2017/5/21 新しい心と霊と体

池田真理

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新しい心と霊と体 (ルカ 24:36-53)

Albrecht Dürer [Public domain], via Wikimedia Commons


  今日はいよいよルカによる福音書最後の箇所です。イエス様が死からよみがえって、弟子たちの前に姿を現しました。最初に24:36-43を読みます。


A. イエス様の新しい体 (36-43, 1コリント 15:42-43)

36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。

 聖書では、イエス様は十字架で死なれた後、三日後に復活して、まず婦人達に現れたと記録しています。その次に、今まで名前の出てこなかった、無名の二人の弟子たちに現れました。そして、やっとここで11人の弟子たちに現れました。この11人は、イエス様自身が選び、常に行動を共にしてきた重要な人たちのはずです。イエス様が十字架で死なれて、一番混乱していたのは彼らだったはずです。それなのに、イエス様は復活して最初に彼らのところに現れたわけではありませんでした。その理由は、おそらくここ数週間読んできたことと関係があります。この11人の弟子たちでさえ、自分でイエス様に会うまではイエス様の復活を信じられなかったという現実を示すためです。それが人間の限界なのだとイエス様は教えているのだと思います。私たちは誰も、死んだはずの人が生き返ったという出来事を、人から聞かされてすぐに信じられるわけがありません。自分でその人に会わなければ信じられないと思っても、当然なんじゃないでしょうか。
この11人の弟子たちは、イエス様の亡霊が現れたと思ってパニックになりました。亡霊だと思ったということは、それがイエス様だとは分かったものの、イエス様は死んだはずでここに現れるわけがないと思い込んでいたということです。そんな彼らにイエス様は、自分には手も足もあって、触れることができるだろうと話しかけます。それでも弟子たちが不思議がっているので、彼らの前で魚を食べて見せました。イエス様は、魂とか霊とかだけではなく、確かに実体のある体を持って生き返られたということです。このルカの箇所にはありませんが、ヨハネによる福音書には、十字架に架けられた時の傷跡を弟子たちに見せたという記録があります。イエス様は、確かに十字架に架けられて一度は死んだ体を持って生き返りました。その体は、手で触れることができ、食べたり飲んだりもできる体ですが、突然現れたり消えたりもできる体でした。生身の人間と同じところもあれば、違うところもあるということです。何よりも違うのは、この新しい体は死に勝った体です。死にはもう支配されず、永遠に生きる新しい体です。
この後、弟子たちはイエス様の死と復活の意味全てを理解することになりますが、私たちは少し先取りして考えたいと思います。それは、イエス様を信じるということは、私たちもいずれ、イエス様と同じように、新しい体で復活することになるということです。それは神様の計画が完全に実現する、世界の終わりの時のことです。その時には、私たちは永遠に完全に神様の愛の中に生き続けることになります。その体が死ぬことはなく、私たちの罪は完全に取り除かれ、神様を疑うこともありません。でも、私たちの個性が消えてしまうわけでもありません。イエス様に十字架の傷跡が残っていたように、私たち一人ひとりにも、それぞれ違うところに傷跡が残っているのだと思います。それは、今生きている間にそれぞれが戦っている証です。今は私たちは神様を信じては疑い、混乱することもよくあり、新しい体で復活するということはあまり想像がつきません。それがどういうふうに起こるのか、どんな体なのかについては、1コリントの15章に詳しく書かれています。ここで全体を読むことはできないので、42-43節だけ読みます。

42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。(1コリント15:42-43) 

 私たちはこの約束を信じて、限界のある体で生きながら、希望を持っています。まだ実現していなくても、約束を信じるということは、それが半分実現しているのと同じです。それに、この新しい体は、すでに私たちの心と霊が新しくされることによって始まっていると言えます。続きを読んできましょう。44-48節です


