「子の幸せ」を守る父・母となろう

 池田真理

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「子の幸せ」を守る父・母となろう(ガラテヤ 4:12-20, 1コリント 4:14-16)

 

今回はあえて誤解を招くようなタイトルにしました。お父さん、お母さんでない方も安心してください。こんなタイトルですが、良い父親・良い母親にどうすればなれるかというお話ではありません。私たちは子供がいればもちろんですが、若くても、結婚していてもしていなくても、子供がいてもいなくても、誰かにとっての父親・母親になれるということをお話したいと思います。なれるというよりも、そうなることが私たちすべての幸せにつながるということを知っていただければと思います。
今日読む4:12-20は、このガラテヤの手紙の中で少し特別な箇所です。パウロの論争的な姿勢が少し和らいで、怒っているよりも苦しんでいる様子が垣間見えます。自分の大切な人たちに自分の思いが伝わらなくて、苦しんでいます。最初に12-15節を読んでいきましょう。


A. 子供の幸せ

1. イエス様に出会い、神の子とされた幸い (12-15)

12 わたしもあなたがたのようになったのですから、あなたがたもわたしのようになってください。兄弟たち、お願いします。あなたがたは、わたしに何一つ不当な仕打ちをしませんでした。13 知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。14 そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました。15 あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか。あなたがたのために証言しますが、あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出してもわたしに与えようとしたのです。

以前にもお話しましたが、パウロとガラテヤの人たちがどのように最初に出会ったのか、聖書にはこのガラテヤ書以外にはほとんど記録がありません。ただ、使徒言行録16:6にこんな一文があります。
さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。(使徒言行録16:6)
これと今読んだパウロの言葉を合わせると、パウロは何かの病気にかかり、本当はアジア州に行きたかったけれども、それを断念してガラテヤに行った、ということが分かります。パウロが何か慢性的な病気を持っていたことは他の聖書の箇所にも書いてありますが、それが何かは具体的には分かっていません。それが何だったにせよ、当時は病気は悪霊の仕業であるとか、呪われているとか考えるのが普通でした。だからパウロも自分はガラテヤの人たちに忌み嫌われても当然の状態だったと振り返っています。でも、ガラテヤの人たちはパウロを神の使いかのように、イエス・キリスト本人であるかのように受け入れました。そして、彼らのパウロへの親愛は、自分の目をえぐり出しても惜しくないほどだったと言われています。パウロも驚くほどの喜びが、ガラテヤの人たちには満ちていたということです。それは、自分の病気のせいで予定変更を迫られ、体の痛みを覚えていたパウロにとって、嬉しい驚きであり、慰めでもあったと思います。また、そんなガラテヤの人たちの喜びが、自分の力によるのではなく神様の力によるものだということを、パウロはいつも以上に感じたとも思います。ガラテヤの人たちは、パウロが伝えた福音を喜びました。その時、ガラテヤの人たちとパウロは同じ喜びを共有していました。イエス様と出会い、神様の子とされた喜びです。それは、イエス様を通して神様に愛されていることを知った喜びとも言えます。
もう私たちは知っている通り、ガラテヤの人たちはやがてこの喜びを捨ててしまうのですが、それは次にお話しします。今日最初に心に留めていただきたいのは、この喜びが私たち人間が手に入れることのできる幸せの中で最も大きな幸せだということです。私たちもみんな、他の誰かからイエス様のことを知りました。それは、イエス様は私たちのために死なれ、それによって私たちの罪は赦され、神様の子の身分を与えられたという情報を受け取ることだけではありません。そのことを信じて喜んでいる人の生き方を見て、それが本当のことだと分かるようになるということです。そして、神様の子供として新しい人生を歩み始めることができます。神様に愛されているという確信は、どんな時でも私たちに喜びと希望をもたせてくれます。だから、イエス様を信じ、神様に愛されている子供となって生きることは、私たちの人生に尽きることのない喜びと希望をもたらす、一番幸せな生き方です。
問題は、この幸福を自ら手放してしまう私たちです。神様が取り上げることは決してありません。続きの16-18節を読みます。

 

2. その幸福を妥協する私たちの罪 (16-18)

16 すると、わたしは、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。17 あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです。18 わたしがあなたがたのもとにいる場合だけに限らず、いつでも、善意から熱心に慕われるのは、よいことです。

