イエス様と結ばれて生きる新しい命

池田 真理


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イエス様と結ばれて生きる新しい命 (マルコ 2:18-22)

 

 今日はマルコ2:18-22を読んでいきます。日本語の聖書でも英語の聖書でも「断食に関する問答」というタイトルがついていると思います。でも、後半の21-22節は、一見、断食とは何も関係がないたとえ話です。私ももしかしたらこれは別々に読むべきなのかもしれないと思って、他の福音書も見てみました。すると、マタイとルカの福音書にもこの話はこの通りの内容になっていました。断食の問答から始まったイエス様の教えは、一見関係がないたとえ話で終わっているのです。それはやはり、イエス様がこの話は全体として一つの教えとして教えられているということです。最初に全体を読んでみましょう。

18 ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19 イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20 しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」

 


A. イエス様は私たちの花婿
1. イエスは花婿 (18-19, イザヤ 54:5, 62:5)

皆さん、断食をしたことはありますか?ダイエットのためにとか健康維持のために断食したことのある人はいるかもしれませんが、宗教的な意味で断食をしたことがある人はあまりいないんじゃないでしょうか。でも、18節にはさらっと「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた」とあります。断食はユダヤ教の信徒が求められる重要な行為の一つでした。禁欲的生活によって自分を清め、信仰心を養い、神様への忠誠を誓う意味があります。また、神様への願いと祈りを求める際にも断食することがありました。先週ちょうど、ダビデとバトシェバの話が出ましたが、ダビデはその後神様に自分の願いを聞いてもらうために断食をしました。バトシェバが生んだ自分の子を神様が死なせようとしたので、そうしないでください、どうぞ助けてくださいと求めて7日間断食して祈りました。でも結局神様はそのダビデの願いには答えず、7日目にその子は死んでしまいました。ダビデの断食の祈りは聞かれなかったということです。断食をすれば祈りが聞かれるわけではないことは昔のユダヤ人も知っていました。でも、断食は神様への信仰と真剣さを表す行為として重要だったのです。現代でも、イスラム教ではラマダンという断食の季節を守る習慣があります。それはムスリムの人たちにとっては毎年自分と神様との関係を見つめ直す、とても重要な時期なのだと思います。クリスチャンの中にも、受難節の1ヶ月間は大好きなコーヒーを我慢するとか砂糖は一切取らないとか自分で決めて実行する人もいます。それは完全な断食ではありませんが、それでも大変な努力が必要なことだと思います。それが自己満足で終わることなく、本当に自分の信仰を改める機会となるならば良いことだと思います。他人に強制されるのではなく、他人と競争するためでもなく、自分と神様の関係の中だけで行うことならば、挑戦してみてもいいかもしれません。
さて、でも今日は断食の話がメインではありません。今日の物語に戻りましょう。イエス様は「なぜあなたの弟子たちは断食をしないのか」という質問に対して、直接は答えていません。代わりに質問で返しています。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。」昔も今も、結婚式は喜ばしいお祝い事であり、たくさんの人が集まって一緒に食べたり飲んだりして楽しむものです。参考書によると、イエス様の時代、ユダヤ人の結婚式は7日間続いたそうです。家族、親戚、友人、みんなが出たり入ったりして、飲んで食べて、歌って踊ってを続けたそうです。そんな中で断食する人はいないだろう、とイエス様は言ったのです。つまり、イエス様の弟子たちは今は喜んで祝っているのだから、断食する必要はないのだということです。何を喜んで祝っているのでしょうか?イエス様をです。このたとえで言うなら、イエス様が花婿なのです。
旧約聖書の中には、神様と人間の関係を結婚にたとえている箇所がいくつかあります。イザヤ書の2箇所を読んでみます。

イザヤ54:5 あなたの造り主があなたの夫となられる。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/全地の神と呼ばれる方。

