池田真理
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第一礼拝 (日本語)
第二礼拝 (日本語 / 英語)
私たちも東方の博士たち?(マタイ 2:1-12, 16-18, ミカ 5:1)
クリスマスの物語に必ず出てくる登場人物に、「東方の博士たち」がいます。クリスマスの場面というと、馬小屋にヨセフとマリア、飼い葉桶に寝かされているイエス様、動物たち、羊飼いたち、そして3人の異国の博士たちの姿が昔から描かれてきました。でも、改めてこの東方の博士たちについて聖書を読むと、不可解な点がたくさん出てきます。そもそも、この人たちは一体どこの誰なのでしょうか?彼らはクリスマスの物語に出てくるだけで、他には何も記録されていません。彼らが何人だったのかも、聖書には特に3人とは書いてありません。また、彼らが見つけて追いかけてきた星というのも謎です。一度現れて消えてしまい、また現れたようです。しかもそれは、小さな一つの家を特定できるような形で動いたり止まったりしたと言われています。今日のメッセージはこれらの疑問を全部解消します!と言いたいところですが、そういうわけではありません。聖書にはこれらの疑問の答えはなく、研究しても推測の域を出ることはありません。ですから、不可解な出来事をそのまま受け止めたいと思います。そうすると、この不可解な物語は不思議と私たちに直接関係のある物語になります。少しずつ読んでいきたいと思います。まず1-2節です。います。中でも有名なのはニューヨークの国連ビルの建物の礎石に刻まれている4章3節の預言です。
A. ヘロデと博士たち
1. 博士たちは信じ、旅を始めた (1-2)
1 イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、2 言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」
本当に唐突に物語が始まりました。「占星術の学者たち」と日本語では訳されていますが(英語でも “Magi”という普段使わない言葉ですが)、元々は単に「賢者 (wise men)」とか「学者 (scholoars)」という意味の言葉です。星を見てやって来たと言っているので、占星術の学者だろうと解釈されています。その博士たちが「東の方」からやって来たと言われていますが、具体的にどこなのかは分かりません。ただ、外国から来たことは間違いありません。彼らはなぜかユダヤ人の王が新しく生まれたと知らされて、外国人なのにその新しい王を礼拝しにきたといいます。エルサレムはユダヤ人の都で、ヘロデが王として君臨していました。ユダヤ人の王のことならユダヤ人の王に聞けばいいというのは正解とも言えますが、ヘロデ王を前にヘロデではない新しい王はどこか聞くというのは大胆な行動です。なぜこんなことができたのでしょうか?それは、神様の不思議な導きとしか言いようがありません。事実として、この博士たちは特別な星を見て、ユダヤ人の王が新しく生まれたと信じました。そして、自分たちも会いに行かなければと思ったというのは、その新しい王はユダヤ人だけの王ではなく、自分たちにとっても王であると信じたからです。つまり、その方は単に民族的・政治的な権力者ではなく、全ての人の王となる方だと博士たちは信じたということです。そんな素晴らしい王の誕生を、ヘロデもエルサレムの人たちも知らないはずがないと思ったのかもしれません。でも、なぜそんなことを外国の博士たちが知ることができたのかは、やはり謎です。私たちには謎ですが、神様は彼らに知らせようと思われたということです。そして、彼らはただ信じて、未知の王を訪ねて、行き先も分からないまま旅を始めました。彼らは誰だったのか、なぜ彼らだったのか、私たちには分かりません。でもそれは、なぜアブラハムが神様に選ばれたのか、なぜマリアだったのか、なぜパウロだったのか、そしてなぜ私たちが神様に選ばれたのか、分からないのと同じです。私たちには分かりませんが、神様は不思議な方法で私たちを選んで、それぞれの旅に出発させます。イエス様を求めて、どこに行くのか分からない旅です。なぜ私が、なぜこの人が、なぜ今、なぜこんな時に、と、私たちは驚かされることの連続かもしれません。でも、東方の博士たちと同じように、神様の光を追い続けて、旅を続けましょう。
ただし、常に邪魔者はいます。3節に進みましょう。
2. ヘロデは恐れた (3)
これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。
