池田真理
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イエス様によって、イエス様のために、イエス様を信じる(ガラテヤの信徒への手紙1:11-24)
「人民の、人民による、人民のための政治」、皆さん、聞覚えはあるでしょうか?私はこれがリンカーンの言葉だということは覚えていましたが、細かいことは忘れていました。調べ直してみたら、アメリカ南北戦争中に、エイブラハム・リンカーン大統領が行った有名な演説の言葉でした。今日は、パウロの言葉から、このリンカーンの言葉とリンクする私たちのシンプルな信仰のあり方をお話ししたいと思います。イエス様によって、イエス様のために、イエス様を信じる信仰です。私たちは誰でも放っておけば必ず、自分による、自分のための信仰になってしまいます。特に、今日のパウロの言葉からは、イエス様を信じる信仰が私たちの考えているよりもっと徹底的に、私たちの力によるのではなくイエス様の力によるのだということが分かります。最初に11-14節を読みます。
A. イエス様によって
1. 私たちは誰も自分の力でイエス様に出会ったのではない
(11-14, フィリピ 3:5-7)
11 兄弟たち、あなたがたにはっきり言います。わたしが告げ知らせた福音は、人によるものではありません。12 わたしはこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです。13 あなたがたは、わたしがかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。14 また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。
パウロはここで、自分がイエス様に出会う前にどのように生きていたかを説明しています。それは、もう一度ガラテヤの人たちに、自分は自分の力でイエス様に出会ったのではなく、イエス様の方から出会ってくださったのだということを言いたかったからです。そして、ガラテヤの人たちにもそのことを思い出してもらいたいと思っていました。パウロはもともと、イエス様に従う人々を徹底的に迫害していました。自分はユダヤ人の中でも特に熱心なユダヤ教徒だったと言っています。彼は、ユダヤ人であること、ユダヤ教を信じていることにとても誇りを持っていました。そして、キリスト教徒を迫害することに何の迷いも疑いもありませんでした。先週も少しお話ししましたが、当時はまだキリスト教はユダヤ教の一部としか思われておらず、彼らはユダヤ教に反することをしていると思われていたからです。パウロの誇りは、別のパウロの言葉からも分かります。フィリピ3:4b-7を読んでみましょう。
フィリピ3:4b-7 だれかほかに、肉に頼れると思う人がいるなら、わたしはなおさらのことです。5 わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、6 熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした。7 しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。
私たちは、自分がイエス様と出会う前のことを思い出すと、自分は罪を知らず、自己中心的で間違った生き方をしてきたと後悔すると思います。でも、パウロは少し違います。パウロは、自分が熱心なユダヤ教徒だったことを少しも後悔はしていません。自分が律法にのっとって赤ちゃんの時に割礼を授けられたことも、純血のユダヤ人であったことも、厳格なファリサイ派に属していたことも、彼にとって何も恥じることではありませんでした。そして、キリスト教徒を迫害し、律法を守る生活に自分の全てを捧げていたことさえも、罪悪感にさいなまれていたわけではありません。もしそうだとしたら、激しくキリスト教徒を迫害していた自分を責め続け、罪滅ぼしに一生を費やしてもいいくらいだったはずです。でも、パウロの手紙のどこにも、そんなことは書いてありません。パウロはイエス様と出会って、過去に自分が一生懸命信じていたものや誇りに思っていたものが、もはや何の価値もないものだと分かりました。そして、過去の自分の行動が間違いだったことも分かりました。でも、それはイエス様が教えてくださらなければ分からなかったことで、自分には知りえなかったのだから仕方がないのだと割り切ってたということです。キリスト教徒は間違っていると信じて疑わなかった昔の自分に、自分の力でイエス様を信じるなんてことが到底不可能だったことを、彼自身が一番よく分かっていました。パウロは、イエス様を信じるなんて自分には無理だったと分かっていたということです。だから、それにもかかわらず、イエス様の方から一方的に自分に出会ってくださったということは、神様の恵み以外の何ものでもなく、自分の力ではないと確信していました。
