私はあなたの救い

 永原アンディ

見る

第一礼拝(日本語)
第二礼拝(日本語・英語 )

 

聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語 / 英語)


私はあなたの救い
(詩編35, マタイ5:43-48, ローマ6:6-10, エフェソ2:14-16)

 

A. 主は私たちの限界を知っている

1. 敵を倒すために助けを求める私たち 
 (1-3)
【ダビデの詩。】主よ、わたしと争う者と争いわたしと戦う者と戦ってください。大盾と盾を取り立ち上がってわたしを助けてください。わたしに追い迫る者の前に槍を構えて立ちふさがってください。どうか、わたしの魂に言ってください「お前を救おう」と。

 敵と裏切り者に囲まれたダビデ王の嘆きと叫びと訴えと賛美と希望が歌われている詩です。実際にダビデによるものではないと考えられているのですが、ダビデの味わった大きな苦しみの思いは反映されています。イスラエルはいつの時代も強国に囲まれた小さな国でした。ダビデは歴代の王の中では最も偉大な王でしたが、それでも国際紛争でも、国内の権力争いでも苦しんでいたことがよくわかります。彼は自分の力で問題を解決できないことを知っていました。それでこのように叫んだのです。
しかし私たちは、この外国の、しかも大昔の王様の体験から何を学べるというのでしょうか? 私たちはダビデのように戦争をしているわけではありませんが、目の前に立ちはだかる敵、逃げても逃げても追いかけてくるような敵、待ち伏せをしていて突然現れて襲いかかる敵が様々なものとして存在します。病気や怪我、経済的な危機、敵意をあらわにする人、権力を持っていうことを聞かせようとする人、信頼していた人の裏切り。私たちは自分の限界を知っていて神様に助けを求めなければいられない存在なのです。
詩人は、主を信頼していたはずなのに、この時、心の一番深いところでそれを確信できないでいます。それで<どうか、わたしの魂に言ってください「お前を救おう」と>と祈るのです。ダビデは確信を得られたのでしょうか?そうではなさそうです。確かにダビデは戦死することはありませんでした。しかし晩年も、息子たちの権力争いや叛逆で心休まることはありませんでした。自分の死が近いことを悟ってソロモンに王の位を譲る時にさえ、他の子供や部下を恐れ、危険人物の名前をあげて処刑することを命じています。
けれども私たちは知っています。私たちの魂はその声を聞きました。イエスはあなたの魂にも「私はあなたの救い」と言って確信を与えてくださる方です。このことは後半、Bの部分で詳しくお話しします。

2. 敵を呪いたくなる私たち (4-8)

4 わたしの命を奪おうとする者は恥に落とされ、嘲りを受けますように。わたしに災いを謀る者は辱めを受けて退きますように。
5 風に飛ぶもみ殻となった彼らが主の使いに追い払われますように。
6 道を暗闇に閉ざされ、足を滑らせる彼らに主の使いが追い迫りますように。
7 彼らは無実なわたしを滅ぼそうと網を張りわたしの魂を滅ぼそうと落とし穴を掘りました。
8 どうか、思わぬ時に破滅が臨み彼らが自ら張った網に掛かり破滅に落ちますように。

 ここには敵に対する呪いの言葉が書き連ねてあります。ダビデに対して今まで持っていたイメージが崩れてしまうかもしれませんが、彼はソロモンとの会話の中で冷静に処刑を命じたどころか「あの白髪を血に染めて陰府に送り込まねばならない」と呪ったのです。
一方、イエスの言葉を聞いている私たちは、呪うこと、人に不幸が訪れることを願うことがよくないことだと知っています。新約聖書には、こんなあからさまな呪いの祈りは出てきません。しかしヤコブはその手紙で「わたしたちは舌で、父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。」(ヤコブの手紙3:9) と私たちの性質を見抜いています。呪いは、いいことではないに決まっています。パウロがローマの人々に宛てた手紙で書いているように、「敵であっても呪うのではなく祝福」できればいいのですが、弱さのゆえに、自己中心のゆえにそれができません。それでいいのでしょうか?いいのです!つい呪ってしまったとしても、主が喜ばれないと感じていればいいのです。主は私たちが自力で強くなること清くなることを期待されてはいません。だからイエスとしてこられたのです。それも、訓練して強くするためではありません。ただ、弱さを知って、イエスに従うことができるようになるためなのです。


B. 詩人の祈りの答えとしてのイエス

1. イエスも味わった裏切り (11−16)

11 不法の証人が数多く立ち、わたしを追及しますがわたしの知らないことばかりです。
12 彼らはわたしの善意に悪意をもってこたえます。わたしの魂を滅ぼそうとして、子供を奪いました。
13 彼らが病にかかっていたときわたしは粗布をまとって断食し、魂を苦しめ胸の内に祈りを繰り返し
14 彼らの友、彼らの兄弟となり母の死を悼む子のように嘆きの衣をまというなだれて行き来したのに
15 わたしが倒れれば彼らは喜び、押し寄せます。わたしに向かって押し寄せわたしの知らないことについてわたしを打ちとめどもなく引き裂きます。
16 神を無視する者がわたしを囲んで嘲笑いわたしに向かって歯をむき出します。

この詩人の経験を読むと、それはまるでイエスの十字架の死に至る苦難についての預言のように見えます。イエスは詩人の苦しみをよく知っていました。しかしイエスは、決して人を呪うことはありませんでした。イエスが十字架の上で、その命を取られようとした時でさえ、「お前たちは地獄行きだ」と叫んだのではなく「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」 と祈られました。なぜ呪うことをしなかったのでしょう。それは目の前で自分を殺そうとしている人々が敵なのではないということを知っていたからです。あなたの敵は誰でしょう?本当の敵を知らない限り、私たちは呪うべきではない人々を呪い続けることになります。
イエスは私たちの敵の正体を明らかにしてくださいました。ここから少し詩編を離れて、イエスの言葉と、イエスに従ったパウロの手紙から、私たちの真の敵について見てゆきましょう。まずマタイによる福音書5:43-48を読みます。

