永原アンディ
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私はイエスの・・・! (詩編45)
今日取り上げる詩編、45編は今までの詩とずいぶん雰囲気が違います。最初に全体を通して読みましょう。
(1-2)【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。コラの子の詩。マスキール。愛の歌。】 心に湧き出る美しい言葉わたしの作る詩を、王の前で歌おう。わたしの舌を速やかに物書く人の筆として。
(3-6) あなたは人の子らのだれよりも美しくあなたの唇は優雅に語る。あなたはとこしえに神の祝福を受ける方。勇士よ、腰に剣を帯びよ。それはあなたの栄えと輝き。輝きを帯びて進め真実と謙虚と正義を駆って。右の手があなたに恐るべき力をもたらすように。あなたの矢は鋭く、王の敵のただ中に飛び諸国の民はあなたの足もとに倒れる。
(7-8) 神よ、あなたの王座は世々限りなくあなたの王権の笏は公平の笏。神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに神、あなたの神は油を注がれた喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
(9-16) あなたの衣はすべてミルラ、アロエ、シナモンの香りを放ち象牙の宮殿に響く弦の調べはあなたを祝う。諸国の王女、あなたがめでる女たちの中からオフィルの金で身を飾った王妃があなたの右に立てられる。「娘よ、聞け。耳を傾けて聞き、そしてよく見よ。あなたの民とあなたの父の家を忘れよ。王はあなたの美しさを慕う。王はあなたの主。彼の前にひれ伏すがよい。ティルスの娘よ、民の豪族は贈り物を携えあなたが顔を向けるのを待っている。」王妃は栄光に輝き、進み入る。晴れ着は金糸の織り色糸の縫い取り。彼女は王のもとに導かれて行くおとめらを伴い、多くの侍女を従えて。彼女らは喜び躍りながら導かれて行き王の宮殿に進み入る。
(17-18) あなたには父祖を継ぐ子らが生まれあなたは彼らを立ててこの地の君とする。わたしはあなたの名を代々に語り伝えよう。諸国の民は世々限りなくあなたに感謝をささげるであろう。
1. 王の結婚の歌
読んでわかったように、これは華やかな王様の結婚式の歌です。最初に書かれているのは、人々に知られていた「ゆり」と呼ばれていたメロディーに合わせて歌いなさいという指示です。「マスキール」という言葉の意味は確定的にわかってはいません。詩人の「私が作った素敵な歌を王様の前で歌うぞー」と前置きがされていることも珍しいところです。この詩人はシンガーソングライターだったようです。
前半はこの王様の素晴らしさを称える言葉が続きます。新郎を褒めちぎる結婚式の祝辞そのものです。「イケメンで、話す言葉も素敵で、軍人としても優れている。神様に従順で、正しい裁きをする。」とうたっています。
詩人は花婿である王をほめると、歌は、この結婚式の豪華さを実況中継のような内容に移ってゆきます。そしてスポットライトは、王から王妃に移っていきます。どうやら王妃はユダヤ人ではないようです。ティルスの娘という表現があります。ティルスはイスラエルの北の隣国、現在のレバノンのイスラエルに近い南部の都市国家でした。王妃はティルスの王族の娘だったのでしょう。しかし王の妻となる以上、出身国のことは忘れて夫である王に従いなさいと勧めています。
しかしなぜ王の結婚が聖書に記録されているのでしょうか?この詩は表面的には、王様の結婚を祝う歌ですが、実は、後の時代になって、それ以上に深い意味を持つものであることがわかります。その鍵は7,8 (6,7)節にあります。もう一度読んでみましょう
2. 新約聖書は王の婚礼歌をどう受け取ったのか?
