2017/6/4 聖霊の働き

池田真理

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聖霊の働き (使徒言行録 2章)

Church of the Ascension (Johnstown, Ohio) – stained glass, The Holy Spirit as fire
Original photo By Nheyob (Own work) [CC BY-SA 4.0 (http://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0)], via Wikimedia Commons


 今日は教会のカレンダーではペンテコステと呼ばれる特別な日です。クリスマスやイースターと並んで、大切な日です。クリスマスはイエス・キリストの誕生、イースターはイエス・キリストの復活を祝いますが、ペンテコステは教会の誕生を祝う日と言えます。神様が聖霊として来られ、人々にその力を現しました。その力によってイエス様を信じる人々の群れは強められて、教会になりました。だから、ペンテコステは聖霊様が来られた日であり、教会の誕生日だということです。
前回まで読んできた通り、イエス様は十字架に架けられて死なれた後、3日後に復活し、その後40日間にわたって弟子たちに姿を現しました。そしてその中で、最後の指示を弟子たちに与えました。自分の姿が見えなくなったら、エルサレムにとどまって、約束された聖霊を待ちなさいという指示です。彼らが見ている前で、40日目にイエス様は天に昇って行かれ、目に見えなくなりました。彼らはイエス様の指示に従って、エルサレムで待っていました。そして、その10日後にそれは起こりました。
今日はその時何が起こったのか、それが何をもたらしたのか、読んでいきたいと思います。使徒言行録2章から抜粋して読んでいきます。最初に2:1-6です。


1. 超自然的な現象を起こした (1-6)

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。。

 日本語の五旬祭は英語ではペンテコステと言われている通り、ペンテコステはもともと単純に50日目の祭日という意味です。ユダヤ教の過越祭から数えて50日目に収穫を祝うお祭りでした。イエス様が十字架で死なれたのはちょうど過越祭の時だったので、イエス様の死と復活から50日目ということです。イエス様が天に挙げられたのは40日目なので、それからは10日後だということです。
この場面に集まっていたのは、使徒言行録の1章を読むと、11人の弟子たち以外に、120人ほどの仲間たちと婦人たちだったと書かれています。彼らはエルサレムで泊まっていた家の2階に集まっていました。おそらく、大勢の人が集まって会食できるような広い部屋だったと考えられます。
そこで起こったことは、今読んだ通り、とても不思議で超自然的な現象です。まず激しい風のような音がし、炎のような舌が人々の上に見えました。人間の聴覚と視覚でとらえることができたということです。そして、人々は外国語で話し始めました。120人もの人が一斉に別々の国の言葉で話し始めた物音は、家の外にも聞こえ、一体何事かと人々が集まってきました。家の中で彼らが話していたのは、家の外に集まってきた人々の故郷の言葉であり、意味のわからない叫びではありませんでした。11節には、それは神様の偉大さを讃える言葉だったとあります。それを聞いて、家の外に集まった人たちはあっけにとられてしまいました。
これが、イエス様が待ちなさいと弟子たちに教えていた、聖霊様によって起こされた出来事です。日本語で「せいれい」と言うと、「精霊」と書いて、自然界に宿っている霊 (spirits) や亡くなった人の魂のことを意味しますが、聖書の場合は「聖なる霊」の方です。この聖霊というのは、神様の霊、イエス様の霊とも言い換えることができます。イエス様は弟子たちに、この聖なる霊をあなたがたに送るから、その力に満たされるまで待っていなさいと教えました。そして、その言葉の通り、聖霊様が彼らの間に来られ、不思議な出来事を起こしました。人間の力でないことは誰の目にも明らかな、でも同時に人間の耳に聞こえ、目にも見える現象でした。
今日はこれから聖霊様の働きについて少しずつ考えていきたいと思いますが、最初にここで一つ確認しておきたいと思います。聖霊様に満たされるということは、人間の力ではない力、神様の力をいただくということです。人間の力ではないので、何が起こっても不思議ではありません。ここに書かれてある通りのことを神様が今私たちの間で起こそうとなさるなら、それは起こるでしょう。でも、こういう不思議なことを起こすことだけが、聖霊様の働きではありません。逆に、こういう不思議なことを人間の手で作り出して、人を騙そうとする人たちもいるので、気を付けなければいけません。そして、たとえ本当に聖霊様に満たされて不思議な経験をしたとしても、人間は弱く、それを自分の力だと勘違いして大きな過ちを犯すこともあります。神様は何でもできる力を持っていますが、私たちは罪深く、弱い人間にすぎません。私たちは、聖霊様に満たされることによって、人間の力にはできないこともできるようになりますが、それは全て私たちの力ではありません。
それでは、聖霊様がどのように私たち人間に働かれるのか、最初の弟子たちの様子から一つずつ確認していきたいと思います。少し飛ばして、14節からです。


