永原アンディ
(ヨシュア記1:5-9、テモテへの手紙 I 6:11,12、II 4:1,2)
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世代から世代へ
(Part II – この一年を回顧して)
1. 先の不安打ち消す神様の声 (ヨシュア記1:5-9)
一生の間、あなたの行く手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。 強く、雄々しくあれ。あなたは、わたしが先祖たちに与えると誓った土地を、この民に継がせる者である。 ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行っても成功する。 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜も口ずさみ、そこに書かれていることをすべて忠実に守りなさい。そうすれば、あなたは、その行く先々で栄え、成功する。
人間の自然な感覚として、生きてきた時間が長くなればなるほど1年の長さは短く感じられるものです。子供の頃といえば、一年は気の遠くなるような長さに感じられました。だからこそ、年をとればとるほど一日、一年が大切に思えるようになるのです。みなさんにとってこの一年はどのようなものだったでしょうか?この今年最初に共に読んだテキストの勧めが役に立ったでしょうか?これはエジプトを逃れ約束の地に民を導いた有名なモーセの後継者ヨシュアに向けて語られた神様の言葉です。個人の歩みでいうなら、大人として独り立ちする旅を始める人への神様の勧めです。しかし、ヨシュアはモーセに代わる民のリーダーです。ですから、これは約束の地に入ろうとするイスラエルの民全体に対する勧めでもありました。私たちはこれをユアチャーチに対する神さまの勧めとして読んできました。
この一年、私にとってはやはり、今までのどの一年よりも短く感じられましたが、それ以上に濃密な一年であったと感じています。老いとか死にについて多く、深く考えさせられました。この教会の牧師として今までになく長いお休みをとらせて頂きました。ユアチャーチにとって史上最大のベビーブームを迎えた年でもありました。また、今まではいなかった様々なタイプの人々が加わりました。昨日のクリスマスイヴ礼拝は私にとって特に感慨深いものでした。それは、 自分の子供よりも若い世代によって導かれた礼拝だったからです。世代交代の進む充実した一年でした。
しかし一方で、それぞれの個人的な歩みにおいては、怒りが収まらないような、喜べないような、あるいは深い悲しみを伴うような出来事に見舞われた、あるいは今でも、その状態に置かれている人も多いのです。それぞれの旅の中でも特に苦しいところを歩んでいる人々です。ここにはそうではない人もいるのになぜ自分は?と思われるかもしれません。しかしあなたが良い時を過ごしていた時に、苦しんでいた人もいたのです。そして私たちは大きな家族として、支え合い、助け合うことができるのです。そして何よりあなたはイエスと共にいます。イエスに対応できない状況はありません。イエスに従って歩むなら、あなたは必ず乗り越える事ができます。そしてそのことは他の人々の希望ともなるのです。
神様がヨシュアに対して良い歩みをするためにがどのようなアドヴァイスをしたのか。それは、律法を忠実に守るという事でした。もちろんイエスが批判したような律法主義的な守り方を求められているのではありません。律法主義は律法を大切にしているつもりで、律法の本質を見失ってしまいました。律法の本質は「愛する事」です。パウロはそれを<愛によって互いに仕えなさい、律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。(ガラテヤ 5:13,14 )>と表現しました。私たちも今年この言葉に励まされて歩んで来ました。
目に見える世界の状況は希望に溢れているとは思えません。多く人が将来に不安を持っています。しかしユアチャーチの将来は明確です。私たちは、様々な役割を担う人が変わっても、目に見える形が変わっても、イエスに従って、イエスの体としての、また家族としての役割を果たすために最善を尽くすだけです。私たちは、この一年、何を良いこととして追い求めてきたのでしょうか?もう一度思い返してみましょう。
2. 私たちが追い求めること (テモテへの手紙 I 6:11,12)
しかし、神の人よ、あなたはこれらのことを避けなさい。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。命を得るために、あなたは神から召され、多くの証人の前で立派に信仰を表明したのです。
これらのこととは直前に書かれている、ねたみ、争い、中傷、邪推、絶え間ない言い争い、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望を指しています。求めるべきものはこれと正反対です。このことは今年に限らずいつでも心の中に持っているべきことなので、今日も繰り返したいと思います。正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。この追い求めるべき六つのことの中で、今日は特に最初の二つのことについて少し詳しくお話ししたいと思います。 1) “イエスが教えてくださる”神様の正義 今年も、世界中で自分勝手な「正義」が叫ばれ、正義の名の下に暴力が行われ、多くの人々を苦しみ、絶望、死に追いやりました。求めるのは神様の正義です。私の正義、自国の正義、キリスト教の正義ではないのです。なぜキリスト教の正義ではいけないのでしょうか?宗教としてのキリスト教は必ずしも神様の正義を行ってきたわけではないからです。キリスト教が歴史の中で残してきた多くの汚点は、自分たちに都合よく旧約聖書を解釈した結果です。イスラエルの民は戦争を神の意志と理解して戦いました。そしてキリスト教は「イスラエルの民」を自分たちに置き換えて、戦うことを正当化してきました。結果的にイエスにではなく自分たちの欲望に従ってしまったのです。イエスは旧約聖書を否定しません。しかし人々がその読み方を間違えていたことを強く批判しました。イエスの言葉と行いが記録されている福音書は、旧約聖書を正しく受け取るために欠かせません。イエスの正義を追い求めましょう。
