエスを知らずに生きた人です。彼は無意識のうちにイエスについての預言をしているのです。私たちに不可能なことを、私たちのところに来てやって見せ、それをできない私たちのために罰を引き受け、主となってくださった神、イエスについていくことを私たちは期待されています。。
話し合いのために
1) ダビデはどのような気持ちでこの詩を書いたのでしょうか?
2) イエス・キリストに従うべきなのはなぜですか?
子供達のために
心の中に二つの異なる動機があることを教えてください。愛と利己心あるいは良心と欲望です。私たちの心の中には優しくしてあげたい、仲良くしたい、喜ばせたいという気持ちと、いうことを聞かせたい、自分に楽しみ、喜びのために相手を我慢させたいという気持ちが同居しています。愛、良心100%で生きられる人は一人もいません。だからイエスについていくことが大切だと伝えましょう。失敗することがあってもいいのです。イエスについて歩いている限り、不完全でも、神様に喜ばれ、元気で、皆と仲良く、楽しく、気持ちよく生きてゆくことができます。悲しいこと、苦しいことも乗り越えることができます。