2. 敵の正体を明らかにしたイエス
(マタイ5:43-48, ローマ6:6-10, エフェソ2:14-16)

(マタイ 5:43-48) 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

ここでイエスは、私たちが敵と思っているものが敵なのではないこと、神様は全ての人を愛しておられることを教えます。私たちが考える悪人/正しくない者/異邦人が敵ではないのです。イエスが敵を愛せというのは、「あなたが敵と思うような者」をも愛せ。つまりそれは本当の敵ではないということなのです。ただ、イエスは敵の正体をはっきりとはおっしゃいませんでした。まだ十字架も復活も知らないユダヤ人の認識では正しく理解してはもらえないことを知っていたからだと思います。しかし、十字架と復活の出来事を通して目を開かれて弟子となったパウロはローマ書の中でこう言っています。

(ローマ6:6-10) わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています.
死んだ者は、罪から解放されています。わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。

ここに、かつて私たちを捉えて奴隷としていた敵の正体がはっきりと書かれています。それは「罪」です。罪とは、人をご自身の似姿として作ってくださった神様に背を向けることです。神様の思いではなく、自分の欲に生きること=自己中心な生き方ということもできます。真の敵である罪は巧妙です。罪は、私たちの心に働いて、自己中心を正しいことだと思わせます。自己中心的な人と人との間に生じるのは敵意であって愛ではありません。パウロはエフェソの人々にはこう書き送っています。

(エフェソ 2:14-16) 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。

アダムとイヴが主に背を向け、自分の欲望に従った途端に、彼らの息子たちの間に敵意の壁が立ち上がり、世界で最初の殺人事件が起こりました。<こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。> とありますが、イエスの十字架の出来事からすでに2000年以上が経っているのに、まだ人々の間に敵意が渦巻いているのはなぜでしょう? それは、まだイエスに従うつもりのない人、従っているつもりなのに実際には従っていない人が大勢いるからです。イエスが私たちに「福音を宣べ伝えなさい。全ての人を弟子にしなさい」と言われたのは、教会のメンバーを増やすためではなく、全ての人が、本当の敵を知って、無意味な争いをやめ、平和を実現するためです。

3. イエス – 神の国に至る道 (27,28)

27 わたしが正しいとされることを望む人々が喜び歌い、喜び祝い絶えることなく唱えますように「主をあがめよ御自分の僕の平和を望む方を」と。
28 わたしの舌があなたの正しさを歌い絶えることなくあなたを賛美しますように。

ここに書かれていることは、神の国が完成して実現することです。イエスが来られる時まで、神の国に至る道は律法を守ることしかないと人々は考えてきました。しかし、イエスによって、私たちは神の国に向かう第一歩は、真の敵「罪」からの解放だと知りました。
ところが、イエスが解放してくださった私たちのうちにまだ、罪の力が働き、イエスのようではない自分、いつまでたっても完全ではない自分を私たちは毎日のように見るのです。それでも自分はイエスに従っていると言えるのか?と疑問が浮かびます。しかし、それこそサタンのささやきです。このささやきによって、人はイエスに従うことをやめてしまいます。しかし、主イエスは私たちが完全になれないことをご存知で、それを認めてくださっているのです。できないことは従っていないことにはなりません。イエスに従っていない人とは、むしろ、イエスの時代のファリサイ派のように、自分は聖書の通りにできると思い込んでいるような人です。それはつまり、聖書を自分勝手に解釈しているということです。そして、それは聖書が自分の戦いや、呪いを正当化してくれるという思い違いとなって現れます。確かに聖書の特定の部分を抜き出して読めば、どんなことでも正当化できそうです。それによって、自分たちの戦いは神様の意思に適っている。ある種の人々を呪うことは神様の意思に適っていると思い込んでいる人がいるのです。
どうしたら、正しく聖書を読むことができるのでしょうか?それはイエスのレンズを通して読むことです。それはつまり、福音書のイエスの行いや言葉を通して受け取るということです。そのために必要なことは、福音書を読むことによって、イエスともっと親しくなることです。


メッセージのポイント

イエスが来られたことで、主が救いとなってくださったことを知り、将来を期待できる者となりました。私たちの弱さが克服され強くなったのではありません。弱いままでも「私はあなたの救い」と言ってくださる方を知っているのが私たちの強さです。私たちは、詩人とは違う時代の、違う文化の中で生きていますが、相変わらず暴虐や不正義や理不尽、欺きや裏切りを経験することは同じです。しかし決定的に違うことは主が私たちに本当の敵「罪」を教えるとともに、「罪」から解放していただいたことです。

話し合いのために

1) 主の正しさとはどのようなものでしょう?
2) あなたの敵とは誰ですか?

子供たちのために

子供達にはまず1-3節を読んで、「敵」とは誰か聞いてみてください。詩人が「わたしの魂に言ってください「お前を救おう」と。」と願っているのは『主』ですが、主とは?についても聞いてみましょう。主とは、全てを作られイエスとして来られ十字架にかかり死んで復活された方です。そしてイエスが敵としているのは誰かを、マタイ5:43-48で考えてもらいましょう。それは、特定の人間や、民族や、国ではなく、むしろ私たちの間に敵意を生み出す罪です。