2) 神様との関係を何よりも大切にすること(礼拝することを中心とした生活)
礼拝を生活に中心にしようと、いつもお話ししています。新しく来てくれている人のためということもあるのですが、そうでなくても、繰り返し聞く価値のある事柄です。というのは、この事が「空気のように」大切だからです。人はそれがなければ生きていけないのに、意識することを簡単に忘れてしまう、という意味です。イエスを知り、従う人にとってイエスと親密に過ごす時がなければ、世に出て行って与えられている務めを果たすことはできません。だから礼拝です。わたしたちにとって礼拝とは態度と行動であって、日曜日の朝のイベント (Service) ではありません。個人でも小さなグループでもできる事です。もちろん日曜礼拝 (Sunday Service) で私たちがしていることは礼拝・ワーシップです。そしてその中心は神様(父・子・聖霊)に向かって歌い、同時にその声に耳を傾けることです。ワーシップソングという言葉が一般的でなかった頃から、私たちは歌うことの持つ力を知り大切にして来ました。今お話ししている六つのことを追い求める力です。私たちが理解しているワーシップソングは、誰かに神様について教える歌ではありません。「私たちの神様は素晴らしい」と歌って自分たちを元気付ける歌でもありません。神様に近づいて語りかけ、また聞く手段なのです。残念ながらワーシップソングという言葉は「賛美歌」や「プレイズ」を現代的でオシャレに言い換えただけの言葉として定着してしまいました。商業的になり、複雑になり、練習しなければ歌えないようなもの、素晴らしい歌と演奏を聴いて簡単なリフレインだけ参加するようなものとなってしまいました。しかし、それでは正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求める力にはなれません。今日もシンプルな歌を何曲か歌いますが、神様に近づいて、心の思いを伝え、また聞こうとしながら過ごしてください。歌詞が自分の心の思いとあっているならメロディーを知らなくても小さな声でも良いので神様に歌いかけてみてください。神様があなたの心に語りかけてくださる経験をしていただけると思います。
今日は取り上げることはしませんが残りの4つのことも重要なことです。
3) 日常生活の中で神様を信頼して生きること
4) イエスのように愛すること
5) 導かれていることを信じて、諦めずに困難な時を忍耐し続けること
6) イエスのような柔和な態度を持つこと
六つの要素のうちの一つが欠けても健康な教会とは言えません。またこれらのうちの特定の事柄だけを強調することも教会を不健康なものにしてしまいます。ユアチャーチの日曜日の礼拝でのメッセージでは、これからのことをバランスよくお話ししていきます。聖霊がこれらを私たちのうちに可能にしてくれます。来年も「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和」を追い求めて行きましょう。
3. 私たちに与えられている働き(テモテへの手紙 II 4:1,2)
神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。
テモテはパウロにこう命じられて、彼に託された人々を導いてゆきました。ユアチャーチでの牧師の役割も同じです。中心は「み言葉」を宣べ伝えることです。しかしこの言葉は狭く考えてしまいがちです。それが先にお話しした「正義」についての誤解の原因でもあります。「み言葉」=聖書でも不正解ではないのですが、もう少し広く考えてみる必要があります。聖書が言葉というとき、それは「言語」という意味を超えて、神様から人への架け橋となるコミュニケーションつまりイエスご自身こそ言葉の中心です。ヨハネによる福音書がその冒頭でこう宣言しています。「1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2 この言は、初めに神と共にあった。3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。(中略)10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」大切なこと、それは何よりもこのイエスとしっかりとつながっていることです。そして神であるイエスに従うこと、イエスの生き方、イエスの言葉にならうことです。500年前の宗教改革は聖書から離れて、人間的な伝統となってしまった教会を聖書に引き戻すために必要なことでした。しかし今、教会は、聖書の言葉にフォーカスしすぎて、ただ単純にイエスに従うことを忘れがちです。みなさんにはイエスにフォーカスする教会になってほしいと願っています。福音書のイエスの言葉にもっと親しむこと。そのイエスの眼差しを通して、聖書の他の箇所を読むことを意識して、イエスにフォーカスしましょう。今日はこの方の人としての誕生日です。
メッセージのポイント
モーセからヨシュアへ。民の指導者が交代してイスラエル民族は新しい時代を迎えました。エジプトを脱出してから40年、ようやく約束の地に入ろうとするとき、神様は世代交代を望まれました。ユアチャーチも世代交代の時にあります。若い世代が成長し、中心となって働けるようになっています。ユアチャーチは今も旅の途上にあるコミュニティーです。そして、そこに関わる私たちひとりひとりもそれぞれの旅を歩んでいます。このコミュニティーはそれぞれの旅を、祝福し、助け、励ますためのつながりです。
話し合いのために
1) この一年間で最も神様に感謝したいことは何ですか?
2) ユアチャーチはこの一年間でどのように成長することができたでしょうか?
子供たちのために
この一年で、楽しかったこと、悲しかったことをみんなシェアしましょう。そして導いてくださったイエス様に感謝しましょう。ユアチャーチが新しい時代を迎えつつあることも伝えられたらいいですね。やがて、今子供の教会にいる人たちがリーダーとなって、みんながイエス様と共に歩いてゆくことを助ける人になるのだというも期待されていると励ましてください。