池田真理
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第一礼拝 (日本語)
第二礼拝 (日本語 / 英語)
神様の霊に導かれて(ガラテヤ5:16-6:10)
A. 私たちは霊を与えられている
1. 霊に抵抗する肉 (16-18)
16 わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。17 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。18 しかし、霊に導かれているなら、あなたがたは、律法の下にはいません。
「霊の導きに従って歩みなさい」と言われています。(原語は英語のように単純に「霊によって歩みなさい」です。)パウロは、ガラテヤの人たちには神様の霊が与えられていることを信じていました。割礼の問題によって混乱が生じていたにせよ、彼らが最初に神様の霊を受けたことは事実でした。彼らだけでなく、私たちは誰も、自分の力でイエス様を信じることはできません。イエス様を信じたいという願いを起こすのは神様の霊です。まだイエス様を信じていなくても、知りたいと思っているとしたら、それも神様の霊があなたにも働いているということです。私たちがイエス様を知り、イエス様と共に人生を歩み続けることができるのは、この神様の霊が私たちを導いてくださることによります。
でも、ガラテヤの人たちが道をそれてしまったように、神様の霊に導かれて生きるということは、そんなに簡単なことではありません。私たちはみんな、神様の霊に抵抗する性質を持っているからです。それがここでは「肉」と言われていますが、私たちの罪のことです。神様に逆らい、自分を神様にしようとする性質です。神様は、私たちがこの罪の性質を持ったままでも神様のことが分かるように、霊を注いでくださいました。その霊に導かれて生きようとするとき、私たちが元から持っている罪の性質は、絶えず邪魔をしてきます。神様に従っても意味はないとか、神様なんていないとか、ちょっとくらい自分の好きにやっても大丈夫とか、あらゆる手段で、私たちと神様の間を引き離そうとします。私たちは、それが自分の内からきているのであって、自分には神様から離れようとする罪の性質があるんだということを認識しておく必要があります。
パウロは霊と肉の見分け方を教えてくれています。19-23節です。
2. 霊と肉の見分け方 (19-23)
19 肉の業は明らかです。それは、姦淫、わいせつ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、21 ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。以前言っておいたように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。22 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
ここから分かるのは、私たちが霊に従っているかどうかは、私たちの行動の結果によって分かるということです。神様の霊が性的な乱れを起こすことはなく、偶像礼拝を起こすこともなく、争いを起こすこともありません。神様の霊が生み出すのは、まず第一に愛であり、自分を傷つけることも、他人を傷つけることもありません。そう言われると、霊と肉を見分けるのはとても簡単なように思えます。でも実際は、霊に従っていると思い込んでいる人が人を傷つけることがよくあります。ガラテヤで起こっていたこともそうでした。私たちは自分勝手な思いを、神様の霊によるものと間違えてしまいます。これは、残念ながら私たちがみんな一生付き合わなければいけない問題です。どんな人でも、何歳になっても、間違えることがあるということです。それが人間の限界です。でも、絶望することはありません。良い知らせがあります。24節です。
3. 肉は霊に勝てない (24)
24 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
イエス様が来られたので、私たちの罪の性質は残っていても、それはもう私たちを支配することがありません。それが良い知らせです。イエス様は、私たちの罪と一緒に、十字架にはりつけになってくださいました。私たちが自分の罪によって負わなければいけなかった苦しみを、イエス様が負ってくださいました。だから、私たちは自分の罪に支配されることはなくなりました。私たちの罪は残っていても、実はそれはもう過去のものです。もう決着はついていて、清算は済んでいるということです。罪はイエス様の愛に負けました。ここでのパウロの言い方で言うなら、肉は霊に勝てないということです。
神様の霊によって歩もうと願いながら、間違いを繰り返す私たちですが、神様の霊は何度でも私たちを呼び戻し、見放すことはありません。私たちにできることは、一生自分には罪の性質があり、自分は間違うことがあるのだということを覚えておくことです。私たちは神様の霊に導かれていますが、決して神様にはなれません。誰も、どんなに経験を積んでも、知識が豊富になっても、不完全な人間です。私たちは、自分の罪がはりつけにされている十字架を担って、それぞれの人生を歩んでいます。でも、そのことを忘れなければ、神様の霊が導いてくださる方に向かって進み続けることができます。この歩みの先にあるのは、敗北ではなく、復活と勝利の約束です。
私たちは、この生き方を自分自身で守ると同時に、同じ生き方をお互いに励まし合うようにも言われています。続きの25節から6章6節までを読みます。
B. 霊によって生きるとは
1. 互いに十字架を担う (25-6)
25 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。26 うぬぼれて、互いに挑み合ったり、ねたみ合ったりするのはやめましょう。1 兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。2 互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。3 実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。4 各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。5 めいめいが、自分の重荷を担うべきです。6 御言葉を教えてもらう人は、教えてくれる人と持ち物をすべて分かち合いなさい。
