永原アンディ
❖ 見る
❖ 聴く
第一礼拝 (日本語)
第二礼拝 (日本語 / 英語)
赦しの使者(詩編32編)
詩編の詩人は、私たちの人生の歩みの先生です。学校の先生に対して、自分と先生の間の年の差や生活環境の違いによって受け入れられないこともあったはずです。詩編の詩人は、皆さんの学校にいた時の先生よりももっと違う時代に生まれ、環境に育った人々ですから、わかりにくいところがあっても当然です。しかし決して学ぶところが少ないわけではありません。今日の詩編も詩人の実体験を通して、より良く生きる秘訣を教えてくれています。この詩はとてもわかりやすい構造を持っています。「1-a 今、私は神様に背いて生きてきたことを赦され、神様に受け入れられていてとても幸せです。1-b 私が以前、神様に背を向けていた時は辛さで押しつぶされそうでした。1-c そんな状態に耐えられず、神様に自分の罪深さを打ち明けると、神様は私を受け入れて下さったのです。2-a 神様は、私にそうして下さったように、あなたのことも赦し、受け入れて下さいます。2-b どうか、あなたも心の向きを神様の方へと変えて、何があっても変わらない喜びを手に入れて下さい。」というものです。順番に読んでいきましょう。
1. 幸いな人になる
a) 赦しがもたらす喜びと平和 (1,2)
1【ダビデの詩。マスキール。】いかに幸いなことでしょう
背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。
2いかに幸いなことでしょう
主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。
詩人は幸せを感じています。多くの人は幸せな状態を欲しい物事を持っていることだと勘違いしています。反対に、不幸の原因を物事が思い通りにならないことだと思っています。そして、その考え自体が幸せになることを邪魔していることに気づいていません。詩人はひどい苦しみの時を通して、不幸の本質は神様との断絶だと気付いたのです。この気付きがきっかけとなって、彼は永遠の安らぎをえることができました。それはここに書かれているように、神様に背きを赦され、罪を覆っていただいたからです。罪はなくなるのではありません。神様は覆いをかけてそれを見ないことにして下さったのです。2節ではそれを言い方を変えて、あなたの問題を神様は数えないことにしてくださった、と言っています。神様を信じてからも、背きやすい性質は健在です。それによって人を傷つけてしまうこともあります。ですから「心に欺きがない」とは、道徳的に完璧ということではなく、神様に心を開いてなんでも打ち明けられることです。詩人も私たちもそれが出来ていなかったから苦しかったのです。次の3、4節にはその様子が記されています。
b) 背きのもたらす苦難 (3,4)
3わたしは黙し続けて
絶え間ない呻きに骨まで朽ち果てました。
4御手は昼も夜もわたしの上に重く
わたしの力は
夏の日照りにあって衰え果てました。〔セラ
なんで詩人はこれほどまでに苦しかったのでしょうか?この部分から多くの学者が、詩人は重病だったのだろうと推測しています。そうだったかもしれません。しかし、今日注目したいのは「黙し続けて」です。聖書には詩人の他にも「黙し続けて」苦しんだ人が沢山紹介されています。カインはその献げ物が神様に喜ばれなかったので「激しく怒って顔を伏せ、あげることができませんでした」。(創世記4)姦淫の罪の女性を石で撃ち殺そうとしていた人たちは、イエスに「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」と言われて黙って去ってゆくしかありませんでした。(ヨハネ8)ユダは、イエスに裏切りを指摘されて黙って出て行きました。(ヨハネ13)これらの人々は、その後も思いを隠し続けて苦しみ続けました。その場で「背いていました、赦してください」と言えていたら、この人たちの人生も違ったものになっていたはずです。
しかし詩人は、これらの人々とは違った行動をとりました。5-7節を読みましょう。
c) 赦されるために必要な告白 (5-7)
5わたしは罪をあなたに示し
咎を隠しませんでした。わたしは言いました
⌈主にわたしの背きを告白しよう⌋と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを
赦してくださいました。〔セラ
6あなたの慈しみに生きる人は皆
あなたを見いだしうる間にあなたに祈ります。大水が溢れ流れるときにも
その人に及ぶことは決してありません。
7あなたはわたしの隠れが。苦難から守ってくださる方。救いの喜びをもって
わたしを囲んでくださる方。〔セラ
幸せな人とは神様との関係を、親密に、健康に保っている人です。そのためになすべきことは単純です。神様に告白することです。詩人は決心しました。⌈主にわたしの背きを告白しよう⌋と。そのとき、神様は詩人の罪と過ちを赦してくださいました。
