池田真理
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イエス様は私たちと共に歩まれている
(ルカによる福音書24:13-35)
“エマオへの道をゆくイエスと二人の弟子たち” (1571)
ピーテル・ブリューゲル作, フィリップ・ガルによって没後に版画化されたもの
ルカによる福音書もいよいよ終わりが近づいてきました。前回に引き続き、今日読む箇所もイエス様が復活された後の出来事の一つです。女性達が空になったイエス様のお墓で天使たちに会った、その同じ日のことです。最初に13-24節を読んでいきましょう。
1. イエス様が見えているのに見えていない(13-24)
13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、14 この一切の出来事について話し合っていた。15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
クレオパという人ともう一人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かっていました。エマオまでは60スタディオンと言われていますが、これは約11kmです。(英語では7マイルと換算されて書かれています。)徒歩で2時間くらいの距離なので、当時の人たちにとってはそんなに遠くない距離です。この二人は恐らくエマオの出身で、イエス様や他の弟子たちと一緒にエルサレムに来ていました。でも、イエス様が十字架に架けられてしまい、11人の弟子達も隠れてしまったので、仕方なく家に帰ることにしたのだと思います。その帰り道の途中、イエス様が彼らの旅に加わりました。でも、彼らはそれがイエス様だと全く気が付いていません。自分のことについて話している弟子達に「何を話しているのか」と聞いているイエス様は、少しいじわるな感じがするかもしれません。でも、イエス様は正体を隠して彼らに近づいているわけではありません。イエス様の方は何も隠していないのに、イエス様に気が付かない弟子達の方が問題です。なぜ彼らはイエス様が目の前にいるのに、イエス様だと分からなかったのでしょうか?それは、彼らが神様に失望し、悲しみに支配されていたからです。彼らがここでイエス様に言っているのは、彼らがイエス様に勝手な期待をかけていて、それがイエス様の死によって裏切られてしまったということです。19節「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。」21節「わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。」彼らは神様がイエス様を政治的なリーダーとして送って下さったのだと信じて期待していました。彼らの願いは、異民族の支配から解放されて自由に神様を礼拝することです。それは切実な願いでした。それ自体は間違っているわけではありません。でも、彼らはその願いにとらわれて、神様が何を望んでおられるのかを考えていませんでした。だから彼らは、イエス様が死なれてしまった時、自分たちの期待が裏切られ、神様に裏切られたかのように感じてしまいました。そして、女性たちの言ったことも理解できず、失意と悲しみの中にいました。
私たちも、神様に期待して、それが裏切られて悲しみ、神様に失望します。それが、私たちもクレオパたちと同じように、一緒にいるイエス様に気が付かない理由です。イエス様は一緒にいて下さっているのに、それが分からなくなってしまう理由です。それはイエス様を信じる前も後も同じです。初めてイエス様に出会う時も、その後イエス様と一緒に歩んでいるつもりで分からなくなってしまう時も、私たちがイエス様が分からないのは同じ理由です。神様に自分の期待を裏切られたと思い、悲しみにとらわれてしまうからです。私たちは、神様に何かを願う前に、神様がどういう方かを知らなければいけません。神様は私たちの願いをなんでも叶える方ではなく、一番良いものを私たちに与えてくださる方です。私たちは、どんなに切実な願いだとしても、自分の願いよりも神様がしてくださることが一番良いのだと、信頼できるでしょうか?それは簡単なことではありません。私たちには、今すぐに神様に答えてほしい切実な願いがたくさんあります。病気を癒してほしい、安定した生活を送りたい、社会の中で正しいことが行われるようにしてほしい、これらの願いは私たちの勝手な期待ではなくて、神様に願うべき願いです。それでも、この願いが叶うかどうかだけで神様を見ているならば、私たちは間違った道を歩んでいることになります。そして、イエス様は共にいて、叫びを聞いてくださっているのに、そこにイエス様がいると気が付けなくなってしまいます。クレオパたちはまさにそういう状態でした。イエス様の語りかけを聞きましょう。25-27節です。
2. イエス様からの語りかけ
a. 神様の計画について (25-27)
25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。
イエス様は弟子たちにあきれて、自ら話し始め、「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」と言われています。この一文は短いですが、とても深いことを言っています。神様が送られる救い主はこういう方である、と教えています。もっと単純に言えば、神様はこういう方だということです。神様は、イエス様という救い主をこの世界に送る計画を立てました。それは私たちを救い出すための計画です。私たちが何から救い出される必要があるのかは、この数週間学んできたことです。私たちは自分の罪と、罪のもたらす苦しみから救い出される必要があります。その方法は、私たちと神様の関係を回復させることだけです。私たちは罪の奴隷にならないためには、神様に属する者とならなければいけません。それは私たちの方だけが願っても、神様が許して下さらなければ不可能なことです。そして、神様は私たちを憐れんで、人間の想像をはるかに超えた方法でそれを実現して下さいました。自らが人間となって、人間の代わりに苦しむという方法です。それがイエス様であり、イエス様は神様の計画通りに救い主となりました。イエス様は、人間のために苦しむ神様です。そして、人間を救うために苦しむ救い主、メシアです。神様は、そういう救い主としてこの世界に来るということを計画していました。それほど、私たちを愛していて、私たちを失いたくなかったからです。ですから、イエス様の「メシアはこういう苦しみを受けるはずではなかったか」という言葉は、神様の愛の計画を教えるものです。そして、神様が私たちを愛して、私たちを取り戻そうと自ら動かれたということを教えています。
