私たちには聖霊の助けが必要です

池田真理

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私たちには聖霊の助けが必要です
(使徒言行録1:3-5, 2:1-4, 他)

 

 今日は教会のカレンダーではペンテコステの日です。今日はフィリピのシリーズから離れて、まず使徒言行録のペンテコステに関する記録を読んでいきたいと思います。まず、使徒言行録1:3-5です。

 


A.ペンテコステのできごと

1. イエス様の約束 (使徒 1:3-5)

3 イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4 そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。5 ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」ん。

 イエス様は弟子たちに、聖霊が注がれるのを待っていなさいと命じました。弟子たちはイエス様の復活を信じて喜んでいましたが、それだけでは不十分でした。イエス様を信じて、世界中にイエス様のことを伝える役目を担うためには、聖霊の助けが絶対に必要でした。私たちも同じです。私たちも、聖霊によらなければ神様の働きを担うことはできません。イエス様を信じることも、イエス様のことを他の人に伝えることも、聖霊様が助けて下さらなければ私たちにはできません。イエス様は、この言葉を弟子たちに与えた後に天に帰られて、人間の目には見えなくなってしまいました。もう会えなくなってしまったイエス様に変わって、聖霊様は来られました。その時に何が起こったのか、2:1-4を読みます。

 

2. 超自然的な力 (使徒 2:1-4)

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

 弟子たちが経験した聖霊の注ぎは、超自然的な不思議な出来事でした。激しい風の音が響き、炎のような舌が見え、自分の知らない言語を話すという、普通では考えられない恐ろしい現象です。あまりに日常からかけ離れたできごとなので、このできごとをどうとらえるか、教会によって様々な立場があります。こういう超自然的な力が働いたのはこの一番最初のペンテコステの時だけで、現代ではこういう非科学的なことは起こらないとする立場の教会もあります。反対に、こういう超自然的な力だけが聖霊の働きだと考えて、そればかり求めている教会もあります。どちらも、イエス様を主と信じている限り、同じキリスト教会の一部ですが、ユアチャーチではこのどちらか一方に傾くことがないように、バランスを保つのが重要だと考えています。私たちは聖霊を求めすぎても求めなさすぎても、神様の恵みを無駄にしてしまいます。どちらかというと、今の私たちは聖霊を求めなさすぎて、聖霊様にもっと期待していいのではないかと思います。でもまず、聖霊を求めすぎる方の問題から考えていきたいと思います。

 


B. 私たちと聖霊

1.超自然的な力に集中しすぎる間違い (1コリント 14:1-19)

 正確に言うと、聖霊を求めすぎる問題はありません。問題は、聖霊の超自然的な力にばかり注目して、そればかりを求めすぎることです。新約聖書の中には、実はこちらの問題しか書かれていません。当時は、聖霊が目に見え耳に聞こえる形で豊かに働いていたので、聖霊様を忘れたり否定したりする問題は起きなかったからです。むしろ、あまりに明らかに働かれるために、ついそちらにばかり注目がいって、何のための聖霊の働きなのかを忘れられてしまうことの方が問題でした。今日はその中でもコリントの教会で起こっていたことに注目したいと思います。コリント教会では、聖霊の力によって異言を話す人が多く、それが問題を引き起こしていました。1コリント14章全体にそのことが書いてありますが、今日はその一部分を読みます。

1コリ14: 1 愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。2 異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。3 しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。4 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。5 あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています。 … 14 わたしが異言で祈る場合、それはわたしの霊が祈っているのですが、理性は実を結びません。15 では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう。16 さもなければ、仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に「アーメン」と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。17 あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません。18 わたしは、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。19 しかし、わたしは他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります。

