池田真理
(ルカによる福音書 21:5-38)
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世界の終わりの先にあるもの
今日は少し長く聖書を読みます。イエス様が世界の終わりについて教えている箇所です。世界の終わりというのは、よく映画や小説の題材になるテーマです。地球に巨大隕石が落ちるとか、世界中で自然災害が起きるとか、宇宙戦争が起こるとか、色々な描写があります。おそらく、それはもともと聖書の描く世界の終末を参考にしているのだと思います。そういう恐ろしいことが起こるということを、聖書は確かにはっきり教えています。でも、映画や小説と聖書で決定的に違う点があります。映画や小説では、大抵の場合は世界の終わりを食い止めるヒーローが登場してハッピーエンドで終わります。それか、とても悲観的なものの場合は、そういうヒーローさえも失敗して、荒れ果てた地球の姿がスクリーンに映し出されて終わります。どちらにしても、世界の終わりは避けられるべきものだというのが前提にあります。でも、今日読んでいくように、聖書は世界の終末を避けるべきものとは教えていません。反対に、それは神様の定めによって必ず来なければならないのであり、それは新しい世界の始まりだと教えています。そして、その新しい世界というのは、イエス様によってすでにこの世界に始まりつつあるとも教えています。だから、自暴自棄にも無気力にもならずに、希望を持って今をしっかり生きていくようにというのが聖書の教えの中心です。
今日は前半でまず、終末に起こるとされていることをざっと箇条書きで確認したいと思います。それから後半で、イエス様の言葉の意味をもう少し深く考えたいと思います。それでは読んでいきましょう。
A. やがて来る終末
1. 偽預言者に惑わされてはいけない (5-8)
8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。
8 He replied: “Watch out that you are not deceived. For many will come in my name, claiming, ‘I am he,’ and, ‘The time is near.’ Do not follow them.
終末について、まずイエス様が注意しているのは偽預言者です。ルカによる福音書が書かれた時代からすでに、イエス様の名前をかたる偽預言者が現れていました。その後も世界中で、世界の終わりは近いと教える異端者、カルト集団が生まれました。そういう人たちが人気になれるのは、いつの時代もどの国でも、生きることに絶望している人、満たされないと感じている人がいるからです。でも、こんな世界はいらない、むしろ早く終わってほしいという思いはとても悲しいだけで、イエス様の教えと全く反対です。イエス様はこの世を終わらせるために来られたのではなく、私たちがこの世界の中で希望を失わないで生きられるようにするために来られました。この世界には希望があり意味があります。反対のことを言うのは偽預言者です。
2. 天変地異や戦争におびえてはいけない (9-11)
9 戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」10 そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。11 そして、大きな地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
ここで言われているようなことが起こったら、誰でも恐怖を感じるのが普通です。大きな地震や災害が起これば、必ず「これは神の裁きだ」という人が現れます。20世紀に起きたたくさんの戦争でも、これで世界が終わるという危機感は現実にあったと思います。でも、イエス様はそういうことを怖がってはいけないと言われています。そういう時こそ、あきらめずに神様に助けを求めるべき時です。
3. 反対者たちに忍耐しなさい (12-19)
12 しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。13 それはあなたがたにとって証しをする機会となる。14 だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。15 どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに授けるからである。16 あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には殺される者もいる。17 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。18 しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。19 忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい。」
これが書かれた当時、迫害は現実に起こっていました。ペテロもパウロも、ここに書かれている通り、王や総督の前に連行され、最後は殺されてしまいます。同じような迫害は今の日本ではありませんが、70年前の戦時中はありましたし、この先も絶対起こらないとは言い切れません。そういう状況になった時、大切なのはイエス様の最後の一文です。「忍耐によって、命をかち取りなさい。」イエス様が言われているこの命というのは、肉体的な命のことではありません。死ぬことが怖いと思うのは人間なら当然ですが、イエス様はそれよりも大切なことを教えてくれました。神様と共に永遠に生きることです。肉体が死んでも、神様にずっと覚えられていて、神様と共に生き続けるということです。私たち自身が神様との関係を切らない限り、他の誰にもこの関係をなくすことはできません。だから、迫害が起こっても、命が危険にさらされても、希望がなくなることはありません。
4. エルサレムの滅亡について (20-24)
20 「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。21 そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない。22 書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。23 それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。この地には大きな苦しみがあり、この民には神の怒りが下るからである。24 人々は剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれる。異邦人の時代が完了するまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされる。」
