池田真理
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神様の約束を信じる (ガラテヤ 3:15-25)
ガラテヤの手紙を読んできていますが、律法の問題がずっと続いていて、少々疲れてきませんか?こんなにずっとこの問題について考えなければいけないのか、私自身、正直に言って「まだ続くのか」とちょっと思ってしまいました。でも、この手紙が聖書に収められているのには理由があります。私たちにはユダヤ人の律法そのものには関係がありません。でも、パウロがこの問題についてしつこく議論をしなければならなかった理由は、私たちにも関係があります。それは、ガラテヤの人たちも私たちも、神様の約束を信じない性質があるという点で同じだからです。人間は、いつの時代も、どの文化でも、この罪の性質を持っています。そしてそのことを自覚しなければ、簡単に神様から離れてしまいます。だから、このガラテヤの手紙は聖書に収められているのであり、私たちも自分たちの問題として聞く必要があります。それでは最初に15-18節を読んでいきましょう。
A. 神様の約束
1. 神様の約束を信じない私たち (15-18)
15 兄弟たち、分かりやすく説明しましょう。人の作った遺言でさえ、法律的に有効となったら、だれも無効にしたり、それに追加したりはできません。16 ところで、アブラハムとその子孫に対して約束が告げられましたが、その際、多くの人を指して「子孫たちとに」とは言われず、一人の人を指して「あなたの子孫とに」と言われています。この「子孫」とは、キリストのことです。17 わたしが言いたいのは、こうです。神によってあらかじめ有効なものと定められた契約を、それから四百三十年後にできた律法が無効にして、その約束を反故にすることはないということです。18 相続が律法に由来するものなら、もはや、それは約束に由来するものではありません。しかし神は、約束によってアブラハムにその恵みをお与えになったのです。
ここでパウロが議論しているのは、神様がアブラハムにした約束の方がモーセを通して与えられた律法よりも先だという問題です。430年というずいぶん具体的な数字が書いてありますが、これは旧約聖書のある箇所で書かれている数字です。パウロは、神様がアブラハムに「あなたとあなたの子孫を祝福する」という約束をした時、律法はなかったと強調します。祝福の約束は、律法とは関係なく与えられたのだということです。それなのに、なぜ律法を守らないと祝福は約束されないというのか、おかしいじゃないか、と言っています。律法を守らなければ祝福されないのであれば、最初の無条件の祝福の約束はなかったことになります。そんなはずはないでしょう、というのがパウロの主張です。これは私たちにも分かりやすい説明だと思います。
でも、この分かりやすいことでも分からなくなってしまうのが、私たち人間の現実です。神様が無条件で私たちを愛してくださり、無条件で祝福すると約束してくださっていることを、そのまま信じ続けることは私たちにとってとても難しいということです。下品な言い方をすれば、そんなうまい話があるわけがないと、思ってしまうのが私たちの罪の現実です。いつの時代もどの文化でもそうです。人間の罪の感覚では、条件がある方が分かりやすく、公平な取引であると感じます。だから、神様の祝福を受けるためには、それに見合った条件を満たさなければいけないと考えます。それが、ユダヤ人にとっては律法というものでした。私たちには、律法ほどはっきりしたものはないかもしれませんが、自分で自分を縛っているルールはたくさんあると思います。あとでお話しすることになりますが、「◯◯しなければいけない」「◯◯してはいけない」というものがそれです。正しい行動、道徳的に良いことというのは、参考にはなりますが、神様の祝福を小さいものにしてしまうこともあります。そのことをお話しする前に、19-20節を読んでおきたいと思います。
2. 神様の一方的な働き (19-20)
19 では、律法とはいったい何か。律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使たちを通し、仲介者の手を経て制定されたものです。20 仲介者というものは、一人で事を行う場合には要りません。約束の場合、神はひとりで事を運ばれたのです。