 異言というのは、自分も含めて誰も何をいっているのか分からない言語で祈ったり歌ったりすることです。意識を失って口が勝手に動くということではなく、ここでパウロが言っているように、私たちの霊が話すということです。これは聖霊の賜物の一つで、与えられる人と与えられない人がいます。異言の賜物がないからと言って聖霊の力を受けていないということはなく、異言は一つの聖霊の力の現れでしかありません。私はユアチャーチで洗礼を受けてすぐにカナダで教会に通い始めましたが、そこで異言が話されているのを初めて聞いて、文字通り震えあがりました。異言を初めて聞く私にとっては異様な光景にしか思えず、自分はもしかしたら怪しい宗教団体に入ってしまったんじゃないかと本気で怖くなりました。でもそこの教会の人はとても親切でいい人たちだったので、少しずつ受け入れることができました。ただ、私が恐怖を抱いたように、異言はそれを初めて聞く人にとっては異様で、強烈な印象を与えます。それ自体は悪くなくても、人間はどうしてもそういう超自然的な異様なものに注目しすぎて、もっと大切なことを忘れてしまいます。異言を話せれば聖霊に満たされているということでもないし、異言を話せないから聖霊に満たされていないということでもありません。ユアチャーチでも異言の賜物をいただいている人がいますが、最近の普段の礼拝ではあまり耳にしません。それは、このコリントの人たちに対するパウロの忠告に従っているからです。
ただ私としては、今のユアチャーチは以前と比べると、理性と霊の比重が理性の方に傾いているような気がします。コリントでは霊に傾いていたので、理性でも祈りましょうと言われていますが、私たちの場合は逆だと思います。超自然的なことが起こるようにもっと求めるべきだとは思いませんが、異言に限らず、いろいろな不思議なことを聖霊様が起こしてくださることを、もっと自由に求めていいんじゃないかと思います。それは周りの人の目にも明らかなことも、自分のうちにしか分からないこともあると思いますが、聖霊様にもっと期待していいんじゃないでしょうか。聖霊様は私たちの考えや思考、感情を超えて働いて、私たちを励まし、慰め、導いてくださる方です。

 

2.聖霊に期待しなさすぎる間違い (1コリント 2:1-5, ローマ 8:26-27, 2テモテ 1:6-7,14 )

 今日はこの後、歌を通して礼拝する時間の中で聖霊様が一人一人に豊かに働いてくださることを特に求めたいので、そのヒントとなるパウロの言葉をいくつか紹介して、メッセージを終わりにしたいと思います。まず1コリント2:1-5です。

1コリ2: 1 兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。2 なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。3 そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

私たちは、自分が弱い時にこそ強いと、本気で信じているでしょうか。私たちが自分の力でなんでもできるなら、そこに聖霊様の働く余地はありません。私たちがもうどうにもならないと思う時にこそ、聖霊様は豊かに働いてくださいます。優れた知恵や言葉は、時に聖霊様の邪魔になります。

 次にローマ8:26-27です。

ローマ8: 26 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。27 人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。

 何を祈ればよいのかも分からない辛い状況にある時、聖霊様は私たちの言葉にならない思いを代弁して、私たちを導いてくれます。私たちに必要なのは、ただ助けてください、憐れんでくださいと呼び求めることだけです。聖霊様は必ず私たちを導いて、心に語りかける神様の声を聞こえるようにしてくれます。
最後に2テモテ1:6-7, 14です。

2テモテ1: 6 そういうわけで、わたしが手を置いたことによってあなたに与えられている神の賜物を、再び燃えたたせるように勧めます。7 神は、おくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊をわたしたちにくださったのです。…14 あなたにゆだねられている良いものを、わたしたちの内に住まわれる聖霊によって守りなさい。

 私たちは弱いですが、聖霊様によるならば何度でも立ち上がることができます。そして、力強く歩むことができます。

 私たちには聖霊様の助けが絶対に必要です。今ここで、聖霊様が豊かに働いてくださるように求めましょう。

 


メッセージのポイント

イエス様を信じ、イエス様の愛に生き続けるために、私たちは聖霊の助けが必要です。聖霊は超自然的で不思議なできごとを起こすこともあります。超自然的なことだけを求めてはいけませんが、私たちの理性や感情の限界を超えて働いてくださる聖霊様にもっと期待しましょう。

話し合いのために

1) なぜ聖霊による超自然的なことを求めすぎてはいけないのですか
2) 聖霊の力を体験した経験をシェアしてください。

子供たちのために

ペンテコステのできごとをそのまま話してください。弟子たちの働き、教会の働きは、聖霊が注がれるまでは始まりませんでした。私たちにも同じです。私たちもイエス様と共に人生を歩んでいくためには、聖霊様の助けが必要です。イエス様と神様と違って、聖霊様の存在は分かりにくいですが、みんなはどう考えているでしょうか?話し合ってみてください。