ここでパウロは、過ちを犯している人がいたら正してあげなさいと勧めた後で、でも誰もうぬぼれてはいけないと釘をさしています。パウロがこのことをこのガラテヤの手紙の最後に言っていることに、深い意義があると思います。これだけ手紙の中でガラテヤの人たちの間違いを指摘してきた後で、なおパウロは彼らに働く神様の霊を信じていました。ガラテヤの人たちは間違えていても、彼らに働く霊のことは信じていたということです。そして、その霊によれば、ガラテヤの人たちも自分の道を正すだけでなく、他人のことも正して励まし合うことができるはずだと信じていました。それは、互いの十字架を背負い合うということで、罪を赦し合い、愛し合うということです。それは、パウロがガラテヤの人たちにしていたことでもありました。パウロ自身も自分の罪を知っていて、自分の十字架を背負っていましたが、ガラテヤの人たちの十字架も共に担おうとしていたということです。ガラテヤの人たちの罪を自分の問題として心を痛め、なんとか救い出そうとしました。
私たちも、神様の霊によって、同じように共に十字架を担わなければいけません。先にパウロが教えてくれたように、神様の霊は、誰も傷つけることはしません。神様の霊が生み出すのは愛です。それは私たちがより神様に近づくことができるように私たちを新しく作りかえる力です。誰かの間違いを正そうとするのは、神様がその人を新しく作りかえようとしている働きに参加するということです。罪を十字架にはりつけにする手伝いをし、イエス様と共に復活して再び歩き始める手助けをするということです。十字架だけをつきつけて、つまり罪を責めるだけでは、イエス様のしてくださったことを無駄にしてしまいます。誰かの罪を正すということは、その罪の苦しみを共に担うということです。そして、それでも愛されている喜びを共に分け合うということです。そうすることによって、私たちはイエス様の愛をこの世界に実現することができます。そして、「隣人を自分のように愛しなさい」という「キリストの律法」を全うすることができます。
それでは最後に7-10節です。
2. 神様と共に永遠に生きる (7-10)
7 思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです。8 自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。9 たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。10 ですから、今、時のある間に、すべての人に対して、特に信仰によって家族になった人々に対して、善を行いましょう。
私たちが神様の霊に導かれているかどうか、最終的に決めるのは神様ご自身です。霊に導かれるということは、ここでパウロが言い換えている通り、霊に蒔くということでもあります。それは、自分の十字架を背負って、イエス様を信じて歩んでいるこの歩みが、神様の喜んでくださるものであるように願い続けて歩むということです。畑を一生懸命耕そうと思えるときもあれば、疲れて休みたくなるときも、暴風雨で耕せないときもあります。頑張っても芽吹きの気配はなく、やる気を失うときもあります。でも、この畑は私たちのものではなくて、神様が私たちに与えてくださったものです。そして、私たちがただ神様に言われることをよく聞いて従っていれば、必ず実りが約束されています。自分自身が神様のものとなって、神様と永遠に共に生きる約束です。
最後に、エレミヤ書を読んで終わりにしたいと思います。31:31-34です。
エレミヤ31: 31 見よ、わたしがイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。32 この契約は、かつてわたしが彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。わたしが彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。33 しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。34 そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。
ここで預言されている新しい契約は、イエス様によって与えられました。私たちには、人間が紙に書いた言葉ではなくて、イエス様によって心に直接記された神様の言葉がもうあるはずです。それは、私たち一人ひとりに心の中で語りかけ、それぞれの歩みを導いてくれるはずです。そして、私たちはその導きに従って、どんなときでも、私はあなたのものです、と神様に応えることができるはずです。それが、イエス様と共に人生を歩む人の特権です。
メッセージのポイント
イエス様を信じたいと思っている時点で、私たちにはすでに神様の霊が与えられています。でも、私たちの罪という「肉」は残っているので、私たちの中で「霊」と「肉」の戦いは続いています。でも、イエス様の十字架によって、「霊」の勝利はすでに決まっています。だから私たちは、それぞれ自分の十字架を背負い、互いの十字架を担っても、決して倒れることはありません。神様の霊に導かれて、神様と共に永遠に生きる喜びを味わいましょう。
話し合いのために
1) 神様の霊の働きを感じた経験を教えてください。
2)「霊に蒔く」とはどういうことですか?
子供たちのために
エレミヤ31:33を参考にしてください。子供達にも神様の霊が与えられていて、神様の声が聞こえるんだということを励ましてください。神様の声というのは、「いい子でいなさい」ではなくて、「わたしはあなたと一緒にいるよ」です。私たちが悪いことをすれば神様は悲しみますが、罰を与えるような方ではありません。私たちが間違いを認めて、神様と一緒にいたいと願って戻ってくることを待っていてくれる方です。みんなの心に語りかける神様の声をよく聞きましょう。私たちの神様は神様、私たちは神様のものです。