わたしがあなたを遣わす

永原アンディ

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わたしがあなたを遣わす
(ヨハネ 20:19-22)

 先週のイースターに引き続き、今週、来週再来週の三回は、主の復活の後に起こったことについてシリーズでお話しします。 

日曜日の礼拝は必ず祝福で終わります。それは派遣の宣言でもあります。神様が私たちを、家族の中に、職場に、学校に派遣するのです。何のためでしょう? それはそこに平和をもたらすためです。平和と言っても、聖書の言っている平和とは、私たちが普通に考える平和とは異なります。しかし、それこそが私たちが本当に必要とする平和です。どのようなものか?本当に自分がそれを与えることができるのか?が今日のメッセージの内容です。まず全体を読みます。

 

A. 優れているからではなく

1. 臆病者に過ぎない私たち (19a)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。

 先週、イースターの朝、ペトロとヨハネは空の墓を見せられても、イエスの復活を実感できないまま帰ってきたことをお話ししました。 その後も、墓に残っていたマグダラのマリアはそこでイエスを見、弟子たちのところに戻って、「私は主を見ました」と告げましたが、彼らは相変わらずユダヤ人たちを恐れて、一つの家に鍵をかけて閉じこもっていました。ペトロが見た空の墓と、そこに置かれていた、イエスが身にまとっていた亜麻布。ヨハネの信じた復活の事実。マリアの見た復活したイエス。それらのことは、彼らの恐れを解消することはできませんでした。これは、私たちの現実でもあります。私たちは、ほとんど自分ではコントロールできない物事に囲まれて生きています。「信仰を持っているというのになんて自分は弱いんだろう」「イエスがいてくださると信じているのに、なんでこんなに物事を怖がるのだろう」それは、2000年前の弟子たちも、私たちも同じです。それはむしろ普通の感覚で、神様を信じたら何も怖くはないなどと思い込むのは信仰的なのではなく、狂信的であり、結局、主に喜ばれない道を歩むことになってしまいます。
しかし、私たちは弱いまま、怖がりのままでも、喜びと平安をいただき、主に派遣された者として、与えられている地上での命を全うすることができます。その秘密を、この後の部分から見てゆきましょう。

 

2. 主を見て喜ぶ 
 (19b-20)

そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

 「あなたがたに平和があるように」と日本語や英語に訳されたギリシャ語でイエスが言ったのではありません。いまでも使われる「シャローム」というヘブライ語の「こんにちは!」です。その元々の意味は「平和」です。そしてユダヤ人にとって「平和」とは「神が共におられる」ことでした。聖書では、平和の反対は戦争ではなく、神様と共にいないことです。ですから、このイエスの「こんにちは!」は「大丈夫!あなた方は、いま、神と共にいるんだよ!」という呼びかけだったのです。
「(イエスは)そう言って、手とわき腹をお見せになった」とあります。手には釘の、わき腹には槍の刺し傷が生々しかったはずです。普通なら目を反らせたくなるような光景です。しかも、それは自分たちの裏切りの結果でもあったのです。
それでも彼らが喜んだのは、それ以上に主が、彼らの罪を完全に赦し、再び彼らの前に現れてくれたことの方がずっと強い印象を彼らに与えたからです。イエスのこの「こんにちは!」は弟子たちにとっては、元々の意味どおり「あなたは赦されて、いま主である私と共にいる」という呼びかけに聞こえたのです。復活の後、何回か弟子たちに姿を現された主は、彼らの目の前で天に上げられたと、聖書は記しています。それ以降の人々は実際に目でイエスを見ることはできません。それでも、イエスに従って生きる信仰は、滅びることなく私たちに伝えられてきました。それは、この呼びかけを私たちも聞くことができるからです。それは、礼拝の中で起こることです。このように共に集まる礼拝でも、個人的に捧げる礼拝でも、家族やミニチャーチの友達ち捧げる礼拝でも、そこで主に会うことができるのです。私たちもまた「主を見て喜ぶ」ためにここに集っています。

 


B. 愛されているから

1. 平和の使いとして (21)

 21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

 イエスは再び「シャローム」と言います。もうこれは挨拶ではありません。「あなたがたに平和があるように」と言っているのです。それは、その後に続けられた「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」と切り離せないことです。先に、ユダヤ人の平和とは、神様が共におられることだとお話ししました。私たちが、それぞれの場所に遣わされるのは、そこにこの平和をもたらすためなのです。ですから私たちのもたらす平和とは、ただ人が仲良く楽しく過ごすということではありません。神様が共におられることが平和です。私たちは主と共に、主に派遣されてそこに行き、人々は、あなたと共にいる主に出会うのです。別に、神様の宣伝をそこでする必要はありません。主に愛されているあなたがそこにいることで、そこにいる人々は祝福されます。主に愛されている人は人々を愛することができるからです。「どうやって、この弱い私が愛せるのか?」最初の疑問に戻ってきてしまったようですが次の部分に答えがあります。読んでみましょう。

 

2. 聖霊の力と権威によって 
 (22, 23)

22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。
23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 もちろん、ここで言われていることは、勝手に人を赦したり、裁いたりしてもいいということではありません。罪の赦しがどこからくるのか?そもそも罪とは何なのか?思い出してください。罪とは、具体的な行為を指すのではありません。神様に背を向けた心の状態のことです。かつて神様に背を向けていたあなたが、神様に向き直り、神様と共に歩む人となり、「平和」を手に入れたことを、人々に見せるなら、その人々も同じ「平和」を獲得するチャンスを提供することができるのです。
そのために、臆病な私たちは、聖霊を受ける必要があるのです。聖霊を受けなければ、その働きを担うことができません。聖霊を受けると、与えられている権威を実際の力として発揮できるようになります。
先週は礼拝で主に出会うということをお話ししましたが、礼拝は聖霊を受ける、聖霊に満たされる時でもあります。それでは、いつものように礼拝してゆきましょう。神様の声を聞くこと、神様に向かって声を上げること、そして神様の霊で満たしていただくことを期待して歌いましょう。

 


メッセージのポイント

私たちはイエスに派遣されて、今生きている場に立っています。私たちに与えられた平和が、私たちの周りに広がるために、与えられ罪の赦しが私たちを通して、多くの人々にも実現するために、遣わされた場で生きているのです。私たちは臆病で弱い者に過ぎませんが、そのような私たちに主はご自身の権威と力を与えてくださっています。

 

話し合いのために

1) イエスはあなたをどこに遣わしたのですか?
2) 私たちにはどのような権威が与えられていますか?

 

子供たちのために

弱いこと、臆病なことは決して悪いことではありません。強そうに見える人、大人でも、いろいろなことを心配し、怖いこと、辛いことから逃げ出したくなるものなのです。弱くて当たり前、小さくて当たり前です。それでいいのです。ユアチャーチの大人たちは、そのように弱いことを知っているから、イエスを信頼し、イエスに助けを求めながら、歩いています。皆さんも、大好きなイエスに頼って、イエスについてゆきましょう。