教会への警告

池田真理


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教会への警告 (マルコ 3:20-35)

 今日の箇所は前回の箇所に引き続き、教会という言葉自体は出てきませんが、教会に向けて語られている言葉です。前回は教会とはどういう人達の集まりなのかが書かれていました。今日は反対に、教会とはどういうところではないのか、どうなってはいけないのか、教会への警告と言っていい内容が書かれています。それはメッセージノートではBとCなのですが、その前にAの部分を確認していきましょう。20-22節です。

 


A. 超自然的な力は信仰の決定的根拠にならない (20-22)

20 イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。

 21節にはイエス様の身内の人たち(家族)、22節には律法学者たちが登場しています。今日のお話はこの二組の人たちのイエス様への態度から、私たちが陥る間違いについてお話していきたいのですが、その前に、この人たちに共通している点を考えておきたいと思います。それは、この人たちはみんな、イエス様の不思議な力を認めていたということです。病気を癒し、悪霊を追い出す超自然的な力です。でも、彼らはその力を見てイエス様を信じるのではなく、「あの男は気が変になっている」「悪霊にとりつかれている」と言いました。このことは私たちにとっても注意しなければいけない点です。私たちは時々、イエス様が力強いわざを見せてくだされば簡単なのに、と思うことがあります。イエス様を疑ってしまう時や、大切な人にイエス様を知ってほしいと願う時、イエス様が私たちが疑う余地のないような素晴らしい力を示してくだされば簡単なのに、と思ってしまいます。でも、今日のこの箇所から分かるのは、そういう超自然的な力を見ることは、私たちの信仰の決定的な根拠にはならないということです。イエス様がどんなに素晴らしい奇跡を目の前に起こしてくださっても、疑う人は疑い、否定する人は否定します。大切なのは、私たちが一人一人、個人的にイエス様と出会って、イエス様を信じるかどうか自分で決めることです。超自然的な力を経験することはその励ましにはなりますが、一時的なことです。どうにもならない状況の中で、全てを変えるくれるような素晴らしい奇跡など起こらなくても、それでもイエス様は信頼するに足る方だと思えることが信仰です。その信仰の決定的根拠は、今日の箇所には出てきませんが、イエス様の十字架にしかありません。イエス様は私のために十字架で死なれたということを、本当のこととして信じるかどうかです。

 それでは今日の本題に入っていきましょう。もう一度22節に戻り、30節まで読みます。

 


B. 自分が神様だと思っている間違い (22-30)

22 エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23 そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24 国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25 家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26 同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27 また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 

1. 神様を悪魔としてしまう

 私たちが犯す間違いの一つ目は、この律法学者たちの態度に表されています。それは、いつもお話ししていることですが、自分が一番正しいと思い込んでいることです。それは、自分を神様にしているのと同じです。律法学者たちは自分たちは聖書や神様のことに関しては専門家だと自負していました。そして、自分の名誉を守ることに必死になって、イエス様を受け入れることができませんでした。だから、これは私たちの陥る問題でもあると言えます。神様を信じていて、聖書を知っていると思っている私たちこそ(教会こそ)危ないのです。私たちはイエス様を知って、自分の罪を知りました。でも、イエス様のことも自分の罪のことも、一生完全に分かることは誰にもできません。それを忘れて、限られた自分の知識と経験で何でも分かっているかのように振る舞ってしまうことはとても危険なことです。本当に神様が望んでおられることは何か、神様の意志はどこにあるのか、聖書は本当のところ何を言おうとしているのか、真剣に謙虚に求めることを忘れて、自分を正当化することだけに集中してしまいます。自分と違う価値観を持つ人や自分とは異質な人と出会ったときこそ、私たちは、それまで自分が当たり前と思ってきたことを手放す準備をしなければいけません。神様の価値観、イエス様の愛は、私たちの理解をはるかに超えています。神様はいつも古い私たちを打ち砕き、新しくすることができます。それを忘れてしまえば、最終的には今日の律法学者たちのように、自分が正しいと思い込んで、イエス様を悪魔としてしまうことも起こるかもしれません。それは神様を悪魔に、悪魔を神様にすることで、憎しみを愛し、愛を憎むこととも言えます。それは本当に「悪魔的」なことですが、私たちが自分自身を神様にしてしまえば実際に陥る間違いです。

 