博士たちとは正反対に、ヘロデとエルサレムの人々は不安を抱きました。彼らは、新しい王が誕生したなんて知りませんでした。そして、それが本当のことなら大変だと思いました。ヘロデにとってみれば、自分の王としての地位が危うくなるのは困ります。エルサレムの人々にとっても、新しい王の登場によって社会が不安定になるのは嫌だと思ったのかもしれません。彼らに共通しているのは、新しい王なんていらないという拒絶と、そうなっては困るという恐れです。これは私たちにも共通しています。イエス様を王として迎えるということは、自分は王様ではないと認めることから始まります。そこに抵抗を感じない人は、残念ながら人間の中に一人もいません。誰でも、実は自分は王だと思っています。一国の王でなくても、家族の中で、友人の中で、職場で、王様や女王様のように振舞っている人はたくさんいます。たとえ人前で謙虚だったとしても、自分の人生の主導権は当然自分にあると思ってしまうのが私たちです。自分でコントロールできないことが起こってくれば慌てますし、困ります。私たちは、人生の中でコントロールできることなんて実はほとんどないのに、いくつかできることがあると全部できるような錯覚に陥ります。それを聖書は罪と呼びますが、今日はヘロデの性質と呼びたいと思います。私たちはみんなヘロデの性質を持っているということです。博士たちのようにイエス様を求めて旅を続ける中で、このヘロデの性質がいつも邪魔になります。どこにいるのか分からないイエス様なんていらない。それよりも、自分の力を強くして、他の人を思い通りに動かせる方がいい。自分が自分の王で何が悪いのか。私たちの中のヘロデはこうささやきます。このヘロデの性質が自分にあると認めなければ、私たちはヘロデと同じように悲惨なことになります。
でもその前に、まず博士たちの旅の続きを確認しておきましょう。4-6節は後で読むことにして、7節に飛びます。
3. 博士たちは喜び、守られた (7-12)
7 そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。8 そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。9 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。10 学者たちはその星を見て喜びにあふれた。11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。12 ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。
博士たちは、無事イエス様を探し当て、またヘロデの難を逃れて帰国することができました。ここで注目したいのは、動く星が彼らを導いたということと、夢で神様が語られたということです。つまり、どちらも普通では考えられない不思議な方法だったということです。博士たちにイエス様誕生の知らせが届いたのも不思議でしたが、彼らが最後まで導かれ、守られた方法もやはり不思議でした。といっても、不思議だと思うのは私たちであって、当の博士たちはそれを不思議に感じるよりも喜んでいたようです。私たちそれぞれの旅も同じです。イエス様を探して、イエス様と共に歩みたいと願って歩む人生は、不思議と喜びに満ちています。人間には与えられない方法で、神様はそれぞれの歩みを助け、守られます。超自然的な方法ではないかもしれませんが、振り返ってみると様々な危険から守られてきたことがわかります。
でも、残念ながら、イエス様を信じていれば必ず全ての危険から守られるというわけではないのが現実です。ヘロデがまだいるからです。私たち自身がヘロデになって間違い犯すこともあれば、別の誰かがヘロデになって、私たちは犠牲者になることがあります。16-18節に飛びます。
4. ヘロデは怒り、破壊した (16-18)
16 さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17 こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18 「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから。」
ヘロデは自分よりも強い王が出てくることを恐れて、可能性のある子供を皆殺しにしました。イエス様はすでにヨセフとマリアに連れられてエジプトに逃げていたので無事でしたが、ベツレヘム一帯は悲しみに包まれました。この出来事は理不尽としか言いようがありません。神様はイエス様を守られたのに、名の知れない多くの子供達とその家族のことは守って下さいませんでした。それがヘロデの招いた悲劇でした。そしてそれが、ヘロデの性質を持っている私たちが生み出す現実です。自分が王様、女王様でいるために、他人を犠牲にします。少数の権力者によって多くの人が苦しんできたのは、人間の歴史の悲しい特徴です。それは最初にお話ししたように、社会のどのレベルでも同じです。会社の上司が部下の人格を否定したり、夫婦間で力関係があったり、親が子供を虐待したり、教師が生徒をいじめたりします。私たちは互いに支配し、奪い合う社会の中で生きています。それでは神様は結局、私たちを守って下さらないということでしょうか?子供たちをヘロデに殺された多くの親と同じように、ただ嘆くしかないのでしょうか?そして、自分の身を守るためにヘロデのような破壊者になるしかないのでしょうか?