この点で、宗教改革以前、教会は過ちを犯して来ました。「赦されるために、神様でなく教会の指導者のところに行って罪を告白しなさい」と教えたのです。今でも罪を犯したら、その一つ一つをあなたのリーダーに告白しなければならないと命じているグループがあります。それはカルトです。教会の権威を、神の権威ではなく自分の権威だと勘違いしている指導者はキリストの僕ではなく、カルトリーダーです。告白を求めるのは神様ご自身であり、それはあなたと神様との対話の中でなされルことです。神様と対話するとしても、細大漏らさず一つ一つ告白しなければいけないということではありません。ですから、日記に、本日の罪の詳細を記録しようと考えてはいけません。そんなことは多すぎてキリがないし、第一、神様はそんなことを求めているわけではないのです。棘のように痛みを残す過ちを告白することには意味がありますが、最も必要なのは、自分の持つ罪の性質、自己中心性を隠さず示し、「私はこのような人間ですが、どうか正しく導いてください」と申し上げることです。それはどこで起こるのでしょう?礼拝です。私たちが礼拝を何よりも大切にするのはこのためです。もうほとんど誤解する人はここにはいないと思いますが、礼拝とは日曜日の朝の集まりのことだけをいうのではありません。いつでも、どこでも、誰とでも、一人でも捧げることのできる神様と過ごす時のことです。そこで、ありのままの自分を神様の前に差し出しましょう。あなたはそこで、赦されている、受け入れられている、愛されているという喜びに満たされるでしょう。
2. 幸いな人はイエスを独占できない
a) 神様の忠告 (8,9)
8わたしはあなたを目覚めさせ
行くべき道を教えよう。あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。
9分別のない馬やらばのようにふるまうな。それはくつわと手綱で動きを抑えねばならない。そのようなものをあなたに近づけるな。
この部分は、神様の言葉なのか、詩人が人々に言っているのか、議論のあるところです。何れにしても、オリジナルは神様の思いであり、それが詩人の口を通して発せられたものです。9節の意味はそのままでもわかりやすいとは思いますが、少し突き放した言い方だと感じませんか?
イエスなら、このことをこう表現します。
疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:28-30)
誰でもイエスの前に出て、重荷を降ろし、魂の憩いを得ることができます。まだ幸いを得ていないと思うなら、イエスのもとに進みでることをお勧めします。ここには多くのすでに重荷を降ろした人々がいます。その皆さんには、この詩人のように喜びを表現し、人々に伝える人になっていただきたいのです。詩人は次のような言葉でこの詩を閉じています。最後の10,11節を読みましょう。
b) 伝える者になろう (10,11)
10神に逆らう者は悩みが多く
主に信頼する者は慈しみに囲まれる。
11神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ。
10節はこの詩の教える真理を簡潔な言葉で表現しています。単純ですが、私たちはこのことを何度も繰り返し自分の心に言い聞かせる必要があります。私たちはそれほど強くも賢くもないからです。最後の一節で詩人は、自分と同じ喜びを知った人々に呼びかけています。「神に従う人よ、主によって喜び躍れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声をあげよ」イエスは私たちの愛する人々に、自分を紹介してほしいと願っていますが、それは義務とか、命令ではありません。人にイエスを伝えることは、あまりにも嬉しくて踊ってしまう、歌ってしまう、叫んでしまうことの延長線上にあることなのです。誰かにイエスを紹介したいと思うなら、自分の喜びを素直に表現することです。礼拝は、この喜びを表現するときでもあります。今朝も心から主に礼拝を捧げましょう。
メッセージのポイント
幸、不幸は神様との関係によって決まります。自分が何を持っているかとか、何ができるかによるものではありません。イエスは神様とあなたとの関係を修復するために来られました。イエスによって神様との関係を修復された者は、心の喜びを分かち合いたくてイエスを誰にでも紹介したくなります。
話し合いのために
1) どうしたら心を平安に保つことができますか?
2) 赦しとは何ですか?
子供たちのために
心がどんな時の喜んでいるか?悲しんでいるか?怯えているか?怒っているか?聞いてみてください。少し上の子達なら、幸せとは何かを聞いてみてもいいでしょう。イエスと親しくなることが喜びの秘訣であることを伝えてください。そしてどうしたらイエスの友達になれるか考えてもらいましょう。