Albrecht Dürer [Public domain], via Wikimedia Commons
池田真理
(ルカによる福音書22:39-46)
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イエス様の恐怖
今日読むルカによる福音書22:39-46は、ゲッセマネGethsemaneの祈りとして知られています。イエス様が、逮捕を目前にして神様に助けを求めて祈っている場面です。イエス様は自分の恐怖を隠さず、神様に打ち明けています。読んでいきましょう。
39 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。40 いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。41 そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。42 「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」〔43 すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。44 イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。〕45 イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。46 イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
1.イエス様の恐怖
a. 精神的・肉体的な苦痛
イエス様はこれまで、自分が逮捕され殺されることを知っていて、弟子たちにそう予告してきました。前回も前々回も、最近読んできた箇所の至るところで、イエス様が弟子たちとの別れを意識していると分かりした。でも、今日のイエス様は少し違います。弟子たちから少し離れて、一人で恐怖と戦っています。それがどんな恐怖だったのか、お話しする前に、43-44節のことを説明しておきます。「すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」この2節は、元々はなかったのに後の世の人たちが加筆した文章なんじゃないかという議論があります。だからカッコに入っていたり、注が付いていたりします。でも、多くの学者がルカのオリジナルの文章だと考えているので、私たちもそのように解釈して良いと思います。
イエス様が汗を流すほど激しく祈り、戦っていた恐怖は、「御心なら、この杯を私から取りのけてください」という言葉に表れています。「この杯」という言い方は、同じ22章の前半の聖餐式でイエス様が使っている言葉です。20節「食事を終えてから、杯も同じようにして言われた。『この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である』…」イエス様は、もし自分が死ぬ必要がなければ死にたくない、苦しまなくて済むなら苦しみたくないです、と神様に告白しているということです。
このイエス様の恐怖というのは、先週読んだ詩篇22編でより深く理解することができます。詩篇22編では、ダビデが体験していた三重の苦難が歌われていました。それはイエス様の苦難を歌っているとも言えます。神様に見捨てられ、人にも見捨てられ、暴力を受けるという苦しみです。v.1「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。」これは十字架上でイエス様が実際に叫ぶ言葉です。神様に叫んでも祈っても、助けてくれない、答えてくれないという恐怖です。そして、v.7-8「私は虫けら、とても人とは言えない。人間の屑、民の恥。私を見る人は皆、私をあざ笑う。」弟子たちはイエス様を置いて逃げ出してしまい、イエス様を助けようとする人は誰もいませんでした。無罪を擁護してくれる人はおらず、犯罪人とされて、人としての名誉も取り上げられました。そして、v.17-18「さいなむ者が群がって私を囲み、獅子のように私の手足を砕く。骨が数えられるほどになった私の体を、彼らはさらしものにして眺め、私の着物を分け、衣を取ろうとしてくじを引く。」これも実際にイエス様の身に起こった暴力です。イエス様は殴られ、鞭を打たれ、手足には釘が打ち込まれました。兵士たちはイエス様から奪い取った服をくじで分けました。
イエス様は神様であると同時に人間なので、私たちが想像しうる精神的、肉体的苦しみはすべて、私たちと同じように感じられました。十字架は、イエス様にとって精神的にも肉体的にも極限まで追いつめられる苦しみでした。イエス様はその苦しみに怯え、避けられるものなら避けたいと神様に祈りました。
b. 恐怖は誘惑
この恐怖というものは誘惑にもなります。イエス様は弟子たちに「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言いましたが、イエス様自身がそうしていると言えます。十字架の苦しみを恐れて、できることなら避けたいと願い、神様に祈っています。恐怖から逃げ出したいと思うのは人間なら自然なことです。イエス様は「御心のままに行ってください」と言いながら、それが自分に何を意味するのかを分かっていたので、苦しみ、激しく葛藤し、汗を流しながら祈りました。イエス様は私たちと同じように、恐怖の中で神様を裏切る誘惑にあっていたということです。
このことは、イエス様が神様であるという側面から考えると、私たちに希望をもたらしてくれることが分かります。イエス様が誘惑にあったということは、神様ご自身が誘惑にあったということだからです。それは、神様ご自身が私たちの弱さと無力さを同じように経験し、知っておられるということです。
2. 私たちの希望
a. 神様が神様の不在に苦しんだから