20節に注目すると、律法は仲介者を経て決められたけれども、約束は神様がひとりで決めたということが言われています。律法を決めた仲介者というのは、直接的にはモーセのことです。また、旧約聖書の最初の5書にある様々な決まりごとやそれにまつわる物語もモーセが書いたと言われていました。ユダヤ人にとって、長い時間をかけて語り継がれてきた民族の歴史であり、祖先からの道徳的教えの結集です。それ丸ごとを指して律法とも言われます。民数記やレビ記、申命記を読むと、共同体の掟がしつこく細かく書き連ねてあります。現代の私たちにはおよそ関係ないことばかりが延々と書かれていて眠くなりますよね、と神学校の先輩に言ったことがあります。その先輩は、でも昔の人がどういうことでけんかしていたのか分かって面白いと言っていました。私は「えー、そうかな?やっぱり眠いよ」と思ったので印象に残っています。でも今思い返すと、その先輩の言ったことには真理があると思います。旧約聖書の大昔も今も、人間が集まれば問題が起こり、けんかの理由はたいして変わらないということです。そして、律法はそんな人間のために与えられました。
律法の第一の掟は神様を愛しなさいということですが、第二は隣人を愛しなさいです。神様を愛さなければ隣人を本当に愛することはできないし、隣人を愛さなければ神様を愛しているとは言えません。この二つは切り離せない関係にあります。では、どうすれば神様を愛していると言えるのか、どうすれば隣人を愛していると言えるのか、具体的なことは人間がそれぞれ置かれた状況の中で考えるしかありません。モーセはその具体的な答えをユダヤ人に与えました。モーセに教えたのは神様ですが、モーセという具体的な人物を通して、ユダヤ人という具体的な共同体のために、神様の意思が語られ直される必要があったということです。ユダヤ人の律法は、人間が具体的にどう生きるべきかを、具体的な時代と文化に合わせて、人間を通して決められたルールでした。
でもパウロが言うように、神様のアブラハムへの約束は、ユダヤ人の律法とは根本的に性質が違います。神様はアブラハムに「私を愛しなさい、隣人を愛しなさい」と命令したのではありませんでした。ただ、「あなたを祝福する」と約束されたのです。それは神様の一方的な取り決めで、命令ではなく宣言です。アブラハムが神様を愛していたかどうか、隣人を愛していたかどうかは、関係ありません。それはただ神様がアブラハムを選んだという事実であって、誰もどんな掟もその間にはありませんでした。それを不公平だと感じるのは、私たちが罪深いからです。神様の約束には、私たちは条件をつけられません。神様は、アブラハムにしたのと同じように、私たち一人ひとりと個人的に無条件の祝福の約束をしてくださっています。
でも、神様の祝福の約束が最初にあったのなら、なぜ律法というものが与えられたのかという疑問が起こります。律法が必要ないなら、最初からそんなものを作らなければよかったのです。でも、神様はたしかにモーセを通して律法を与えました。この疑問へのパウロの答えが19節にあります。「律法は、約束を与えられたあの子孫が来られるときまで、違犯を明らかにするために付け加えられた」ということです。このことは続く21-25節でさらに語られているので、続きを読んでいきたいと思います。
B. イエス様によって絶望が希望に変わる (21-25)
21 それでは、律法は神の約束に反するものなのでしょうか。決してそうではない。万一、人を生かすことができる律法が与えられたとするなら、確かに人は律法によって義とされたでしょう。22 しかし、聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。それは、神の約束が、イエス・キリストへの信仰によって、信じる人々に与えられるようになるためでした。23 信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
1. 律法(〜しなければならない)は私たちを絶望させる