イザヤ62:5 若者がおとめをめとるように/あなたを再建される方があなたをめとり/花婿が花嫁を喜びとするように/あなたの神はあなたを喜びとされる。

 人間同士の結婚には限界があるので、現実には結婚によって傷ついて苦しむことが多くあります。でも、ここで言われているのは、人間が罪によって歪めてしまう結婚関係ではなく、神様がデザインした本来の結婚の姿に基づいています。生涯を共に歩むと決め、そのためにお互いがお互いのために犠牲を払って支え合う関係です。イエス様は、この旧約聖書からの伝統をそのまま自ら実現されました。神様であるのに人間としてこの世界に来られ、私たちとの関係を永遠に変わることのない強いものにしようとされたのです。神様は最初から私たちのことをご自分に似せて造られました。そして、私たちをご自分の働きのパートナーして選んで用いてくださいます。そしてなによりも、こんな私たちのことを喜びとしてくださっています。神様は私たちが生きている限り、そしてこの命を超えて、私たちを永遠に支え、愛してくださる方です。そのことを、イエス様は大きな犠牲をもって私たちに証明してくださいました。

 

2. 花嫁のために犠牲になる花婿 (20)

20節「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」これは、実際に弟子たちが経験したことでもあり、私たちがイエス様と共に歩む中で経験することでもあります。イエス様が私たちの罪のために十字架で死なれた出来事は歴史上ただ一回ですが、私たちが罪によってイエス様を苦しませてしまうことは生涯数え切れません。そして、その度に私たちは自分自身の罪によって心を打ち砕かれて、神様に助けを求めます。また、十字架の上で苦しむイエス様に神様が沈黙されたように、私たちも神様の沈黙に苦しむことがあります。叫んでいるのに神様が聞いてくださっているのかわからなくなることがあります。そういうときにこそ、イエス様の十字架が私たちの希望になります。十字架は、イエス様が、つまり神様ご自身が、私たちの経験する苦しみを経験された証拠です。そして、イエス様の復活は、神様が私たちを罪と死のうちにそのままにしておかれず、新しい命を与えてくださることを教えてくれました。だから、私たちは絶望しても希望を持っています。
先に、神様と私たちの関係は結婚にたとえられるとお話ししました。結婚は互いが自分を犠牲にして互いに支え合うものですが、神様は先に私たちのために自らの命を犠牲にされました。それが私たちをどれほど深く愛してくださっているかの証拠です。神様が私たちのために死なれた事実が取り消されることはありません。私たちはそういう花婿、主からパートナーに選ばれているのです。

ただ、少しここで話の本筋からずれますが、ひとつ考えておきたいことがあります。イエス様がここで語っているのはあくまで花婿と婚礼の客についてであり、花嫁については語ってはいません。この点について私も悩んで色々考えましたが、やはり私たちは神様からパートナーとして選ばれており、神様が花婿ならば私たちは花嫁なのだと思いました。それはお話ししてきたように、旧約聖書から神様と人間の関係が結婚にたとえられているからです。また、マタイによる福音書にはイエス様が「十人のおとめ」のたとえ話をして、やはり私たちと神様の関係を婚姻関係にたとえています。(マタイ25章)この十人のおとめのたとえ話は、十人のおとめと十人の花婿の話ではなく、十人のおとめと一人の花婿の話です。つまり人間の結婚で考えれば明らかな一夫多妻制ということですが、神様は一人しかいないということを考えればむしろ自然なたとえです。イエス様は同時に、今日の箇所と同じように、私たちを婚礼の客にたとえることもあります。王子の婚礼に招いておいた客はふさわしくなかったから、外から人を招いたというたとえ話です。(マタイ22章、ルカ14章)この二つのたとえ方があることを考えると、イエス様からすれば私たちは花嫁であると同時に婚礼の客でもあるということになります。そんなことは人間の結婚式ではありえないことですが、イエス様のたとえ話では成立します。それぞれのたとえ話が伝えようとしているメッセージに合わせて、イエス様は私たちを婚礼の客にたとえたり花嫁にたとえたりするということです。考えてみれば、私たちは実際に自分が結婚式をあげれば花嫁・花婿ですし、他の人の結婚式に呼ばれれば婚礼の客です。それと同じかもしれません。私たちは最初に自分がイエス様と結ばれ、そのあとは自分とイエス様の関係を喜ぶと同時に、他の人がイエス様と結ばれることを一緒に喜びます。誰でも、最初はイエス様の花嫁ですが、同時に神様の国の婚礼の客になるということです。そして、私たちは何度もイエス様を疑ったり裏切ったりしますが、私たちがイエス様の元に戻ってくるたびに、神様の国では祝宴が挙げられます。イエス様を共に信じる教会の家族が、苦しみを共にし、喜びを共にしてくれます。だから私たちはみんな、イエス様の花嫁であり、イエス様の婚礼の客なのです。
ではなぜイエス様は今日の箇所で花嫁と言わずに婚礼の客と言ったのかという疑問が残ります。それはこの話の強調点が、花婿と花嫁にあるのではなく、イエス様が花婿であるという点にあるからだと思います。イエス様は断食を否定したわけではありません。でももし人々が、イエス様が真の主、真の神様だと知ったなら、喜びにあふれて断食などしている場合ではないと気付くだろうと言いたかったのです。真の神様が人間となられて、私たちを愛するために自らの命を捧げられたという出来事は、非常識すぎて多くの人には受け入れがたいことです。でもそれが、イエス様が実現された神様と私たちの新しい関係です。