イエスというフィルターを通して見るなら、主が聖書を通して教えたいことは、どのような人々との間でも、愛することによって平和を保つことであることがわかります。パウロは「せめて、すべての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)と教えました。詩人は「尋ね求め」と言った後「追い求めよ」と加えています。パウロと同様に、ただ争わないというのは最低限の願いであって、平和は熱心に追い求めるべきものです。

ガラテヤの人たちにユダヤ人の律法に従うように教える人たちがいて、ガラテヤの人たちもそれを受け入れようとしていました。それがなぜ福音の本質を歪めるものであるかは、これまでも議論され、この後も議論が続くので、今日はお話ししません。パウロがここで批判しているのは、彼らの間違った熱心です。善意による熱心ではない熱心、良いことのためではない熱心です。それは、律法に従うように教える人たちとそれを受け入れたガラテヤの人たち両方に共通していた間違いでした。仲間を増やしたいという熱心です。仲間が増えるということは嬉しいことですし、悪いことのようには思えません。迫害の中であればなおさら心強いことです。でも、仲間を増やすことに集中していると、神様を愛することよりも仲間を愛することの方に傾いてしまいます。その結果、自分たちがイエス様によって与えられた幸福から遠ざかっていることに気がつけません。仲間が増えて最初はいいように思っても、結局、仲間とは誰かということを定義する境界線の中に縛られることになります。そして、イエス様がすべての人のために見返りを求めずに自らを犠牲にしてくださったことを忘れて、神様の愛からは遠く離れることになります。神様に愛されている子供としての喜びは、その頃には随分小さくなってしまいます。
これは私たちが、神様を求めるよりも自分の都合を優先させてしまう罪に原因があります。私たちは何でも、より早く、より簡単に、よりわかりやすく手に入れられる安心を求める傾向を持っています。神様に愛されているということは、残念ながらいつも簡単に分かるわけではありません。自分の置かれている状況が悪くなれば、私たちは神様に愛されているのかどうか分からなくなります。イエス様が私のために死なれたという事実を知っていても、状況として愛されている感覚が伴わないことはよくあります。そんな時、もっと分かりやすく手に入る安心は大きな誘惑です。ここではそれがユダヤ人という民族の連帯感、仲間意識でしたが、あらゆるものが誘惑になりえます。そして、その分かりやすさ、手に入りやすさに負けて、神様の愛を求めることをやめれば、私たちは大きな間違いを犯すことになります。それは、神様の子供として愛されている身分を自ら放棄するのと同じです。本当の幸せはどこにあるのか、誰から来るのか、今幸せを委ねているものは本当に頼りになるのか、私たちは自分を吟味する必要があります。人間には決して与えることのできない幸せを、神様は与えてくださる方です。
パウロは、ガラテヤの人たちがこの間違いを犯していることを知っていたので、なんとか思いとどまらせようとしていました。19-20節を読みます。


B. 父・母の苦しみ

1. 子供に幸せを妥協してほしくないと願う (19-20)

19 わたしの子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしは、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。20 できることなら、わたしは今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです。

ガラテヤの手紙の最初の方でもお話ししたことがありますが、このガラテヤで起こっている問題を問題と思っていたのはパウロだけでした。当のガラテヤの人たちは困っていませんでした。彼らはパウロに助けを求めてきたわけではありませんでした。ですから、パウロには彼らを放っておくこともできたのです。でも彼はそうしませんでした。ガラテヤの人たちに、もっと良いものがあると思い出してほしいと願っていました。彼らが一度は知ったはずの、イエス・キリストを信じて生きる喜びを、もう一度味わってほしいと願っていました。パウロには、彼らがこのままいけば、結局は神様の愛から離れて、傷つくことが分かっていました。その自分の思いがガラテヤの人たちに伝わらないもどかしさが、このパウロの文面に表れています。いつもは「兄弟たち」と呼びかけるのに対して、ここでは「私の子供たち」と呼びかけています。教会の人たちを「私の子供たち」と呼びかける例は、パウロの手紙の中で、ここと後で読む1コリント4章しかありません。「今すぐあなたがたのところに行って、語調を変えて話したい」と言っているのも、手紙で神学的な議論ばかりするのではなくて、直接会って誤解を解きたいという願いの表れです。助けを求めていない人を助けようとするのはおせっかいと思われもおかしくないですが、彼らの本当の幸せを願うからこそ、そうせずにはいられませんでした。それはパウロの親心というほかありません。ガラテヤの人たちが神様に愛されている子供としての幸福を妥協しようとしていることを、とめずにはいられませんでした。そして、それが伝わらずに苦しんでいました。