2. イエス様について確信と願いを起こした (14-16)

14 すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。15 今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。16 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。…
 ペテロはこの後、旧約聖書のヨエル書を引用して、イエス様が全ての人のために神様が送られた救い主だということを人々に説き明かしていきます。
前回読んだように、ペテロたち弟子たちは、このペンテコステで聖霊様に満たされるより前に、復活したイエス様と出会ったことにより、すでに喜びにあふれていました。神様をたたえずにはいられなくなり、逮捕される危険もかえりみないでエルサレムに戻って、神殿で神様を賛美しました。十字架で死なれたイエス様が復活されたという事実は、それだけで彼らの心を喜びで満たしたということです。それは実は彼ら自身が気付いていなかっただけで、聖霊様がすでに彼らに働いていたからでもあります。彼ら自身が、そのことに気がつく必要がありました。イエス様を死からよみがえらせた神様は、彼らのことも新しく生まれ変えさせようとしていました。自分の力で生きるのではなく、神様の力によって生きるように変えようとしていたということです。
それが実現したのが、ペンテコステの日です。聖霊様に満たされて、ペテロたちは新しくされました。自分たちに自分の力ではない力が働いていることをはっきり知りました。普通だったら怖くなるほどの不思議な体験ですが、彼らにとっては神様が約束を果たしてくださった証でした。天にあげられて見えなくなってしまったイエス様のかわりに、今度は神様は聖霊様として共にいて下さるのだということが分かりました。この確信に促されて、ペテロは力強くイエス様のことについて人々に語り始めました。彼は、イエス様が逮捕された時には逃げ出し、「イエスなど知らない」と言ってしまい、自己嫌悪に陥って泣いていた人でしたが、聖霊に満たされて、自分のするべきことが分かったということです。するべきことというよりも、そうせずにはいられない気持ちだったと思います。ペテロは、イエス様がしてくださったことの素晴らしさと大きさを確信していました。そして、それを他の人に伝えなければいけないと思いました。
聖霊様に満たされるとは、この確信と願いを持たされることです。聖霊様は私たちに、イエス様について確信を与え、他の人にもその素晴らしさを知ってもらいたいという願いを起こします。ペテロたちのように不思議な経験をしていなくても、この確信と願いを持つとしたら、それは私たちの力ではなく、聖霊様が働いてくださっている証拠です。また反対に、一度この確信を持ったはずなのに分からなくなってしまっても、心配することはありません。私たちがすぐに迷ってしまうことをわかっていたからこそ、神様は聖霊様を送ってくださったからです。私たちは、ただ再び聖霊様に満たされて歩むことを願えば良いのです。
そして、私たちに注がれた聖霊は、私たちを通して他の人にも届くことになります。続きを読んでいきたいと思います。37節と41節を読みます。


3. 新しい霊の約束 (37,41)

37 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。…41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

 ペテロの話を聞いていた人々の多くは、恐らく50日前にエルサレムで起こった大きな事件を知っていたはずです。ナザレ人のイエスという人が十字架に架けられて処刑されたという事件です。でも、それはこの時まで彼らにとっては直接関わりのないことでした。それが、ペテロの説明によって、自分にも関係がある話なのだと分かりました。37節で「彼らは大いに心を打たれた they were cut to the heart」とありますが、英語の方が原語のニュアンスを反映しています。心を切られた、グサッときたということです。聖霊に満たされたペテロの言葉は、彼らの心にグサッと刺さりました。彼らの頭の中で、目の前で起こっている不思議な出来事と、50日前に起こった一人の犯罪人の処刑という出来事がつながりました。処刑されたイエスという人は、神様によって送られた救い主であり、今自分たちはその方の力を見ているのだと分かりました。それは、話しているのはペテロなのに、ペテロを通して神様が自分に語りかけているようだったと思います。
今から二千年前に、イエス・キリストという人が十字架で処刑されたという出来事は、歴史の教科書にも載っている事実です。でも、その事実を知っていても、その出来事が自分と直接関係があることだとは、多くの人は考えていません。皆さんの多くも元々はそうだったと思います。私も十数年前までは全く関係ないと思っていました。でも、自分とイエス様は関係があると思っている人たちから聞いた言葉が、私の心に刺さってくるようになりました。そして聖書を読みたいと思い、読み始めてみたら、たくさんの言葉がグサグサと刺さってきました。そしてそのうちに、イエス様を信じている人たちや聖書の後ろに、もっと大きなものがあると思うようになりました。信じている人たちは人間であり、聖書も人間の記した言葉なので限界はありますが、その後ろから私に語りかけているのはイエス様本人かもしれないと思うようになりました。今イエス様を信じている皆さんは、そうやって人生のどこかで誰かからイエス様のことを聞き、イエス様に出会ったと思います。
イエス様が十字架で死なれたのは私たちのためでした。そして、イエス様を復活させた神様は、私たちにも新しい命を与えてくださいました。それは、神様に愛されているという確信のもとで、神様によって生かされる人生の始まりです。続きの44節から47節を読みます。


