私たちの本国 

池田真理

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私たちの本国  (フィリピの信徒への手紙 3:15-21)

 

 今日の箇所は先週の箇所と連続していて、同じことを別の角度から言っていると言えます。イエス様と共に生きるということがどういうことか、先週はそれを過去と現在という前後の関係で見ましたが、今日はそれを地上と天の国という上下で見ると言えます。両方とも言いたいことは同じです。私たちはまだ後ろの世界、下の世界にいるけれども、前を目指して、上を目指して進み続けるということです。早速読んでいきましょう。本題は17節から始まりますが、まずは15-16節から読んできましょう。

 

A.「完全な者」の考え方?(15-16)

15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。16 いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです

 15節でパウロは「わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです」と言っています。「完全な者」というのは英語のように「成熟している者」とも訳せる言葉です。でも、ここで言う「完全」とか「成熟している」というのは、人間的に欠点がないとか人間性が円熟しているとかという意味ではありません。そういう意味で言ったら、私たちはみんな不完全で未熟です。でも、前回も学んだように、完全なものがなにかを知っていて、そこに向かって進み続けるなら、私たちは完全な者にされていると言えます。16節でパウロは「いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです」と言っています。これは、これだけで読むと、個々人がそれぞれの成長の度合いに応じて進むべきですという意味に聞こえますが、この文脈ではそういう意味ではありません。そうではなく、イエス様が共におられるという確信に従って、進むべきだということです。まとめていうと、私たちはイエス様が共におられるという確信を持っているなら、どんなに人間的に不完全で未熟でも、神様は私たちを完全で成熟している者にしてくださるということです。

 では私たちがなにを目指しているのか、イエス様が共におられるという確信を持って生きるとはどういうことなのか、今日の本題に入っていきます。まず17-19節です。

 


B. この世にいながら、この世に属していない

1. 多くの人はイエス様の苦しみを忘れて自分の楽しみを追いかけている(17-19)

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。18 何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。
19 彼らの行き着くところは滅びです。彼らは腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていません。

 18-19節でパウロが嘆いている対象の人たちが具体的にどういう人たちのことを指しているのか、私たちにははっきりは分かりません。でも、彼らは「キリストの十字架に敵対して歩んでいる」という内容から考えると、当時だけでなく現代の私たちにも関係があることが分かります。パウロがここでただ「キリストに敵対している」と言わずに「キリストの十字架に敵対している」と言っている点に注目しましょう。これはパウロの他の手紙全体から言えることですが、パウロが「キリストの十字架」と言う時、それは「神様の愚かさ」を指しています。人間を十字架という愚かな手段で救おうとなさった神様の偉大な愚かさと言えるかもしれません。(1コリント1:17〜、)人間が自分の知恵や力を誇るのとは正反対に、神様は自ら人間となって、しかも十字架で苦しんで死なれることによって、人を救おうとなされたという、神様の驚くべき愚かさです。ですから、それに敵対しているとは、神様がそこまで愚かになって自ら犠牲を払われたことを忘れて、自分の力や知恵を誇るということです。これは、続く19節にもつながります。神様の犠牲を忘れて自分のことを誇る人は、「腹を神とし、恥ずべきものを誇りとし、この世のことしか考えていない」ということです。
パウロはこういう人たちがたくさんいるということを、今までも教えてきたし、今また涙ながらに言います、と言っています。なぜそういう人が多いのでしょうか。それは、それが私たちの社会では普通だからです。自分の願いが叶うことを求めて、それを叶えるために努力することがなぜ間違っているのでしょうか?そうやって努力して手に入れた自信や誇りがなぜ悪いのでしょうか?普通に考えれば、それは当たり前のことで、何も間違っているとは思えません。また、私たちはみんな学校でも職場でも、毎日努力を重ねて結果を出すことを求められています。この環境の中で、私たちがイエス様から目を離さずに生きることは、私たちが思っているより難しいのだと思います。努力をすることが間違っているわけでも、学校や職場で評価を上げることが間違っているわけでもありません。でも、どんな名誉も地位も、イエス様と共に生きることに優ることはありません。イエス様が私のために愚かにも死ぬまでしてくださった愛に変わるものはありません。イエス様は、強い人よりも弱い人と共にいることを喜び、権力者よりも罪人と共にいることを喜ばれた方です。私たちはその恵みをこの日本社会の中の多くの人よりも先に受け取ることができました。それは私たちが優れていたからではなく、むしろ弱く罪深いからです。その恵みを忘れてしまっては、私たちは簡単に社会の競争の中に飲み込まれて、むなしいものをむなしいと思わなくなってしまいます。
それでは私たちはこの社会の中でどう生きていくべきなのでしょうか。続きを読んでいきます。20-21節です。

 

2. 私たちの本国は天にあることを忘れないようにしよう(20-21)

