永原アンディ
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第一礼拝 (日本語)
第二礼拝 (日本語 / 英語)
共に礼拝しよう! – 喜んでいても悲しんでいても
(ルカによる福音書 18:10-14, ローマの信徒への手紙 12:13-16)
A. 「キリストの福音にふさわしい」生き方 (27-28)
1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。】
2 主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。
3 滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ わたしの足を岩の上に立たせしっかりと歩ませ
4 わたしの口に新しい歌をわたしたちの神への賛美を授けてくださった。人はこぞって主を仰ぎ見主を畏れ敬い、主に依り頼む。
5 いかに幸いなことか、主に信頼をおく人 ラハブを信ずる者にくみせず欺きの教えに従わない人は。
6 わたしの神、主よあなたは多くの不思議な業を成し遂げられます。あなたに並ぶものはありません。わたしたちに対する数知れない御計らいをわたしは語り伝えて行きます。
7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めずただ、わたしの耳を開いてくださいました。
8 そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。
9 わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望みあなたの教えを胸に刻み
10 大いなる集会で正しく良い知らせを伝え 決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
11 恵みの御業を心に秘めておくことなく 大いなる集会であなたの真実と救いを語り 慈しみとまことを隠さずに語りました。
12 主よ、あなたも憐れみの心を閉ざすことなく 慈しみとまことによっていつもわたしをお守りください。
13 悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多くわたしは心挫けています。
14 主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。
15 わたしの命を奪おうとねらっている者が恥を受け、嘲られわたしを災いに遭わせようと望む者が侮られて退き
16 わたしに向かってはやし立てる者が恥を受けて破滅しますように。
17 あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ御救いを愛する人が主をあがめよといつも歌いますように。
18 主よ、わたしは貧しく身を屈めています。わたしのためにお計らいください。あなたはわたしの助け、わたしの逃れ場。わたしの神よ、速やかに来てください。
この詩もダビデの名を冠したものですが、12(E:13)節までとそれ以降とですっかり雰囲気が変わるので戸惑ってしまいます。前半では、神様に助けられた感謝と喜びに満ち、それを大きな集会のスピーカーとして人々に伝えています。ところが13(E:14)節からは、また苦しい状態に置かれているような表現です。しかもこの後半の部分は、詩編70編とほとんど同じです。詩篇では他にもそっくりな詩篇がいくつかあります。一つの詩とは思えないような内容や重複の理由は、詩編が個人的に読むためにではなく、多くの人々とともに捧げる礼拝に用いるものとして記録されているからです。一見すると前後で分断されている、このような詩が、皆で共に歌われたことは、その礼拝の場に、喜んでいる人にも悲しんでいるに人も、楽しい思いでいる人にも、悲しい思いでいる人にも身の置き所があり、共に心からの礼拝がささげられていたということです。この詩編は、礼拝とは何か?特に、多くの人々と共に捧げる礼拝の大切さ、素晴らしさを教えてくれています。
分かりにくいところが少しあるので確認しておきましょう。日本語の聖書では5節に「ラハブ」とありますが、人の名前ではありません、殆どの聖書ではNIV同様「高慢な人々」と訳しています。「ラハブに従う者」とは、主に信頼を置くのではなく、大きな影響力を持つ人間に従っている人のことです。偶像礼拝的な生き方と言ってもいいでしょう。
もう1つ8節に「わたしのことは巻物に記されております。 」というところです。巻物とは律法が書かれている旧約聖書の最初の5書のことです。そこに自分が記されているというのは、自分は律法にかなって歩んでいますということです。もしこの詩が前半の部分だけなら、とてもついてゆかないと思う人がほとんどだと思います。しかし後半でわかるように、実はこの詩人は、私たちと同様に、それほど自信満々な人ではないのです。揺れる人なのです。
B. 私たちがこの詩編から得られる恵み – 礼拝の心
1) 一つの霊によって立つ
先にお話ししたように、この詩の構成と内容が異色なのは、多くの人々とともに捧げられる礼拝として、主に向かって歌われるものだからです。しかしなぜ、この順番なのでしょう。反対なら、苦しんでいたけれど、祈りは聞かれ、ハッピーエンドとなります。今苦しんでいる人も、喜んでいる私のようになれますよ。という勧めとなります。しかし実際の構成は反対です。助けを感謝し、賛美し、積極的な決意で、人々を励ましていたのに、13節からは、助けを求めて叫び求めるような内容です。でも、これでいいのです。この世界に生きている限り、苦しみと困難は無くなりません。繰り返しやってきます。そしてそれは誰にでも同じことです。そして、そのタイミングや深刻さはバラバラです。人間の付き合いなら、喜んでいる時に、落ち込んでいる人と一緒にいたいとは思いません。落ち込んでいる人の方だって、喜んでいる人といればますます落ち込みそうになるでしょう。しかし神様は違います。心がどんな状態でも、誰にとっても必要なものを得ることができます。むしろ辛いときに、主の深いなぐさめが必要です。だから礼拝です。私たちは、ありのままで主の前に出ることができます。落ち込んでいる自分が礼拝に行っていいのか?なんて絶対に思わないでください。むしろ私は神様の恵みで元気一杯と思っている人の方が危険です。
イエスはルカ18:10-14このような例え話をされました
「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』
ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』 言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
ファリサイ派の人の礼拝には、主が求める礼拝の心が全くありませんでした。しかし徴税人にはあったのです。だから徴税人の方が正しい者とされて家に帰ったのです。礼拝の心とはどういうものでしょうか?