2. 信仰の父・母となろう (1コリント 4:14-16)

私たちは、このパウロのような気持ちを誰かに持っているでしょうか?もっと良いものがあるのにそれが伝わらないもどかしさ。神様に愛されている幸せを知ってほしいのに、幸せを妥協してあきらめている人たちは、私たちの周りにたくさんいます。私たちはパウロのように、助けを求められていなくても、彼らの本当の幸せを願っておせっかいな父親、母親になるべきなのかもしれません。1コリント4章ではパウロはこう言っています。

1コリント4:14-16 こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです。15 キリストに導く養育係があなたがたに一万人いたとしても、父親が大勢いるわけではない。福音を通し、キリスト・イエスにおいてわたしがあなたがたをもうけたのです。16 そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい。

15節の「キリストに導く養育係はたくさんいても、父親が大勢いるわけではない」という言葉に、はっとさせられます。私たちにイエス様のことを紹介してくれる人はたくさんいても、父親のように母親のように、神様の子供としての幸せを私たちが掴んで離さないように教えてくれる人はそう多くないということです。パウロは大胆にも「私に倣いなさい」と言います。私たちはここまで自信を持って言うことにためらいを感じますが、本当はそうするべきで、そうできるはずです。パウロにそうさせたのは、彼が持っていたイエス様への確信、神様に愛されているという確信でした。イエス様を知り、神様の愛を信じて生きることが、私たちの一番の幸せであることを彼自身が信じ切っていました。そうでなければ、他の人にそれを勧めることはできません。本当の幸せが何かを自分自身が迷いなく知っていなければ、ほかの人のためにそれを守ることなんてできないということです。
私たちも、神様に愛されている子供としての幸せを自分でかみしめ、大切な人たちにもそれを掴んで離さないように励ましましょう。幸せになりたいと思わない人はいません。でも、何が本当の幸せなのか、それは人によってずいぶん捉え方がちがいます。また、誰かの幸せを願っていても、それがその人にとって本当に幸せなことなのか、私たちは間違えていることもあります。お子さんがいらっしゃればお子さんの幸せを願うと思いますが、ご自分が幸せとは何かをはっきり知らなければ、お子さんを正しく導くことはできません。それは子供を育てる親だけではありません。子供として親の幸せを願う時も、友人の幸せを願う時も同じです。私たちはイエス様と出会い、神様に愛されている確信を持っているなら、パウロのように大胆に言うことができるはずです。「私に倣ってください!」と。それは、「私は最高の幸せを知っています。だから、あなたも私に倣って、最高の幸せを手に入れてください」ということです。


メッセージのポイント

私たちのために死なれたイエス・キリストを信頼して生きることが、私たちの最上の幸せです。間違いを犯したり、人に誤解されたりすることは誰も避けられませんが、その度に目指すべき方向を示してくれるのはイエス様の愛です。そのように生きられることが、神様の子の幸福です。私たちは、この幸せを自分自身でかみしめると同時に、大切な人たちに知ってほしいと願います。イエス様を信頼し、イエス様に従うことが一番の幸せであるということを伝え続けましょう。

話し合いのために

1) 率直に言って、あなたにとっての幸せとは今なんですか?
2) 19-20節のパウロの言葉について、どう思いますか?

子供たちのために

今回は聖書箇所もメッセージの内容も子供たちには難しいと思いますので、「子供の幸せを考える親の気持ち」から神様のことを話してみてください。家でも学校でも(教会でも)子供達は大人たちに色々指示されていますが、その中には子供達の好きなこと、嫌なことが両方あります。子供達に率直に好きなことと嫌なことを聞いてみてください。嫌なことをなぜやらなければいけないのか、大人は何のためにそれをやりなさいと言うのか、一緒に考えてみてください。(※大人がやりなさいと言うことでも、実は意味のないこと、従う必要のないこともあるかもしれません!大人も間違える時があります。)