心を合わせて、思いを一つにしなさい

池田真理

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心を合わせて、思いを一つにしなさい (フィリピ 2:1-11)

 

 今日はフィリピ2:1-11を読んでいきますが、この箇所には一つ特徴があります。それは、6-11節はとても古い賛美歌だったんじゃないかと言われている点です。英語の聖書の中には、それがわかるように、6-11節の部分を詩篇のように表記しているものもあります。つまり、6-11節はパウロの言葉ではなくて、パウロがすでにみんなが朗読か歌かを通して耳慣れたフレーズをここに引用したのかもしれないということです。当時は読み書きをできる人の割合も低いですし、紙も印刷技術もまだなかったので、多くの人はイエス様のことを耳で聞いて心で覚えて理解していました。それは教会の集まりの中でされた朗読や歌が中心でした。それが、もしかしたら6-11節に引用されているのかもしれないと、多くの聖書学者たちは考えているようです。

 というわけで、今日はその6-11節が重要なポイントですが、なぜそれがここで引用されているかも大切な点です。まず1-4節を一度読んで、5-11節を読んだ後にまた戻ってきたいと思います。

A. 私たちは自己中心的であってはいけない (1-4)

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 最初に1節に注目しましょう。いろいろなことが言われていますが、ちょっと聞き覚えがあるような気がしませんか?礼拝の最後の祝祷です。イエス・キリストの恵み、神様の愛、聖霊の力という、三つの要素があります。父・子・聖霊という神様の三位一体を表しています。少し言葉の言い換えや省略もありますが、1節は改めて、これから続く言葉が教会に向けて言われていることだと思い起こさせています。言い換えるなら、「キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり」のあるところが教会です、そしてそこでは皆さんはこうあるべきなのです、と2節に続きます。
2節「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」この一文も言葉は多いですが、心を合わせて思いをひとつにしてほしいということが強調されています。そして、それは具体的にどういうことなのかというのが、3-4節にあります。
3-4節「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」一言で言うと、あなたがたは自己中心的であってはならない、ということになります。そしてお互いを尊重しあい、高慢にふるまってはならないということです。
ここで1-4節全体を通して考えてみると、教会では各自が自己中心的であることをやめて、心を合わせて団結していなければいけない、ということになります。これを聞いて皆さんは嬉しいですか?正しいことだけれど、魅力は感じないんじゃないでしょうか。自己中心的であってはいけないというのは誰でも知っていますし、みんなで心を合わせて何かの目標を目指すことは良いことだと誰でも思います。でも問題は、なぜそうしなければいけないのか、何を目指して心を合わせる必要があるのかということです。そこでパウロは、みんなが知っているはずの歌を引用しました。5-11節に進みます。

 

 


B. イエス様が私たちのためにしてくださったこと (5-11)

5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

1) 私たちの模範となった

 私たちが自己中心的であってはいけない理由は、まずイエス様がそうでなかったからです。イエス様は、神様でありながら神様であることをやめて、人間になりました。それは私たちのためにご自分の命を捧げるためでした。私たちのために生まれ、私たちのために死なれた方でした。イエス様の命は全く自己中心的でなく、最初から最後まで私たち、つまり他者のために使われた命でした。そのイエス様を信じているなら、イエス様を模範として、イエス様の生き方に倣って生きなさいというのが、ここで言われていることの一つです。今日の箇所全体が、日本語でも英語でもタイトルが「キリストを模範とせよ (Imitating Christ’s Humility)」となっている理由です。
でも、イエス様が私たちの模範となったというのは、イエス様が私たちのためにしてくださったことの本質ではありません。イエス様はただ単に、良い生き方のモデルを教えてくださった道徳の教師ではないからです。イエス様が私たちのためにしてくださった最大のことは、イエス様が神様であるということに深く関係しています。

 