イエス様に出会うということは、パウロだけでなく、私たち全てにとって、最初から自分の力では不可能なことです。私たちは確かに、イエス様に出会い、自分が自己中心的に生きてきたこと、それによって他の人々を傷つける生き方をしてきたことを知りました。それが私たちの罪だということも教えられ、同じ過ちを繰り返さないように、イエス様に従う生き方を始めました。そこには確かに私たちの自覚的な反省と後悔があります。そして、イエス様を信じていても、相変わらず自分は小さいと思い、情けないと思い、神様に助けてくださいと求めます。それは悪いことでは全くありません。でも、パウロに言わせるなら、だからこそ、私たちがイエス様に出会ったのがすごいことなんじゃないか、ということです。私たちには最初から、イエス様を知る能力もなかったし、イエス様を信じ続ける力もありません。イエス様はヨハネによる福音書の中で、「あなた方が私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ」と言われました。(ヨハネ15:16)私たちがイエス様を選んだのではなく、イエス様の方が私たちを選んでくださったということです。パウロはそのことを誰よりも劇的な形で経験しましたが、それは誰にでも共通する経験でもあります。パウロも私たちも、自分の力でイエス様を見つけたのではなく、イエス様の力によって、ある意味では強制的にイエス様のことを知らされたということです。それは、私たちが他の人より何かが優れていたのではなく、ただただ神様の謎であり、神様の恵みです。
続くパウロの言葉からは、私たちの信仰が私たち自身の力ではないのと同時に、誰か他の人の力によるものでもないということが分かります。15-21節を読みます。
2. 他の人の力によるのでもない (15-21)
15 しかし、わたしを母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召し出してくださった神が、御心のままに、16 御子をわたしに示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされたとき、わたしは、すぐ血肉に相談するようなことはせず、17 また、エルサレムに上って、わたしより先に使徒として召された人たちのもとに行くこともせず、アラビアに退いて、そこから再びダマスコに戻ったのでした。18 それから三年後、ケファと知り合いになろうとしてエルサレムに上り、十五日間彼のもとに滞在しましたが、19 ほかの使徒にはだれにも会わず、ただ主の兄弟ヤコブにだけ会いました。20 わたしがこのように書いていることは、神の御前で断言しますが、うそをついているのではありません。21 その後、わたしはシリアおよびキリキアの地方へ行きました。
パウロがここで、自分はイエス様と出会ってからエルサレムにすぐ行ったわけではないし、3年後に行った時も2週間しか滞在しなかったと弁解しているのには理由があります。彼は本当に使徒なのか、本当に正しいことを教えているのか、疑われていました。それに対してパウロは、自分が伝えている福音は、自分がイエス様から直接与えられたのであって、他の誰かに教えてもらったのではないと言おうとしています。彼は不思議な方法でイエス様に直接呼びかけられ、それまでの人生を180度変えられる体験をしました。それは彼自身にとってだけでなく、彼の家族やユダヤ人の仲間たちにとっても衝撃だったはずです。でも彼は、自分の人生の方向転換を、近しい人に相談することはなかったと言います。また反対に、すでにキリスト信者として知られていた人たちのところに相談に行くこともしなかったと言います。
私たちがイエス様と出会う時も同じです。イエス様と出会うというのはとても個人的なことで、他の誰かに意見を求めるようなものではありません。自分がイエス様のことをどう思うかが重要なのであって、他の人がイエス様のことをどう思うかは最終的には関係ありません。他の人がイエス様のことを大好きだとしても、反対に自分にはよく分からないと言ったとしても、私たちは自分の態度は自分で決めなければいけないということです。これは最初にお話しした、私たちはイエス様の力によってのみ信じるのであって、自分の力で信じるのではないということと矛盾するようですが、そういうわけではありません。イエス様を信じたいという気持ちを起こすのは、私たち自身ではなくて、神様だからです。私たちは、信じたいのに信じられない、疑ってしまうという時がありますが、そういう時でも信じたいという気持ちがあることに救われます。それは、自分の状態がどうであれ、神様が共にいて下さっている証拠です。
ただ、信じたいという気持ちを確認するのは個人的なものだとしても、それをずっと一人でしなければいけないわけでもありません。使徒言行録9章を読むと、パウロの行動がもう少しだけ詳しく分かります。パウロが誰にも相談しなかったと言っても、本当にたった一人で単独行動をしていたわけではありません。最初に彼を導いたアナニアという人がいましたし、ダマスコには彼より先に信じている仲間たちがいました。また、自分でも言っていますが、信じてから3年後には自分からペテロと知り合いになろうとしてエルサレムに行きました。エルサレムにはイエス様の兄弟だったヤコブもいました。ペテロやヤコブは、その頃には信者たちの指導者として尊敬されていたようです。パウロはそういう人たちとのつながりも必要ないと思っていたわけではありません。同じイエス様を慕う先輩として、会いたいと思うのは自然なことでした。パウロも、イエス様を信じるという決心は自分一人で行いましたが、同じ決心をした友人たちとのつながりは大事にしたということです。