次にイエス様が言われるのはエルサレムの滅亡についてです。このことは私たちには直接関係ありません。ルカの時代、エルサレムはすでに滅ぼされていました。エルサレムの滅亡というのは、当時のユダヤ人にとっては世界の終わりを思わせる絶望的な事件です。でも、イエス様は戻ってこなかったし、世界の終わりも来ませんでした。それに弟子たちは動揺しました。今戻ってきてくださらないのなら、もう戻って来るという約束は嘘なんじゃないかという疑いが広まりました。そうなることを知っていたイエス様は、エルサレム滅亡について前もって話していたということです。
5. 身を起こして頭を上げなさい (25-28)
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26 人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
恐ろしい描写が続いています。映画で言えば、いよいよ人間にはなすすべがなくなり、絶望的なクライマックスが近づいているようです。でも、27節からはトーンが変わっています。イエス様が目に見える形で再びこの世界に来られて、私たちを解放すると言われています。これが聖書の約束する、世界の終わりの先にあるものです。この世界は滅びるのではなく、でもこのまま残るわけでもなく、イエス様の支配のもとで新しい世界になるという約束です。だから、目に見える世界がどうなろうと、恐れずに「身を起こして頭を上げなさい」と言われています。
イエス様はここまで話した後、たとえ話をします。それはここまで話してきた、私たちが終末に対して持つべき態度をまとめてくれています。
B. 終末の先を信じて、今を生きる
1. 終末を恐れずに (29-31)
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。
イエス様がこのたとえで用いているのは新緑の季節です。冬の間は枯れて葉のなくなった木々に葉が芽吹く様子です。これは、私たちが世界の終末に対して持っているイメージとは違うと思います。私たちが世界の終末と言われて想像するのは、季節にたとえるなら、それまで元気だった木が枯れて葉を落としていく冬の季節ではないでしょうか。でもイエス様は、新緑で夏の訪れを感じるように、終末に神の国の訪れを悟りなさいと教えています。終末を恐れることなく、喜んで迎えなさいということです。これは、私たちが目に見えるこの世界に希望を置くのではなく、神様に希望を置いて初めてできることです。次のイエス様の言葉が、そのことをシンプルに教えてくれています。
2. 決して滅びないものを信じる (32-33)
32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」の「わたしの言葉」とは何でしょうか?イエス様の言葉、教えです。でもそれは、単に聖書に記録されている言葉の数々ではなく、イエス様が身を持って示してくださった、十字架の愛の教えです。イエス様は、自分の身を犠牲にして、十字架で苦しまれました。それは私たちを愛していたからです。それがイエス様の教えの中心であり、聖書の数々の言葉の全ての根底にあるものです。たとえ、世界が滅びても、イエス様がこの世界に来られたという事実は変わりません。イエス様が私たちを愛しておられるという事実は、何にも揺るがされない事実です。人間が愚かな戦争で殺し合いをしても。自分たちの経済的利益を中心にして、自然を汚染し破壊しても。悪いのは人間で、人間の罪は大変重いですが、その全てを担ってくださったのがイエス様です。私は今日最初の方で、この世界には希望はあり、それと反対のことを言うのは偽預言者だとお話ししました。でもこの世界に希望があるというのは、この世界自体に希望があるわけではありません。こんな世界にイエス様が来られたこと、それが希望です。そして、イエス様はやがて再び来られるという約束を信じ、今も共におられると信じられることが、イエス様に従う人たちの希望です。それは、今、自分の目に見える世界がどんな絶望的な状況でも、決して消されることはありません。
3. いつも目を覚まして祈っている (34-38)
34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35 その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
今日は世界の終わりについてお話ししてきましたが、全てはこの最後のイエス様の言葉にまとめられます。「いつも目を覚まして祈りなさい。」何が滅びるもので、何が残るものか、何が虚しいもので、何が本当に意味のあるものなのか、それを私たちは見分けることができます。イエス様の愛を知るなら。それはやがてその時がきた時にそうすれば良いのではなく、今ここで生きる上で大切なことです。二千年前にイエス様が十字架で苦しまれて、神様の愛はすでにこの世界に現されました。そして、その愛は私たちの世代にまで届けられて、私たちの間で今でも生きています。私たちには、このイエス様の愛を次の世代にも届ける責任があります。それが神様が私たち全てに与えられた使命であり、私たちの生きる目的であり、意味です。もう一度今日のイエス様の言葉を振り返りましょう。「偽預言者に惑わされてはいません。死を恐れてはいけません。身を起こして頭を上げなさい。」なぜなら、「世界が滅びても、イエス様の愛は決して滅びない」からです。
メッセージのポイント
聖書は、やがて必ずこの世界には終わりがやってくると教えています。そして、その時には様々な自然災害や社会の混乱が起こるとも教えています。でも、それは神様の愛が完全に実現する新しい世界の始まりを意味しています。神様の愛はすでにこの世界に現されつつあります。私たちのすべきことは、不完全な形でも、神様の愛がこの世界で実現するために、今この世界の中で、神様を愛し、人を愛し続けることだけです。
話し合いのために
1) 終末の先にあるものとは何ですか?
2) いつも目を覚まして祈っているとはどういうことですか?
子供達のために
聖書が「世界の終わり」について明確に教えていると伝えてください。でも、怖いイメージを持たないように注意してください。この聖書箇所全部は読まなくていいと思います。大切なのは33節です。イエス様の言う「私の言葉」とは、イエス様の教えも意味しますが、十字架の愛に集約されるものです。この世界にはいつか終わりが来て、私たちも死にますが、神様が死んでしまうことはなく、神様が私たちのことを忘れることもありません。多分、子供達は「世界の終わり」と聞いて、今まで色々なところで耳にしたことや、自分の想像など、たくさん思うところがあると思います。話し合ってみて、何がイエス様の言っていることとあっているかあっていないか、考えてみるのもいいかもしれません。