4. 新しい霊の約束 (44-47,エフェソ3:14-21)

44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。

 聖霊に満たされてイエス様を信じた人々は、お互いの持ち物を共有して助け合うようになりました。貧しい人たちが困ることのないように、裕福な人たちは財産を売り払ったとあります。イエス様が自分を犠牲にして死なれたという事実が、彼らを変えていきました。彼らにとって自分の命はイエス様によって新しくされた命であって、もう自分のものではありませんでした。彼らは一つの目的のためにまとまりました。イエス様が自分を愛してくださったように、自分も自分を犠牲にして他の人を愛するという目的です。そして、共に神様を賛美し、互いに愛し合う集団となりました。それが最初の教会となりました。
今日これまで読んできたように、私たちは、聖霊様によってイエス様のことを知り、イエス様が自分のために死なれたという確信を与えられます。そして、そのことを他の人にも知ってもらいたいという願いも与えられます。でも、何よりも大きなことは、神様は自分を愛しておられるという確信を与えられ、その神様の愛はすべての人に向けられていると知ることです。イエス様が十字架で苦しまれたのは、自分を十字架につけた醜い人間のためでした。愛する価値のない、罰せられて当然の人間です。私たちはみんな、その人間です。イエス様を十字架につけた側にいて、イエス様に憎まれて当然の存在です。でも、イエス様は私たちを赦し、共に生きる道を与えてくださいました。神様は、ご自分がどれほど私たちのことを愛しておられるかということを、私たちが確信を持って理解できるように、イエス様として来られ、聖霊様として来てくださったということです。ですから、本当に聖霊様の力を受け、イエス様のことを知るということは、この神様の愛に生きるようになるということです。
神様がイエス様と聖霊様を通して私たちに与えてくださった新しい命とは、自分よりも他の人を愛して生きる生き方です。神様が自分を愛して下さっているように他の人たちを愛するということが、生きる目的になるということです。イエス様が自分を犠牲にして愛してくださったように、私たちも自分を犠牲にして他の人を愛する努力をします。これは一生かかっても完璧にできることはありません。でも、それが私たちに与えられた新しい生き方であり、他の何よりも求めるべき大切なことです。超自然的な不思議な体験をすることよりも、3000人を一気に回心させる力を持つよりも、ずっと難しく、ずっと地道なことで、でも最も価値のあることです。一生完璧にはできませんが、聖霊様によって、私たちはそれを喜びにできるようになります。自分の力ではできないことは最初から分かっています。聖霊様は、私たちに力を与えてくださいます。

今日は最後に、エフェソの手紙にあるパウロの祈りを読んで終わりにしたいと思います。これは私が自分に祈ることでもあり、皆さんに祈ることでもあります。エフェソ3:14-21です。

14 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。15 御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています。16 どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、17 信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。18 また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、19 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。20 わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に、21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。


メッセージのポイント

イエス様を信じた人々が聖霊に満たされたことによって、教会は生まれました。また、教会は聖霊様が働くところでなければ教会ではありません。聖霊様は、私たちにイエス様を信じる心を与え、信頼し続ける忍耐力と希望を与えてくださる方です。また、イエス様が私たちにしてくださったように、私たち自身も互いに自分を犠牲にして愛し合うことができるようにしてくださるのも聖霊様です。どんなに不思議な体験をしたとしても、イエス様への信頼と互いに対する愛がなければ、それは聖霊の働きではありません。


話し合いのために

1) どんな時に聖霊を求めるべきでしょうか?
2) 聖霊様が働いておられると感じた経験を教えてください。


子供たちのために

使徒言行録2章に書かれている出来事はとても不思議で、子供達の興味をそそるかもしれませんが、大切なのは聖霊様に満たされた人々がどう変わったかです。聖霊の働きは、超自然的な出来事も含みますが、何よりも、私たちにイエス様を信頼し愛し、互いを愛し合う力を与えるということです。イエス様が好き、と思えるのも聖霊様がみんなに働いている証拠です。聖霊様が一緒にいてくださらなければ、私たちは誰もイエス様を愛することはできません。イエス様がよく分からない、神様って本当に信じられるのか分からない、と思う時は、自分でよく考えると同時に、聖霊様の助けが必要です。このことが伝えられれば、ペンテコステの出来事そのものについては話さなくてもいいと思います。