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。

 私たちは、この社会の中にいながら、この社会には属していません。私たちは神様の国の市民権を持っているからです。私たちは、イエス様の十字架を通して、そこがどんなところか、知りました。神様の愛が実現するところです。私たちの間にイエス様が共におられ、生きて働いておられる時、そこに神様の国は来ています。そして、私たちの肉体が生きている間か死んでしまった後かは分かりませんが、いつかイエス様がまた目に見える形でこの世界に戻ってきて、神様の国を完成させます。その時には、私たちの肉体はイエス様の復活の体と似たものとして変えられることになります。そして、イエス様が王として統治する国で、永遠にイエス様と一緒に住むことが約束されています。その時までは、私たちは神様の国の市民権を持ちながらも、その国を不完全な形でしか見ることはできません。そして、今は日本という社会の中で生きています。神様の国の大使として派遣されていると言ってもいいかもしれません。それぞれの置かれている場所で、学校や職場で、家族や友人の中で、神様の国の大使として派遣されています。神様の国を広げるために、神様の愛を周りの人に伝える大使です。下の社会では与えることのできない上の世界の希望を伝える大使とも言えます。天の国は目に見えないけれども、私たちがその国の価値観に、つまりイエス様の愛に従って生きる時、天の国はこの地上に確かに来て、私たちの周りの人に希望を与えるはずです。
でも、この世界にいながらこの世界の波に飲まれずに、神様の国を見上げて歩み続けるというのは、一人では絶対にできないことです。最後にそのことをお話ししたいと思います。まず15節を読み返してみましょう。

 


C. この考え方を持ち続けるためにはモデルが必要(15,17)

15 だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

 パウロは、フィリピの人たちがイエス様を信じていて、その意味で完全な者であると思っていました。イエス様を愛することにおいて、フィリピの人たちは成熟していたということです。だから、この15節の後半の言葉は、パウロの彼らに対する信頼の表れです。「しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます。」フィリピの人たちはパウロにとって友人だったので、パウロは自分の意見を述べた上で、フィリピの人たちにも判断の余地を残したということです。
では次に17節をもう一度読んでみましょう。

17 兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。また、あなたがたと同じように、わたしたちを模範として歩んでいる人々に目を向けなさい。

ここにこの手紙の目的の全てが凝縮されていると言ってもいいと思います。フィリピの人たちが、パウロを倣って、パウロの生き方に励まされて、自分たちは間違っていないと力を得ることです。この手紙でこれまで読んできたように、パウロが獄中という苦境に置かれていたように、フィリピの人たちもフィリピの町で何かしらの困難な状況に置かれていました。その中で、イエス様のことを見限って、神様の国の希望を見失ってしまうことだってあり得ました。だから、お互いに励ましあう必要がありました。同じ方向を向いている仲間が必要でした。特に、先にその方向に向かって歩んでいる人の存在はとても大きな励ましです。神様の国の大使としてこの世界で生きていくこと、人々を愛して生きることが、具体的にそれぞれが置かれている状況で何を意味するのか、私たちは先に歩んでいる人たちから学ぶことができます。そういうモデルが絶対に必要です。また、神様は私たちがお互いにそういう存在を必要としているのを知っていて、必ずそういうモデルを私たちの周りに置いてくださいます。私は、この教会でそういう人たちに出会えて本当に幸せでした。15節でパウロがフィリピの人たちの判断を尊重したように、それぞれが自分の責任で判断しなければいけないことも多くあります。それでも、神様の国の大使として、それぞれが置かれている場所で歩み続けるためには、先にその歩みを始めた人たちから学ぶこと、励まし合うことは絶対に必要です。
ユアチャーチは神様の大きな家族の中でごく小さな一部分ですが、この役割を忠実に果たしていきたいと願っています。内側で励ましあい、また新しく来る人にとっても励ましとなれるように、それぞれの置かれている場所で大使として用いていただきましょう。

 


メッセージのポイント

イエス様と共に生きるということは、自分をイエス様のものとして、この世にいながらこの世に属さないで生きるということです。それは、自分の弱さとこの世界の悲しい現実から目をそらさないと同時に、その先にある希望と栄光を確信しているということです。このバランスを保つのはとても難しいですが、モデルとなる人たちが必ずいます。

話し合いのために

1) なぜ私たちはイエス様の苦しみを忘れてしまうのでしょうか?
2) あなたにはイエス様と共に生きるモデルとなる人がいますか?その人(たち)はこれまでどのようにあなたを導いてくれましたか?

子供たちのために

「私たちの本国は天にあります」という言葉は、子供達にも覚えていてほしい言葉です。私たちにはいつか帰る国があること、そこはイエス様が治めていて、私たちはそこでイエス様と永遠に一緒に生きると約束されていると教えてください。でも、それは死後の世界とは違って、私たちは時々今でもその国を感じることができます。イエス様が一緒にいるということは、天国が私たちの周りに来ているということです。子供達に完全に理解することは難しいかもしれませんが、今みんながこの世界で経験していることが全てではなく、見えないイエス様が(天の国が)みんなの周りに本当に来ていることを知ってほしいと思います。