2) この詩に表されている礼拝の心
14 走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。
2 主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった
これが礼拝で起こることです。主とあなただけの時間です。隣の人のことは今は忘れてください。ただ心を主に向けて、期待して待ちましょう。
4 わたしの口に新しい歌をわたしたちの神への賛美を授けてくださった。
17 あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ御救いを愛する人が主をあがめよといつも歌いますように。
礼拝は神聖なカラオケでも、チャペルコンサートでもありません。神様は、私たちとのコミュニュケーションの手段として歌を下さいました。ユアチャーチでは歌うことが礼拝の中心です。主に語り、主から聴くために歌うのです。日本の多くの教会では、歌うことを賛美するとよく使いますが、それは半分正解で、半分間違いです。私たちが歌うのは賛美する歌だけではないからです。叫び求めたり、愛を告白したり、この詩人のように泣き言や、文句を歌うこともありなのです。私たちはイエスについて説明するために人に向かって歌いません。「あなた」と主に向かって歌います。
7 あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず焼き尽くす供え物も罪の代償の供え物も求めずただ、わたしの耳を開いてくださいました。8 わたしは来ております。
ここでは私たち自身が献げ物であることがわかります。主が喜ばれるのは、動物の犠牲でも、食物の供物でも無く、私たち一人一人の献身です。「私はあなたの前に、私自身を捧げるために来ています」と言えますか?「あなたの意志が、この世界で行われるために、私の全てを使ってください」人生の真の目的は「自己実現」では無く、「神様の意志の実現」の一部を担うことです。そうであればあなたの人生には、失望も、失敗もありません。いつ、この世での歩みの最後が来ても、後悔することはありません。「自己啓発セミナー」に投資して後悔しないでください。それよりも「神様の働き」のために自分自身を投資しましょう。この投資にはお金はいりません。WWJD (what would Jesus do?) で行動することなのです。どうしたら、イエスの思いを知ることができるのでしょうか?ここには「主が私の耳を開いてくださった」とあります。あなたの耳も開いていただけます。だから、私たちも「私はここにきています」と歌いましょう。
12 (主の憐れみ、愛、真実を求めること)
13 (罪の告白、悔い改め、正直さ)
12,13節では、ファリサイ派の人に無く、徴税人にあった「礼拝の心」の表れを知ることができます。礼拝で自分を偽る必要はありません、恵まれている、元気なふりをする必要はないのです。罪の状態が苦しいなら主に告白すればいいのです。後悔の思いもそのまま言い表しましょう。主は聞いて、その憐れみと愛と真実で応えてくださいます。
3) 礼拝中心の生き方とは何か?
ユアチャーチが一番大切にしていることは、心からの礼拝を捧げて、神を愛するという事です。それは礼拝中心の生き方をしますという決意です。それはただ日曜ごとにここに体を運び話を聞き、歌を歌うという事ではありません。ともに礼拝を捧げるのは日曜の朝だけですが、私たちはこの礼拝の心を持って一週間を歩むのです。私たちは自分が苦境にあっても、そうではない人、喜び楽しんでいる人とともに礼拝します。彼らが自分の状態を楽しんでいるだけではなく、苦しみや悲しみの中にいる私のために、神様にともに叫び求めてくれることを知っているからです。最後にパウロの言葉を紹介します
喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。(ローマ12:15,16)
私たちは喜んでいる時、悲しみのうちにある人と共に礼拝します。主の憐れみを思い、自分の想像力を働かせて 「思いを一つに」するのです。その思いとは「あなたを尋ね求める人があなたによって喜び祝い、楽しみ、御救いを愛する人が主をあがめよ、といつも歌いますように。」(17)さあ主を礼拝しましょう!主に叫びましょう!求めましょう!聞きましょう!そして、素晴らしい一週間を過ごしてください。
メッセージのポイント
私たちは、自分の心の状態がどのような時であっても、自分とは違う心の状態を持った人々と共に礼拝を捧げることを勧められています。私たちは個人でも、家族でも礼拝することができますが、同じ主を信じるという事以外は全く異なる人々と共に礼拝を捧げ、新しい週の歩みを始めることには大きな意味があります。そのことが自分とは異なる人々に対する想像力、共感、同情を育むからです。いつも自分だけで、あるいは極めて身近な人とだけ礼拝をしていたら、人々に対する想像力、共感、同情は育ちません。それどころか神様に対する想像力、共感も失われ、形だけの礼拝になってしまいます。だから共に礼拝しましょう。
話し合いのために
1) なぜ日曜日に人々と共に礼拝を捧げるべきなのでしょう?
2) なぜイエスはファリサイ派ではなく徴税人の祈りをほめたのでしょう?
子供たちのために
ルカ18:10-14のエピソードを紹介して、どんな時でもイエスを礼拝できること。自分がうれしい時も、悲しいときも、喜んでいる人とでも悲しんでいる人とも礼拝して新しい州を始めることの素晴らしさを伝えてください。互いへの想像力、共感、同情をイエスが喜んでくださると共に、イエスがもっと近い存在になるために大切であることを伝えてください。