でも、どんなに尊敬されている信仰の先輩でも、人間であることには変わりありません。ペテロにもヤコブにも、特別な力や権威が神様から与えられているわけではありませんでした。彼らと友人として励ましあうことはできても、彼らが神様と自分の間を取り持てるわけではありません。パウロはそのことをガラテヤの人たちに分かってもらいたいと思っていました。イエス様と直接行動を共にしていたわけでもなく、それどころか迫害者であったパウロのことを疑う人たちはたくさんいました。それでもパウロは、堂々とペテロやヤコブという先輩たちと自分を対等な立場だと思っていました。そして実際そうだったのですが、これはパウロが人間の評価ではなく、イエス様にだけ信頼をおいていたからできたことです。
私たちも、私たちを選んで出会ってくださったイエス様をもっと信頼できるんじゃないかと思います。そうすれば、人の評価に振り回されることなく、健康な人間関係の中でお互いを励ましあえます。
それでは最後に、22-24節を読みたいと思います。
B. For Jesus (22-24)
22 キリストに結ばれているユダヤの諸教会の人々とは、顔見知りではありませんでした。23 ただ彼らは、「かつて我々を迫害した者が、あの当時滅ぼそうとしていた信仰を、今は福音として告げ知らせている」と聞いて、24 わたしのことで神をほめたたえておりました。
今でこそ、パウロはキリストのことを宣べ伝えた人としてよく知られていますが、当時は無名の人です。今読んだように、最初は「かつて迫害者だった宣教者」として知られたのかもしれません。迫害者が宣教者になったという驚きは、多くの人を励ましたはずです。パウロ自身にとっても、今日最初にお話しした通り、自分に起こったことは100%予期しなかった驚きであり、神様の力でした。人間には不可能なことを神様は可能になさったという驚きです。パウロだけでなく、一人の人がイエス様を信じるということはそういうことです。私たちがイエス様を信じるのは、神様の働きです。私たちには不可能なことを神様がなさるということです。パウロにとっても、このことが一番重要でした。自分が変わったことによって、自分がほめられるのではなく、自分を変えた方がいるのだということを伝えたかったのです。パウロは、迫害者としての過去の自分を振り返って、なんてことをしてしまったんだろうと思う時もあったかもしれません。でも、そういう時は同時に、それにもかかわらず自分の中に生きて働く神様の力に圧倒されて、その喜びを伝えずにはいられなかったのだと思います。そして、自分のその後の人生すべてをイエス様のために用いました。パウロがそうできたのは、自分の人生は自分で変えたのではなく、イエス様によって変えられたと確信していたからです。
私たちは、自分を変えた、変えることのできるイエス様を、どれほど信頼しているでしょうか。たぶん、その信頼によってしか、私たちは自分をイエス様にささげることはできません。自分には信じる力はないと知ることは、がっかりすることですが、だからこそそれでも信じたいという願いが与えられることが自分の力ではないということが分かります。そして、その願いによって、私たちは自分の人生の目的を自分自身ではなく、イエス様に置くことができます。自分の力をとことん放棄して、イエス様によって生きることによってしか、イエス様のために生きることはできないということです。どうぞ、自分に語りかけるイエス様に耳を傾けてください。そして、その語りかけに自分はどう応えたいのか、他の人とは関係なく、自分自身に聞いてみてください。それが、イエス様によって、イエス様のために、イエス様を信じる信仰です。
メッセージのポイント
パウロは、自分自身がどのようにイエス様を信じるようになったかを振り返り、それは自分の力では絶対に不可能だったと確信していました。私たちがイエス様に出会い、イエス様と共に人生を歩めるのも、私たち自身の力によるのではなく、神様がそうする力を下さったからです。私たちには信じることが不可能でも、神様は可能にしてくださいました。私たちは神様の力が私たちの中で働いていることを共に喜ぶために生かされています。
話し合いのために
1) パウロはなぜここで自分の過去を振り返っているのでしょうか?
2) イエス様のために生きることは、どのような喜びを私たちに与えてくれますか?
子供たちのために
パウロがどのようにイエス様を信じるようになったのか、使徒言行録9章も参考に紹介してください。でも、パウロの経験はとても劇的で、子供にとっても分かりやすいエピソードだと思いますが、実はみんなも同じなんだということを強調してください。私たちがイエス様を信じるとしたら、それは神様の力によることであって、パウロほど劇的でなかったとしても、不可能が可能になったという意味では同じです。神様はパウロに呼びかけたように私たちにも呼びかけてくださっていますし、イエス様のことを教えてくださるのも神様です。