B. 弟子たちの新しい心 (44-48)

 44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
 45節には、イエス様は弟子たちに聖書を理解させるために、彼らの心の目を開いたとあります。この「心」というのは英語ではmindと訳されているように、心といっても感情や気持ちという意味ではなくて、考えや思考という意味の言葉です。イエス様は、弟子たちが十字架と復活の意味をしっかり理性的に理解できるように、彼らの考え方を改めさせたということです。それによって、死んだ人がよみがえるという普通にはありえないことを、弟子たちは理性で考え、理解できるようになりました。これは、理屈は分からないけど、胸にすっと入ってきた、という感覚的なものとは正反対です。彼らには理屈がはっきり分かりました。イエス様が復活したということが事実なら、全てのつじつまが合うと分かったということです。それはドミノ倒しの最初の一つが倒れたようなものです。最初の一つが倒れたとたん、その後ろに並べられたものが全部倒れて、全体の絵がはっきり見えます。弟子たちは、イエス様にその最初の一つを倒されて、神様の計画の全体が分かりました。それまではつながらなかった、事実の一つ一つがつながりました。
イエス様は続けてこう言われています。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。」これは具体的に聖書のどこかにこの通りの言葉があるわけではありません。聖書全体を通して、このことが言われているという意味です。神様は私たちを愛して、私たちを罪から救うためにメシアをこの世界に送る計画をしました。この計画に従って、イエス様は私たちのために、私たちの身代わりになって死なれました。そして、神様はイエス様を復活させて、私たちに罪に支配された古い命ではなく、神様の愛に導かれる新しい命があると教えてくれました。それが聖書が伝える神様の救いの計画です。
弟子たちの心が新しくされたのと同じように、私たちの心にもドミノ倒しが必要です。これまで歩んできた道のりにどういう意味があったのか、自分で見るようにではなく、神様がどう見ておられるのかを知る必要があります。そして、それによって今を知り、これからの方向を見ていく必要があります。それは、決定的に自分の考え方に欠陥があり、間違いがあるということを認めて、神様に正しい方向を示していただくということです。それが悔い改めるということで、それまでの自分の間違いを認めて正しい方向に方向転換をするという意味です。
イエス様は最後に、「あなたがたはこれらのことの証人となる」といわれています。イエス様に方向転換された人生は、神様の愛を世界に証ししていく人生です。神様は、私たちがイエス様を知る前の人生でも、実は共にいてくださっていました。私たちがそれに気がつかなかっただけです。私たちは、イエス様に出会って、神様に愛されていることを確信しました。そして、その素晴らしさを伝えていく人生を与えられました。でも、神様の計画のドミノ倒しはまだ続いています。私たちには大きな神様の計画は分かりましたが、まだ見えていない部分もあります。それは将来に限らず、過去についても、神様の愛によって照らし直されなければいけない部分があるということです。神様の愛を証しするということは、他人に神様の素晴らしさを口で伝えることだけではありません。一人一人が神様の愛を信頼することによって、つくり変えられることでもあります。むしろ、その方が大切かもしれません。私たちの中に神様の愛が生きて働いていることが、他の人にとっては一番分かりやすい神様の愛の証しです。いつも力強く、神様は素晴らしいと大声で言っている必要はありません。ただ、悲しんでいても苦しんでいても、愛されているということを忘れなければ、私たちは神様の愛の証人です。さて、とうとうルカ福音書最後の最後の箇所です。49-53節です。

C. 新しい霊の約束 (49-53)

 49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 イエス様は、弟子たちに最後の指示を与えて天に昇っていき、目に見えなくなりました。その最後の指示が、「父が約束されたもの」「高いところからの力」を待ちなさいというものでした。これは聖霊のことです。ルカ福音書は、実は同じ人物が書いた本の第1巻で、第2巻は使徒言行録です。ルカ福音書と使徒言行録の一番最初の部分を読むとそれが分かります。使徒言行録は、今読んだルカ福音書の最後の場面から始まっています。そして、その後すぐに、このイエス様の最後の指示通りに、弟子たちに聖霊が降ったという出来事を記録しています。ペンテコステと呼ばれる日です。ちょうど次回(6/4)は、今年のイースターから数えて50日目にあたり、ペンテコステになるので、せっかくなので順番通り、その使徒言行録の部分を読みたいと思っています。ですから、このことに関しては次回詳しくお話します。今は、神様の証人となるには、聖霊の力が必要だということだけを覚えておきたいと思います。
弟子たちは、復活したイエス様と出会い、神様の計画を理解して、喜びにあふれていました。それまでは家の戸に鍵を閉めて、怯えて隠れていたのに、堂々とエルサレム神殿で神様をたたえ始めました。彼らは「絶えず神殿の境内にいた」と言われています。捕まえられる危険もあったはずなのに、その恐怖よりも喜びの方が大きかったのだと思います。それほど彼らは神様への確信と喜びにあふれていたのに、それでも聖霊を待たなければいけませんでした。私たちも同じです。実は、イエス様と出会い、イエス様と共に生きていきたいという願いが起こされること自体、既に聖霊様の働きだと言えます。でも、その願いを持ち続け、神様の愛を信頼し続けるためには、私たちは自覚的に聖霊様に頼らなければいけません。私たちは、自分の力で、自分の理性や感情だけで、神様を信じられるほど強くありません。神様はそれを知っていて、私たちにご自分の霊を与える約束をしてくださいました。

今日最初にお話しした通り、私たちは今は限界のある体で、この世界を生きています。でも、イエス様に出会い、神様に愛されていることを知り、人生の方向転換をして、この世界を違うように生きられるようになりました。限界のある体でも、将来神様と永遠に生きる希望を持っています。考え方を変えられて、自分の過去を神様の視点から見直すことができるようになっています。そして、見えない神様を信じ続ける力もいただいています。イエス様が命をかけて与えてくださったのは、この新しい心と霊と体です。私たちは生きている限り、古い心と霊と体に付き合わなければいけませんが、神様は確かに毎日新しくしてくださっています。


メッセージのポイント

イエス様は新しい体で復活されました。その体は人間の体と無関係ではありませんが、決して朽ちることのない、別の体です。私たちにもその体が与えられることが約束されています。それは世界の終わりの時に、神様と共に永遠に生きるということです。それまでは限界のある体で生きていますが、体の復活を待たなくても、イエス様は私たちに新しい心と霊を与えてくださいました。それは、私たちの人生を、不安や恐れの中で生きる人生から、喜びと平和と希望に生きる人生に変える新しい力です。


話し合いのために

1) イエス様によって新しくされた心(考え方)とは?
2) なぜ聖霊が必要なのですか?


子供たちのために

復活の体のことは誤解や憶測を招きやすいので、話さなくていいと思います。不安と恐れの中にいた弟子たちが、イエス様が復活した!ということを知って、なぜこんなに喜んだのか、彼らの何が変えられたのか、話し合ってみてください。みんなにとって、イエス様がいる人生といない人生で何が違うのか、というところから話してもいいかもしれません。