 


B. 古い生活と新しい生活は両立 (21-22, 2コリント 5:17)

 もう一度21-22節を読みましょう

21 だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22 また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。

 イエス様を信じてイエス様に頼って生きる生き方と、自分を信じて自分に頼って生きる生き方は両立しません。それがこの、マルコによる福音書の中で初めて語られるイエス様のたとえ話の言っていることです。私たちはイエス様に全くふさわしくないにもかかわらず、イエス様はこの世界に来てくださり、人間となって、命を捧げてくださいました。そして、私たちをパートナーとして選び、愛し合う関係を結びたいと願ってくださいました。人間側の努力は、この神様の行動の前になんの意味もありません。私たちはイエス様がしてくださったことと、今一緒にいてくださることをただ喜び、感謝して生きるだけです。でも、そうやって喜びと感謝の中に生きることは、古い自分との戦いを意味します。私たちはすぐに自分と他人を比べますし、目に見える結果で全てを判断しようとします。そうではなくて、自分とイエス様の関係に目を注ぎ、悲しむべきことと喜ぶべきことを見分けましょう。これは一人の人間も教会も同じです。教会も、常に新しい革袋でいられるように、新しくされ続ける必要があります。一人ひとりがイエス様と結びついて、イエス様と共にいることを喜び合えるような関係が教会になければ、教会の意味はありません。最後に、2コリント5:17を読んで終わりにしたいと思います。

2コリント5:17 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。

イエス様と結びついて、新しく造り直されてください。一人ひとりもこの教会も、聖霊様によって新しくされることができるように求めてください。ただ、イエス様と共にいる喜びが私たちの中に満たされますように。

 


メッセージのポイント

イエス様は私たちをパートナーとするためにこの世界に来られた私たちの花婿、私たちの主、神様でした。神様が私たちのことをどれほど深く愛してくださっているかは、旧約聖書の結婚のアナロジーからもわかります。イエス様を通して神様の愛を知り、イエス様と共に生きると決めた後の生き方は、イエス様を知らなかった頃の生き方とは両立しません。自分に頼って生きるか、イエス様に頼って生きるかどちらか一方しかないのです。

話し合いのために

1) イエス様があなたの花婿だということについて、どう思いますか?
2) あなたが新しい革袋になるとはどういうことですか?古い革袋ではなぜだめなのですか?

 

子供たちのために

私たちと神様の関係は、旧約聖書の時代から結婚にたとえられてきました。みんなはイエス様と結婚していると言われたら、どう思うでしょうか?ただ、人間同士ではどんな関係でも傷つけ合ってしまいますが、イエス様は私たちを決して傷つけることはありません。それどころか、私たちのために犠牲になりました。そして、私たちと喜びも悲しみも共にしてくださる方です。「あなたのことが大好きだよ」と言ってくださっているイエス様の声をいつも聞いていてください。