永原アンディ
(詩篇21:1-8)
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王として歩む2017年
先週、今年の最初の礼拝で、神様は喜びと平和を約束してくださっていることを確認しました。今朝はクリスマス前にお話ししていた詩編のシリーズに戻るのですが、今日取り上げる21編は先週に引き続いて、2017年をどう歩むか?という年の初めにふさわしい内容です。ですから先週読んだイザヤ書55章とともに2017年の歩みの基本となるテキストとして時々読み返してください。去年までのように週報の1ページに1年間載せ続けることはしませんが、2017年のためのテキストとして聞いてください。
1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。】
2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い御救いのゆえに喜び躍る。
3 あなたは王の心の望みをかなえ唇の願い求めるところを拒まず〔セラ
4 彼を迎えて豊かな祝福を与え黄金の冠をその頭におかれた。
5 願いを聞き入れて命を得させ生涯の日々を世々限りなく加えられた。
6 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
7 永遠の祝福を授け、御顔を向けられると彼は喜び祝う。
8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ決して揺らぐことがない。
1. 王・祭司・預言者
さて、この詩には王と神様との関係が歌われています。ダビデという王の歌ですから、神様がどれほど王である自分に良くして下さっているかという感謝と賛美の歌です。王様のことなら自分とは関係ないと思わないで下さい。イエスに従う者の歩みは王の歩みでもあるのです。なぜそのようなことが言えるのでしょうか?旧約聖書を読むとイスラエルの社会には三種類の指導者がいたことがわかります。民を治める王、人を神とつなげる祭司、神の言葉を人々に伝える預言者です。先週のお話にあったように、イエスが生まれる前の数百年間、イスラエルはローマ帝国に支配されていました。王はいましたが、政治的な力はありませんでした。人々は救い主=メシアがダビデのような王として現れることを期待していたのです。イエスが世に現れた時、人々はその言葉と行いを見て彼を預言者と思ったのです。王族でも貴族でもなかったし、祭司の家に生まれたわけでもなかったからでもあります。王や祭司、つまり政治的権力者、宗教的権威者にとって、政治的力も、宗教的権威も恐れない預言者は脅威的な存在です。イエスは彼らにとって、イエスの直前に現れて、はっきりと権力者の罪を告発し、王によって殺されたバプテスマのヨハネ以上に邪魔な存在だったのです。イエスは預言者として、またやがて王となる革命家として期待されましたが、祭司と考える人はいませんでした。イエス自身当時の祭司たちの偽善的な態度を厳しく非難していました。しかし、イエスが十字架で死に、三日目によみがえった時、弟子たちはついに、イエスこそ完全な預言者、祭司、王だということに気付きました。そしてキリスト教会の始まりとなったのです。神様の望む王とは、神様の意思を行い民の幸せのために犠牲を惜しまない指導者です。完全な祭司とは、人々を神様に本当に結びつける者です。真の預言者とは神様の意思を誤りなく伝える者です。旧約時代も、イエスの時代も、それから今に至るまでもイエス以上の王も預言者も祭司も存在しません。
復活されたイエスは「父が私を遣わしたように、私もあなた方を遣わす」(ヨハネ20:21)と弟子たちに言われました。つまり「これから先は、人間イエスとして姿を表すことのない神様に代わって、あなた方が王として、預言者として、祭司として人々に仕えなさい」という命令です。この命令は、教会史の中で、時に誤解され、時に軽視されて、十分に果たされてきたとは言えません。それでも私たちには依然として人を神様に結びつける祭司の役割を担っています。神様の声を世界に響かせる預言者の働きを担っています。王的な役割も例外ではありません。もう一度神様が求める王とはどのようなものであるかを考えてみてください。人々のために仕える王です。イエスのような王です。人には誰にもその資質はありません。だから民がサムエルに王を求めた時、神様は「人々は私が王であることを退け人間の王を求めている。それは正しいことではないけれどするがままにさせなさい」と語られたのです。現代社会では例外的な国を除いて、形式的には主権は国民にあります。まさに一人一人が王であるはずなのに、正義は依然として隅に押しやられたままです。それは神様の思いを知らない王が多すぎるからでしょう。そのような人々の中で、私たちは神様に任命された王としてどう歩めばよいのでしょうか?私たちは私たちの周りの人々の幸せのための王としての役割があるのです。もう一度2−7(1-6)節を読んでみましょう。