2) 神様の愛を教えてくださった

 6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

十字架で処刑された犯罪人、あのイエスが実はユダヤ人が信じてきた世界の創造主、全能の神様であったと信じたところから、キリスト教会は始まりました。この6節から始まる言葉が本当に歌だったとして、多くの人が歌ったり読んだりしていたとしたら、それをユダヤ人が聞いたら、最初の1フレーズだけで耳を疑ったはずです。今なんて言った?キリストは神の身分でありながら?あのイエスが神様だと言うのか?それは多くのユダヤ人にとって神様に対する冒涜の言葉でしかありませんでした。私たちに問われているのも、基本的には同じことです。あのイエスを、2000年前に十字架で死んだイエス・キリストを、あなたはこの世界を創られた神様だと信じるかどうか、ということです。今世界中にある教会は、それを信じています。
では、十字架で死んだイエス・キリストは神様だったと信じると、何が起こるのでしょうか。それは、神様が十字架で死なれたということを意味しています。なぜ神様はそんなことをされたのか。それはそれ以外に方法がなかったからです。なんのための方法かというと、神様が私たちを取り戻すための方法です。神様は、もともと私たち人間をご自分に似たものとして、良いものとして創られました。でも私たちは、神様に従って生きるよりも自分勝手に生きる方を選びました。それは子供が親なしで生きていくような無謀なことで、神様に対する裏切り行為です。私たちがそれに気がついて神様の元に戻ろうとしても、神様を裏切った罪の代償は死しかありません。でも神様は私たちがそのまま死んでしまうことを望みませんでした。そして、私たちの代わりに自ら死なれる計画を立てました。それがイエス様がこの世界に来られた理由であり、十字架で死ななければならなかった理由です。だから、イエス様は神様の私たちに対する愛の証であり、神様の存在そのものの証です。イエス様を通して、私たちは神様を知り、神様の思いを知り、神様の愛を知ります。

 


C. それぞれがイエス様と同じ思いと愛を持つことによって、私たちは一つになれる

 

 それでは、このことと、自己中心的であってはいけないということとどう関係してくるのでしょうか。そのヒントは9-11節にあります。イエス様を通して神様の愛を知った人たちは、イエス様を自分の主と呼び、神様をほめたたえます。自分の人生の主導権をイエス様に委ねて、導いていただこうとします。それは、自分の考えと行動をイエス様が喜ばれるかどうかを基準に判断していくことです。自分が楽な方や自分が嬉しい方ではなく、それを一旦脇において、イエス様の十字架に照らし合わせてどうか、ということです。それは、そうしなければいけないからそうするという義務感からではなく、そうすれば間違いはなく、自分にとっても良いことだと信じているからです。何がイエス様が悲しまれることで、何が喜ばれることか、すぐには分からないこともあります。でも、イエス様は私たちにそれぞれ違う方法で、違う経験を通して出会ってくださったように、一人ひとりに分かるように必ず教えてくださいます。自分一人でイエス様に向き合い、祈り、そしてお互いに悩みや考えを共有し、共に祈る中で、答えをくださいます。

 最後にもう一度、1-4節に戻ります。

1 そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、“霊”による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、2 同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。

 私たちが持つべき共通の思いはイエス様の思い、共通の愛はイエス様の愛です。心を合わせて思いを一つにするというのは、決して教会の全員がすべてのことに関して同じ意見を持っていなければいけないという意味ではありません。私たちはもともと、それぞれ全く違う人間です。でも、イエス様が出会ってくださり、ここに集められました。それぞれの人生の中で、また社会の中で、何がイエス様の思いなのか、求め続けているという点でだけ一致しています。私たちが心を一つにして目指すべき方向はただ一つ、イエス様の愛です。イエス様の愛が、一人ひとりの心にもっと豊かに実現されることです。そのために、互いに祈りあい、話し合い、求め続けていきましょう。

 


メッセージのポイント

誰でも、自己中心的であってはいけないと知っています。でも実際は、私たちは自分が自己中心的になっていることにすら気がつかないで、お互いに衝突したり傷つけ合ったりしてしまいます。私たちは一人ひとり、イエス様の愛によって作り変えられる必要があります。一人ひとりがイエス様を自分の人生の中心に置いて、様々な違いを超えて一つになりましょう。

 

話し合いのために

1) イエス様はあなたのために何をしてくださった方ですか?
2) どうやったらイエス様のように他の人を愛することができますか?

 

子供たちのために

読めそうだったら、1-4節を読んでください。ここに書かれてあるように、自己中心的(わがまま)になってはいけなくて、他の人に優しくしなければいけないよ、というのではなく、イエス様が大好きだったら、こうできるんだよと教えてください。それは大人でもいつも苦労していることで、みんなもイエス様によく聞きながら、なぜそうしなければいけないのか、本当にイエス様はそれを望んでいるのか、自分で確かめていってねと励ましてください。