(7-8) 神よ、あなたの王座は世々限りなくあなたの王権の笏は公平の笏。神に従うことを愛し、逆らうことを憎むあなたに神、あなたの神は油を注がれた喜びの油を、あなたに結ばれた人々の前で。
ちょっと、わかりにくいと気づかれたでしょうか?詩人は王を「神よ」と呼びかけています。過去に多くの国で王や皇帝を神格化することはよくありました、日本はそれを近代になってもやった国です。しかし、人を神と崇めることを強く警戒したイスラエルでは考えにくいことです。興奮しすぎた詩人の口が滑ったのでしょうか?真相はわかりません。しかし聖書に残されたのです。ところが新約聖書のヘブル人への手紙の著者は、例外的に人間である人を神と呼ぶこの詩が、実は主イエスを指すものだと発見して、最初の章でこの詩編を引用しています。読んでみましょう。
(ヘブル人への手紙1:1-9) 神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られたが、この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。(中略)神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。また、天使たちに関しては、「神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」
a) イエスは神であり王 (10-11)
この詩がイエスの結婚についての預言であったというヘブル書著者の解釈は、当時のイエスを神と信じる人々に受け入れられました。なるほどイエスなら、他の人間の王に対しては、ここまでほめられることではないにしても、イエスなら、ほめられた内容はその通りで、しかも神であり同時に人であるイエスに対してなら、「神よ」との呼びかけも当然です。
b) 私たちは、王であるイエスの王妃
それでは「結婚」という事柄についてはどうでしょう。イエスは人間としての結婚をすることはありませんでした。王、イエスの結婚とは何を意味するのでしょうか?新約聖書には、イエスを花婿として、イエスと教会との関係の比喩を伝えているところがいくつかあります。しかも私たちはただの花嫁ではないのです。「教会(私たち)はキリストの花嫁」と表現されますが、そして、正確には私たちは「王妃」なのです。詩人の王妃に対する忠告は、私たちにも向けられています。
その内容に入る前に、聖書に書かれている結婚や性別についての読み方について、注意しなければならないことをお話しします。聖書は神様に対する従順を教えるために、結婚や性別の違いを用いて説明します。しかしその逆ではありません。男を先に作ったのだから、女は男に従うべきとか、神様は男だから(それ自体も誤りです。)女は男に従うべきといったことは、聖書の本筋ではありません。そう教えているように見える表現があるのは、パウロも持っていた限界、時代や文化の限界があったからです。ですから、王妃という言葉の女性性にとらわれないでください。性別がどうであれ、私たち人間は、神であり王であるイエスに結び合わされ、イエスと共に歩むことが求められているのであって、時代や地域や文化に基づく特定の倫理観を求められているのではありません。
それでは、私たちにも向けられている内容についてお話しします。二つあります。
それはまず、王妃となる以前に持っていた、王妃には相応しくない思いを持ち続けないことです。それは私たちにとっては、イエスを信じる前の、自己中心的な価値観、何かを偶像視してしまう傾向です。しかし私たちはイエスのすぐそば、誰よりも近くに招かれているのですから、ただイエスを信頼して、他のものに頼らずに従うべきなのです。
もう一つは王妃は王ではないとしても王の代理として、置かれているところで、王のように振る舞うことを求められているということです。もちろん人間の王のように偉そうに振る舞えということではありません。私たちの王イエスは、確かに王であったのに、ちっとも王様らしくありませんでした。貴族や高位聖職者と一緒にいることより、社会の底辺にいる人たちと時を過ごすことを好まれました。イエスは、王妃である私たちにも同じようにすることを求めておられます。イエスと共に世界を愛し、正しく治めることです。
メッセージのポイント
「教会(私たち)はキリストの花嫁」と表現されますが、正確には「王妃」です。王妃となる以前に持っていた、王妃には相応しくない思いを持ち続けないこと。王、イエスに従うこと。王、イエスと共に世界を愛し、正しく治めることが私たちに期待されていることです。
話し合いのために
1) この歌は何について歌われていますか?
2) この歌はイエスと私たちの関係をどう暗示していますか?
子供たちのために
私たちはこの詩を、ヘブル書の著者のように、この詩を真の王イエスをたたえ、イエスと教会(信じて従う私たち)の婚礼と受け取ります。このたとえを説明するのにヘブル書は難しすぎるかもしれません。代わりにエフェソの信徒への手紙5章22~27節を使ってもいいと思います。注意してほしいことは、聖書は、あらゆる社会の中で当然と思われてきた、男性優位を教えているのではないということです。どのような性であれ、人間はイエスに結ばれ、イエスに従って歩むことが一番幸せであることを伝えて下さい。