聖い心、新しい霊、私に満たしてください

永原アンディ


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聖い心、新しい霊、私に満たしてください (詩編51)

 

 詩編50編の内容を覚えていますか? 厳しい神様からの私たちに対する告発と、それでも私たちには希望があるということが書かれていました。今日の51編は、50編の神様の問いかけに対する、詩人の決意が記されています。
私たちがある状況から救われたいと思うなら、まず自分自身の心の状態を客観的に正しく知ることから始めなければなりません。ここが中途半端なら、神様の下さる完璧な救いを中途半端にしか受け取れません。一時は、イエスを求めても、結局イエスと共に歩み続けることをやめてしまう人は多いのです。その原因の大部分は自分をちゃんとみないことにあります。一旦、自分ではどうすることも出来ない状態を、イエスに救い出してもらおうと近づいても、表面的な問題が去ると、また自分の力でイエスなしでやれそうだと思ってしまうのです。しかしそれは不可能なのです。問題はまたやってきます。なぜなら、全ての問題の原因は、「イエスに従っていない」ということにあるからです。

 


A. あなたも私もこんなもの (1-7)

1 【指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2 ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来たとき。】
3 神よ、わたしを憐れんでください御慈しみをもって。深い御憐れみをもって背きの罪をぬぐってください。
4 わたしの咎をことごとく洗い罪から清めてください。
5 あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。
6 あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しくあなたの裁きに誤りはありません。
7 わたしは咎のうちに産み落とされ母がわたしを身ごもったときもわたしは罪のうちにあったのです。

 この詩が表題にあるように、サムエル記下11、12章の出来事を直接反映していると考える聖書学者はほとんどいませんが、ダビデであれ、私たちであれ、この詩人のように告白しなければならない「罪人」であるということは確かです。私たちも、自分がこのような者である事を認めなければなりません。詩人は「あなたのみに」罪を犯したと告白します。ダビデがしたことは、現代であれば、王であろうと弾劾され、地位を追われ、投獄されるようなことです。でもこの時代、王が多くの妻を持つことも、それに加えて家来の妻を奪うことも、邪魔になったその家来を謀殺してしまうことも問題にはなりませんでした。しかし預言者ナタンは、それが神に背を向ける行為=神に対する罪だと指摘したのです。

 あなたは、自分が詩人やダビデのように「自分は、神様に対して徹底的に罪人である」と認められますか。私たちは、人の罪には厳しい目を向けるくせに、自分に対しては甘いのです。イエスは私たちの行為ではなく、心を見て罪を指摘されます。パウロはこう言っています。

「わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」 (ローマ 7:18-20)

 救いは「自分は、神様に対して徹底的に罪人である」という自覚からしか始まりません。

 


B. 神様に求めるべき二つのこと

 さて自分の罪を認めた人は、神様に二つのことを求めることができます。一つは、赦しを求めるということです。8-11(6-9)節を読みます。

1. 赦されること (8-11)

8 あなたは秘儀ではなくまことを望み秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。
9 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってくださいわたしが清くなるように。わたしを洗ってください雪よりも白くなるように。
10 喜び祝う声を聞かせてくださいあなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。
11 わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください。

 詩人は、神様が求めるのは、神様に対する宗教的な行為ではなく、神様からいただいた知恵で、日々を歩むということだと教えてくれています。だからそうできるように、私たちは、してしまった罪や心を支配した神様に対する反逆を赦してくださいと願い求め、神様に知恵を求めるのです。残念なことは、私たちが生涯、赦してくださいと言い続けなければならないことです。神様が赦してくれないからではありません。私たちが失敗を繰り返すからです。例えば、あなたが友達に本を貸すとします。ところが、その人が無くしてしまったと言った時、多分あなたは「弁償しろ」とはいわないでしょう。良い人ですね。で、その人がもう1度同じことをしたらどうですか?3回目は?かなり寛容な人でも4度は許せないでしょう。そんな感覚ですから、きっと神様も自分の過ちを、多くても3回くらいしか赦されないのではないかと思うわけです。旧約聖書にはありませんが、律法解説書では3回までは赦しなさい、とあります。ペトロはこのことについて、イエスの考えを聞きたくて質問しました。(マタイ18:21)「7回までですか?」イエスは律法学者より話がわかるから、倍くらいかな、それに一つ加えて7回かと予想したわけです。イエスの答えを覚えていますか?7×70=490回です!もちろん491回目でアウトだということではありません。無限に赦しなさいということです。このことの根拠は直後のたとえ話でわかるように、神様ご自身が私たちを何度でも赦されるという真理にあるのです。なぜ4ストライクアウトでも、7ストライクアウトでもないのでしょうか?それは、神様は私たちが完璧になることを求めておられるのではなく、何度背を向けても向き直って従ってくることを望んでおられるからです。残念ながら、私たちの罪の性質は7回くらい真剣に悔い改めれば、消え去るほどやわなものではありません。神様は490回目であろうと491回目であろうと立ち返ってくることを喜ばれます。