2. 王の勝利、祝福、栄光
2 主よ、王はあなたの御力を喜び祝い御救いのゆえに喜び躍る。
3 あなたは王の心の望みをかなえ唇の願い求めるところを拒まず〔セラ
4 彼を迎えて豊かな祝福を与え黄金の冠をその頭におかれた。
5 願いを聞き入れて命を得させ生涯の日々を世々限りなく加えられた。
6 御救いによって王の栄光は大いなるものになる。あなたは彼に栄えと輝きを賜る。
7 永遠の祝福を授け、御顔を向けられると彼は喜び祝う。
王としての歩みには、どのような恵みがあるのでしょう?今読んだ部分に三つの言葉が出てきました。勝利と祝福と栄光です。日本語の聖書はこの勝利を「御救い」と訳しています。王の救いは敗北からの救い、すなわち勝利ですから間違いではありませんが少し抽象的です。私たちの戦いは人や、国との戦いではなく、人や国の背後にあって人々に苦しみや悲しみをもたらす罪に対する戦いです。その戦いに勝利を与えられるというのです。神様は、その権威を与えた王に最終的には勝利を与えられます。問題が大きければ大きいほど戦いは困難なものとなるでしょう。罪との戦いは泥沼のようにも思えます。罪は果てしなく人々に欲望を起こさせ、互いに争わせます。しかしイエスはキリスト教の名で他の宗教を信じる国と戦ってその国を全滅させたいと思っているのではありません。イエスの敵は異教徒でも、社会主義でも、他の文化でもありません。イエスの挑んだ敵は罪と死です。そしてイエスは、それらに十字架の死と復活により勝利したというのが聖書の教えるところです。ダビデの感じた勝利はイエスの時になって初めて現実となったのです。ダビデ自身の晩年は穏やかでしたが、それ以降の王にとっては心の休まる時はなく、国はだんだん滅亡へと向かっていったのです。私たちは十字架と復活を知っているので体験的にその勝利の味を知っています。自由になって従う者に満足と喜びが与えられていることを私たちは体験的に知っています。私たちの日々を神様が豊かに祝福していてくださることを知っています。その勝利、祝福、栄光は王だけのものではなく、王の民に及ぶのです。そして与えられた祝福が、周りの人々に栄光の輝きとして伝わるのです。それこそが王としての歩みです。
3. 王は主により頼む
8 王は主に依り頼む。いと高き神の慈しみに支えられ決して揺らぐことがない。。
王は誰にも助けを求められない、自分の力で自分の責任を果たさなければならないような孤独な存在ではありません。私たちの揺るがない絶対の自信は、私たちを世に遣わされた方から来るものなのです。心が揺らぐのは、能力が足りないからではありません。経験が不足しているからでもありません。罪深く、聖くないからでもありません。神様がともにいてくださることを疑っているからです。あなたが王として堂々と正しく歩むためには、主に依り頼む他に方法はないのです。私たちの礼拝はここにいる人が皆、主に依り頼むことを知るためにあるのです。理論的な講義はこれでおしまいです。これから実際に神様に近づき親しく語り合う体験をしていただきます。これから何曲か歌を歌います。神様をほめたたえる、いわゆる賛美をするためではありません。カラオケのようにストレス解消するためでもありません。私の信じる神様はすごいぞと誰かに自慢するためでもなければ、自分が霊的にハイになるためでもありません。私たちは、ただあなたが神様に近づくために、歌うこと自体が目的ではありません。この時間を提供しているのです。3節にあったように、王の心の望みをかなえ唇の願い求めるところを実現してくださる神様に表現してください、語りかけてください。歌いながら耳を澄ませてください。聞いて下さい。
メッセージのポイント
神様が求められた王の資質は、人を支配することではなく、自分自身が神様に服従し、与えられた権威を人々のために正しく用い、人々の幸せのために自己犠牲を厭わないことです。イエスだけがその資質を持った者として生きた唯一の存在です。イエスのように生きるとは、王の態度で生きるということです。私たちは不完全ですが、聖霊の助けによって王として歩むことができます。
話し合いのために
1) 私たちはどのような意味で自分を王と言えるのでしょうか?
2) 王として一番大切な態度はどのようなことなのでしょうか?