皆さんは、神様は結局いないんじゃないかという疑いを持ったことはあるでしょうか?または、神様がいたとしても、私の苦しみには無関心で、いてもいなくてもあまり関係ないんじゃないかと思ったことはあるでしょうか?私は、友達が自ら命を絶ってしまった時、そう感じました。彼女が死ねてしまったことが、許せませんでした。神様がいるなら、彼女の苦しみを知っていたはずなのに、なぜ命を助けてくれなかったのか、分かりませんでした。そして、神様は良い方だと知った今でも、彼女の死だけは良いことだったとは思えません。私には分からない、神様の配慮があることは信じていますが、それでもなぜ彼女が死ななければいけなかったのか、私には答えることができません。
私は週に3回、福祉施設で働いています。そこはドメスティックバイオレンスや虐待、貧困によって家を追われてきた人たちが来るところです。そこで出会う多くの人たちの話を聞いていると、時々「この人の人生に神様が入る余地はあるんだろうか」と思う時があります。あなたのことを大切にして、愛しておられる神様がいると伝えるには、あまりにかけ離れた人生を送ってきているからです。その人の人生に自分を置き換えると、神様がいるということ、神様はあなたを愛しているということが、あまりに現実離れしているように感じてしまいます。それは幸せに生きてきた私の勝手な感じ方で、大変な人生を歩んできた人たちは私とはもっと違う仕方で、深く神様とつながれるのかもしれませんが、時々私の方が恐くなります。もしその人たちに、神様がいるなら、なぜ私はこんなに苦しまなければならなかったのかと聞かれたら、私には答えることができません。
皆さんそれぞれにも、答えが出せない問いがあると思います。問い続ける中で、神様はいないと思うこともかもしれません。でも、イエス様はその苦しみを知っています。十字架の上で、「私の神よ、なぜ私を見捨てるのですか」と嘆いたイエス様は、私たちの感じる苦しみを全て知っています。イエス様は、神様がいないと思ってしまう私たちの恐怖と絶望を知っています。そしてそれは、神様ご自身が、神様がいないという恐怖と絶望を知っているということです。神様は、神様なんていないと思われる状況の中でも、います。イエス様を通して私たちが知った神様は、答えの出ない問いを共に問い続けて、私たちと共に苦しんでくださる方です。答えは出なくても、私たちが生きている限り、神様は私たちと共に悲しみ、共に苦しみ、共に喜んでくださいます。だから私たちには希望が与えられています。
b. 「御心のままに」と祈れる
最後に、イエス様が弟子たちに与えた指示を、私たちも受け取ることができるために、どうすれば良いのかを考えてみたいと思います。「誘惑に陥らないように祈りなさい」それは、前半にお話ししたように、イエス様がその後していることを真似すれば良いのです。イエス様の祈りはどのようなものだったでしょうか?それは、自分の恐れを神様に打ち明けるところから始まりました。自分は怖いです、嫌ですと打ち明けて良いということです。自分が十字架に架けられて死ななければならないことを最初から分かっていたイエス様が、それでも「怖いです、避けられるなら避けたいです」と打ち明けています。時々私たちは、自分が不安になったり恐れを感じたりすることで、自分は信仰が弱いと自分を責めたりしますが、その必要はありません。そう感じるのは人間なら当然のことで、神様を知っているなら何の恐怖も不安もなくなるというのは幻想です。だから祈りの基本は、神様に自分の弱さを隠さず、不安を打ち明けることから始まります。
そして、イエス様の祈りの後半は、全ての祈りの結論です。「しかし、私の願いではなく、御心が行われますように。」逃げ出したくなるような恐怖と、自分の弱さの中で、それでも逃げないで神様の意志に従うということは、とても難しいことです。答えが出ない問いを問い続けるのは、虚しさとの戦いかもしれません。神様なんていないんじゃないかと思われるような状況で、それでも神様は共にいてくださるのだと信じることは、決して私たち自身の力によってできることではありません。それは神様が私たちに聖霊様を与えてくださって、神様を信頼する力を与えてくださることによってのみ、できることです。イエス様にすら、天使が現れて励ましたと言われています。私たちも、自分の弱さを隠さずに、恐れと不安を打ち明けたら、あとはただ聖霊様を待ちましょう。必ず、それでもあなたは良い方で、あなたの意志に従いたいという願いを起こしてくださいます。
弟子たちは、この大事な場面で寝てしまったとありました。イエス様が最も苦しまれている時に、それに気が付かないで居眠りしてしまうとは情けないと思いますが、それが私たちの現実でもあります。神様が最も苦しまれている現実に気が付かないということです。弟子たちはイエス様に別れを告げられて、悲しんでいたかもしれませんが、一番悲しみ、苦しんでいたのはイエス様でした。私たちも、自分の苦しみによって、神様の苦しみに気が付いていないかもしれません。神様がいないと思われる状況の中でこそ、一番苦しんでいるのは神様であると知りましょう。そこに、私たちの希望があります。
メッセージのポイント
祈っても願っても助けは来ないという恐怖を、イエス様は知っています。そこで私たちが感じる弱さと無力の全てを、イエス様自身も体験しました。だから私たちは、イエス様を通して、私たちの弱さと罪が全て神様には知られていて、その上で赦され、愛されていることを信じられます。神様がいないと思われる状況の中でこそ、一番苦しんでいるのは神様であると知りましょう。
話し合いのために
1) 誘惑とは何ですか?どのように乗り越えられますか?
2) 神様が神様の不在に苦しんだとはどういうことですか?
子供たちのために
イエス様が自分の恐怖を神様に隠さなかったという点に注目してみてください。イエス様は完全に神様であると同時に、完全に人間でもあるので、(このことは矛盾しているようですが、人間には理解しきれない神様の真理です。)人に見捨てられる悲しみも、暴力を受ける痛みも、私たちと同じように感じました。恐怖のあまりに汗を流して苦しんで祈るようなことは、神様らしからぬ姿かもしれません。でも、それが私たちの信じている神様で、イエス様という方です。そして、だから私たちも自分の弱さを隠さずに、神様に叫んだり疑問をぶつけたりしていいのだと教えてください。(イエス様が神様から見捨てられたという点は、子供達には難しいと思うので、話さなくていいと思います。)