 

2. 働きのために整えられること (12-14)

もう一つ求めるべきことは、このような自分でも整えて用いてくださいと願うことです。

12 神よ、わたしの内に清い心を創造し新しく確かな霊を授けてください。
13 御前からわたしを退けずあなたの聖なる霊を取り上げないでください。
14 御救いの喜びを再びわたしに味わせ自由の霊によって支えてください。

 この部分が、今日一番心にとめていただきたい部分です。繰り返ししてしまう過ち、失敗。悪魔は、あなたの心に「だからイエスについて行くなんて意味がない、あいつが偉すぎるんだから、同じレベルになれるわけがない。俺と手を組んだ方がいい」と囁きます。しかし何度躓いても、悪魔の声に耳を貸してはいけません。礼拝の度に、このように叫び求めることで、イエスとつながっていられるからです。またこのように叫び続けなければ、私たちの内に神様の聖さは保たれません。しかし、このように叫び求め続けるなら、私たちの内面は少しづつですが変えられていくのです。

 


C. 新しくされた私たちに神様が期待されていること
1. 教えること、伝えること (15)

15 わたしはあなたの道を教えますあなたに背いている者に罪人が御もとに立ち帰るように。

 この節に違和感を覚えませんか?「罪人に正しい道を教えるって、あなたが罪人でしょう?」しかし、お話しして来たように神様の目から見れば、私たちは皆、罪人です。そして、あなたは「罪人仲間」の誰かに道=イエスを紹介されて、イエスに従う者となれました。世界には罪人しかいませんが、イエスを知った罪人、あなたは、イエスを誰かに紹介することができます。じぶんがダメだ、弱い、醜い、悪い、無知だという自覚は、イエスを紹介するのにハンディーキャップではなくアドバンテージです。あなたの周りにはイエスに会えば、その人生が好転する人が大勢いるはずです。あなたの大好きな親友イエスを紹介してあげましょう。

 

2. 自分自身を捧げること (16-21)

ただイエスを紹介する前に、もっと重要な生活の土台としてするべきことがあります。順番は逆になってしまいましたが読んでみましょう。

16 神よ、わたしの救いの神よ流血の災いからわたしを救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。
17 主よ、わたしの唇を開いてくださいこの口はあなたの賛美を歌います。

18 もしいけにえがあなたに喜ばれ焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのならわたしはそれをささげます。
19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を神よ、あなたは侮られません。

20 御旨のままにシオンを恵みエルサレムの城壁を築いてください。
21 そのときには、正しいいけにえも焼き尽くす完全な献げ物も、あなたに喜ばれそのときには、あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

 主を賛美し、口を開いて歌う礼拝、自分の全てを主の前にいけにえとして捧げるような礼拝、打ち砕かれ、悔いる心をそのまま主の前に持ってゆくような礼拝、そしてB2でお話しした清められ、新しくされ、神様の働きに用いられるように整えられる礼拝を捧げ続けるということです。これからがその時です。ただ主に向かって歌いましょう。

 


メッセージのポイント

自身の内面を正直に見つめる時、私たちは悲しくなるほど、愚かで、醜く、弱く、小さい者であることを認めざるを得ません。自分を救える人は1人もいませんが、救いは神様から来るのです。神様は私たちがどんな人間であるかよくご存知ですが、私たちを見捨てずに愛し続け、神の子としての歩みをすることができるように支えてくださいます。

話し合いのために

1) 神の求める「打ち砕かれた霊」とは?
2) あなたが周りの人に伝えるべきことは何ですか?

 

子供たちのために

イエス様は神様であり先生でもありますが、友達でもあります。イエス様は、レビを始め、当時は社会的に軽蔑されていた人たちと一緒に食事をし、互いのことを話して友人になりました。私たちにも同じようにしてくださいます。私たちは自分のできることやできないことで神様を喜ばせたり悲しせたりしてしまうと心配してしまいますが、イエス様が求めているのは、ただ私たちがイエス様の友人でいることです。イエス様はみんなにとって大切な友達でしょうか、どうでしょうか?