パウロは、律法は私たちの養育係だったと言っています。それも、イエス様がこられるまでの期間限定です。これは歴史的な順番としても言えますが、個人的な信仰の順番としても言えます。私たちがイエス様に出会う前と後という順番です。私たちはイエス様に出会うまでは、律法に支配されていました。私たちはユダヤ人でなくても、自分の律法を持っていて、イエス様に出会う前まではそれに従って生きてきたということです。◯◯すべき、しないべきというルール、人間なら誰でも持っている良心や道徳です。でも、このルールがいかに人によって違い、たとえ同じだとしてもそれが必ずしもいつも守られているわけではないということは、大人は誰でも気がついています。そして、それによっていかに多くの衝突や苦しみを生んでいるかは、私たちの個人の生活の中でも人間の歴史全体でも明らかなことだと思います。人を殺してはいけないのは当然でも、戦争は正当化されます。人は助け合って生きるべきだと教えられても、何をどこまで助けるべきかは人によって解釈が違います。一体なにが正しくて、どこまでが正しいのか、その線引きも難しいし、たとえ線を引けても簡単にその線は無視されてしまいます。それが人間の限界だということです。人間は自分の良心や教えられた道徳によって生きることはできません。それを正しく理解することも実行することも、完全にできる人は一人もいません。だからパウロは、さっき読んだ19節で、律法が与えられたのは「違反を明らかにするため」だと言っています。律法は、私たちにそれができないという自覚を与えます。私たちは無能だと教えることが、律法の役割だったということです。だから、律法は私たちの養育係でした。律法が悪いのではなく、律法はたしかに良いことを教えてくれます。でも、それを守ることができない私たちが絶望的に悪いのです。だから、律法は私たちを絶望させます。◯◯すべき、しないべきというルール、良心や道徳によって生きようとするなら、私たちは絶望するしかありません。絶望して当然だと言えます。パウロが22節で言っているように、「聖書はすべてのものを罪の支配下に閉じ込めたのです。」この世界も私たち自身も罪に支配されていて、私たちは絶望して当然です。ただそれは、期間限定のことでした。イエス様が来られるまで、イエス様に出会うまでの過去のことです。24-25節をもう一度読みましょう。
2. 信仰(イエス様の犠牲)は私たちに希望を与える
24 こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。25 しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。
私たちは無能で罪深いですが、イエス様が来てくださったので、希望があります。イエス様は、正しいことを知ることも行うこともできない私たちを、神様はそれでも愛していると示してくださった方です。私たちを責める代わりに、自ら十字架で苦しまれて命を捧げてくださいました。私たちが不完全なままで、神様を信じることができるようにするためです。私たちは自分で自分を救うことは決してできませんが、その必要はありません。イエス様は2000年前にすでに来てくださったのであり、今日も私たち一人ひとりの心に来てくださっています。そして、今日前半でお話したように、神様の祝福の約束は、神様の一方的な宣言です。私たちは神様を愛し、人々を愛して生きることを目指して努力しますが、それよりも先に、神様はまず私たちを愛してくださっていることを忘れてはいけません。私たちはアブラハムやモーセよりも、ずっと恵まれています。イエス様という、神様の約束の証拠が与えられているからです。私たちが神様を愛せない、人々を愛せないという自分の限界に気がついて嘆くとき、イエス様は共にいてくださっています。ですから、どんなときでも希望を失わずに、どうにもならない現実を信じるのではなく、イエス様を信じ、神様の約束を信じましょう。信じられないときは、信じることができるように祈り求めましょう。神様は必ず答えてくれます。
メッセージのポイント
神様が私たちに与えてくださった恵みの約束は、神様が一方的に私たちに与えてくださったものです。それなのに、私たち人間はその約束を信じません。信じない理由は、自分の力を過信していたり、神様への期待が小さすぎたりしているからです。人間が考え付く様々な「良い生き方」の指針は、それができないという私たちの罪の現実を明らかにするだけで、結局私たちを救うことはできません。イエス様を信じ、神様の恵みの約束を信じましょう。
話し合いのために
1) 神様のアブラハムへの約束とはなんですか?私たちにどんな意味がありますか?
2) 律法が私たちの養育係とはどういうことですか?私たちにとって律法とはなんですか?その良い点と悪い点はなんですか?
子供たちのために
今回の聖書の箇所も子供達には難しいので、無理に読まなくていいと思います。「神様の約束」というキーワードを話し合ってみてください。何をどう神様は約束してくださっているのでしょうか。