答えは十字架にあります。十字架に架けられたイエス様を、神様は助けませんでした。ヘロデの手からは救われましたが、十字架の苦しみからは救われませんでした。それが意味することは、イエス様は私たちの苦しみを知っているということです。イエス様は、私たちが互いの持つヘロデの性質によって苦しむ時、共に苦しみ悲しんでいる方です。そして、私たちが希望を失うことがないように、私たちのために死なれ、復活されました。イエス様は、私たちのこの世界に来られ、私たちのために死なれた神様です。私たちが苦しみの中で希望を失わず、神様に守られていることを信じて歩み続けられるように、共に歩んでくださる方です。だから、イエス様と共に旅を続けましょう。
それでは最後に、4-6節に戻ります。
B. イエス様が誕生して変わったこと
1. ベツレヘムはもう一番小さくない (4-6, ミカ 5:1)
4 王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。5 彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。6 『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」
6節で引用されているのは、先週のメッセージで読んだミカ書5:1(英語では5:2)です。比べてみると面白いことがわかります。
エフラタのベツレヘムよ
お前はユダの氏族の中でいと小さき者。
お前の中から、わたしのために
イスラエルを治める者が出る。
彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
細かい言葉の違いは翻訳上仕方ないのですが、明らかな違いが一つあります。それは、ミカ書の方では「ベツレヘムは小さいものだ you are small」と言っているのに対して、マタイの方では「決していちばん小さいものではない you are by no means least」と言っていることです。これは翻訳上の違いではなく、マタイの明らかな編集です。強い否定を表す副詞を挿入しています。救い主はベツレヘムで生まれることになっているという預言を引用するにあたって、マタイはミカ書のオリジナルの言葉を変更してしまったということです。そんなことをすれば、旧約聖書に精通していたユダヤ人の宗教家たちから批判されて当然のはずですが、このマタイの編集はそのまま残りました。なぜでしょうか?それは、イエス様の誕生を喜び、イエス様を信じた人たちが、マタイの思いを理解したからだと思います。イエス様が生まれた今、ベツレヘムはもう小さくない。偉大な指導者が生まれた街として、世界中で覚えられるだろう。その通り、ベツレヘムの名前はクリスマスに必ず出てきて、多くの歌でも歌われています。
2. 得体の知れない「東方の博士たち」は…
イエス様の誕生によって変えられたのは、ベツレヘムだけではありません。東方の博士たちもです。どこの誰かもわからない、謎の博士たちでしたが、今ではクリスマスの物語の有名な登場人物です。「東方の博士」とグーグルで検索すれば、いくらでも情報が出てきます。
私たちも、心にイエス様をお迎えしましょう。イエス様にもう一度、私たちの心に生まれていただきましょう。イエス様を迎え、イエス様が生きておられるところは、ベツレヘムのように、小さくても小さくなくなります。どこの誰かもわからない小さな存在でも、神様はイエス様を探す旅に呼び出されて、最後まで導かれます。自分自身の中にいるヘロデと、この世界にたくさんいるヘロデに悩まされますが、イエス様という希望の星を見上げて、旅を続けましょう。神様は、たくさんの不思議と喜びで、私たちを驚かせてくださるはずです。
メッセージのポイント
東方の博士たちとヘロデ王は、イエス様誕生の知らせに対照的な態度をとりました。一方は喜び、イエス様を求めて行き先も知らないまま旅に出、他方は自分の地位を脅かされることを恐れ、破壊的になりました。私たちはみんなヘロデの性質を持っていますが、東方の博士たちと同じように、不思議な方法で導かれています。神様は、イエス様と共に生きようとする者のことを忘れることは決してありません。
話し合いのために
1) 私たちと東方の博士たちは何が同じですか?
2) イエス様と出会う前と後で何が変わりましたか?
子供たちのために
「悪いヘロデのようにはならないで、イエス様を信じて賢い博士たちのようになろう」というわけではありません。得体の知れない「東方の博士たち」に光をあてた神様の不思議に注目してください。私たちはヘロデと元々同じだけれども、神様によって光を当てられて、東方の博士たちと同じように、イエス様を求める旅を続けることができます。難しいかもしれませんが、その方向で話してみてください。