もう一つ、ここで分かるのは、神様の栄光についてです。イエス様は、人間の権力者のように、強い力で有無を言わせずに人々を従わせたりしませんでした。反対に、弱さに苦しみ、罪の重さを私たちと共に担われた方です。それが神様の愛でした。だから、神様の栄光とは、イエス様の弱さ、無力さ、苦しみを通して現された、神様の愛です。イエス様が死なれ、悲しみに暮れていた弟子たちも、本当はそれほど神様が自分たちを愛しているのだと知り、神様をたたえて良かったのです。でも、イエス様の復活という出来事が彼らに分かるまでは、それは人間の想像をはるかに超えていました。神様が人間にここまでよりそわれる方だということは、誰にも想像できていませんでした。
イエス様はあきれて言われています。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」これは、この弟子2人に向けてだけ言われているのではなく、私たち全てに言われている言葉です。旧約聖書の預言者たちを通して、ずっと伝えてきたのに、まだ分からないのか。神様が十字架で死なれるほど愛されているということが、まだ分からないのか。こんなに近くにいるのに、まだ見えていないのか。どうして私たちの目はこんなに見えなくなってしまうのでしょうか?それは最初にお話しした通り、自分の願いにとらわれて、神様がどういう方かが分からなくなっているからです。神様がイエス様として十字架で死なれたという計画を知っても、自分にそれがどう関係があるのかが分からなければ意味はありません。前回もお話ししましたが、私たちは一人ひとり、イエス様が自分のためにこそ死なれたのだと知らなければ、本当に神様が分かったことにはならないのです。続きの28-31節を読みます。
b. 自分の死について (28-31)
28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
イエス様が旧約聖書全体を通して神様の計画を説明したことで、二人の弟子たちの心は既に興奮し始めていました。イエス様を無理に引き止めて、家に招いています。不思議なのは、イエス様は招かれた客のはずなのに、食事が始まると家の主人であるかのようにしています。不思議ですが、二人の弟子たちもそれを既に自然なことに感じていたようです。25-27節でのイエス様の語りかけを聞いて、彼らの心には、神様の大きな計画が少しずつ分かり始めていました。悲しみと失望の中にいた彼らに、神様の愛が分かり始めていたということです。そして、そのことを教えてくれた目の前の旅人が、なぜか懐かしく、どこかで会ったことのあるような気がしていました。彼らが完全に理解するのは、その旅人がパンを裂いて彼らに渡した時でした。パンを裂くというのは、イエス様の体が裂かれて、私たちに与えられたことの象徴です。二人の弟子たちは、裂かれたパンを受け取った時、十字架で死なれたイエス様が目の前にいると分かりました。その瞬間に、イエス様は見えなくなってしまいました。ここでイエス様の言葉は記録されていませんが、パンを裂いて彼らに渡すことで、イエス様は自分の死の意味を彼らに教えていたということです。私が死んだのはあなたのためだったと語りかけられたということです。
私たちも、イエス様が私のために死なれたと分かる時、イエス様の愛と、神様の大きな計画を理解することができます。これは、もう永遠に取り消されることのない事実です。私たちを取り巻く状況は変化し、私たちの心も不安定ですが、イエス様が死なれた事実は変わりません。イエス様が私たちのために死なれたと信じるなら、私たちは神様の愛が分かっているということです。神様はぼんやりと優しい方ではなく、十字架で血を流して私たちを守られた方です。どこかで会ったことのある、温かい感じの人ではなくて、イエス様を知りましょう。イエス様を知るなら、私たちの心にはいつも喜びと希望があります。最後の32-35節を読みましょう。
3. イエス様が見えなくても見えている (32-35)
32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。
目の前からイエス様が消えて見えなくなっても、それはもうこの二人にとっては問題ではありませんでした。イエス様が生きておられるという確信があったからです。そして、イエス様が教えてくださった神様の計画と神様の愛に、彼らは興奮していました。彼らはじっとしていられず、もう夜だったはずですが、2時間の道のりを引き返してエルサレムに戻りました。彼らは他の人に伝えずにいられませんでした。自分のためにイエス様は死なれたこと、そのイエス様は生きておられること、そして、神様は私たちを愛しておられると証明してくださったこと。
私たちもイエス様に出会い、神様に愛されていることを知るなら、苦しみの中でも希望と喜びを保つことができます。自分が置かれている状況がどんなであっても、神様の愛は変わりません。悲しみの中でこそ、イエス様は共に歩んでくださっていると分かり、喜ぶことができます。そして、このことを他の人に伝えずにいられなくなるはずです。イエス様が私たちに与えてくださる喜びと希望は、私たちが自分の中だけにおさめておけるようなものではありません。どうぞ、イエス様を知ってください。そして、神様に愛されていることを、しっかり自分で確かめてください。私たちの願いではなく、神様の良いとされることを信頼しましょう。
メッセージのポイント
私たちは神様に失望して、神様が分からなくなる時があります。でも、イエス様が私たちのために死なれ、神様は私たちを愛しておられるというのは事実です。私たちが見えていないだけで、イエス様はどんな時でも私たちと共に歩んでくださっています。イエス様を信じて、心にいつも希望と喜びを持ちましょう。
話し合いのために
1) 私たちが神様に失望するのはどういう時ですか?
2) なぜ二人の弟子の心はイエス様と話して「燃えていた」のですか?
子供たちのために
子供達にも想像しやすいエピソードだと思うので、全体を話してみて下さい。(聖書の箇所は長いので全部は読まないでいいと思います。)二人の弟子たちの心は燃えていたというのはどういうことかを中心に話し合ってみてください。彼らには、イエス様が自分たちのために死なれたこと、でも復活されて、神様は最初から全てを計画されていたことを知りました。それは全て、神様が私たちを愛しているからです。神様に愛されていると本当に知るなら、私たちはどんな悲しみも苦しみも乗り越えられます。そして、そのことを他の人に伝えないでいられないくらい嬉しくなります。