2. イエス様の警告

 イエス様はここでとても厳しい言葉を言っています。もう一度28-30節だけ読みます。

28 はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29 しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30 イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

永遠に許されない罪があるというのはとても恐ろしいことですが、その前にイエス様は「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」と言われています。自分が正しいと思い込んでしまうこと、自分を神様にしてしまうこと、それによってイエス様を受け入れることができないことは、すべてこの赦される方の罪に入ります。私たちはみんなその罪を犯しています。イエス様を知っていても自分を神様にしてしまうことは誰もが犯す罪です。私たちはこの罪をいつも抱えながら、赦されて、イエス様に導いていただく途上にいます。そこまでは赦される罪です。でも、神様を悪魔にし、聖霊を汚れた霊とするのは、永遠に赦されない罪だとイエス様は警告しています。人間の大体の罪は赦される、けれども、今あなたが言っているその言葉は神様への重大な冒涜であり、その重大さを悟りなさい、と。私たちも、聖霊様の働きを否定したり拒否したりしてしまうことはよくあります。それは赦される罪です。でも、聖霊様が働いてくださっているのを悪魔の働きと呼んでしまったら、それは赦されない罪です。そんなことはあまり起こらないように思いますが、律法学者たちのように、自分を神様にして、妬みと敵対心だけで他人を裁いていたら、聖霊様の良い働きが悪魔の働きに思えてしまうことが起こるということです。そして、良い働きを邪魔して、悪魔とののしってしまいます。23節に戻ると、イエス様はこのことを伝えるために、わざわざ彼らを「呼び寄せて、たとえを用いて語られた」とあります。イエス様は、重大な罪を犯していることに気がつかない彼らに対して、断罪したのではなく、警告したということです。私たちもこの警告を受け取りましょう。

 それでは、今日登場したもう一組のイエス様を取り巻く人々について見ていきましょう。それは、イエス様の身内、イエス様の家族・親戚です。21節と31-35節を読みます。

 


C. イエス様は「私」の身内だと思っている間違い (21, 31-35)

21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。

31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 実は、21節はマタイとルカにはありません。それから、31-35節のエピソードも、マタイとルカではベルゼブル論争とは切り離して書かれています。でもマルコは、イエス様の母マリアや兄弟たちが、当初イエス様の働きに反対していたということを率直に記録しました。しかも、彼らと律法学者を並べて書いて、その両者に問題があったことを隠しませんでした。マタイとルカは、おそらくそれにちゅうちょして、マルコの書き方を編集しました。初期の教会の中で、マリアやイエス様の兄弟たちの存在は特別なものになっていったので、彼らのスキャンダルと言えるようなことを記録するのは不都合があったのだと思います。
それでは内容を見ていきましょう。イエス様の身内が犯していた間違いは、律法学者が犯していた間違いとそんなに違いはありません。でも、イエス様を知っているという点で、律法学者たちの問題よりさらに、私たち教会が犯す間違いに共通するところがあります。それは、イエス様は「私」の身内で、イエス様のことはよく知っていると思っている間違いです。

 

1. 自分の理解できる範囲でしかイエス様を理解しようとしない

 21節では、イエス様の身内の人たちが、それが誰だったか、マリアや兄弟たちだったのかわかりませんが、イエス様を取り押さえにきた、と言われています。「取り押さえる」とは「逮捕する」と同じ意味の強い言葉です。また、31節では、マリアたちが、「人をやってイエスを呼ばせた」とあります。人々の真ん中にいるイエスを呼び出して自分たちのところに来させる権利が、自分たちにはあると信じていたからです。どちらも、イエスは自分の身内であり、自分たちにはイエスをコントロールする権利があると思い込んでいることによる行動です。彼らは、自分の知っているイエスしか知ろうとしなかったので、イエス様が素晴らしい働きを始められたことを認められませんでした。ここに、私たち教会が陥る間違いがあります。前半でもお話ししましたが、私たちには一生かけてもイエス様のことも自分の罪のことも完全に理解することはできません。それなのに、ある程度の信仰生活を積むと、イエス様のことを理解した気になって、自分の経験と知識の中でしかイエス様を理解しようとしなくなります。そうすると、いつの間にか、イエス様を信じているのでなくて、自分の知識と経験を信じていることになってしまいます。その結果、このイエス様の身内の人たちのように、本当のイエス様の素晴らしさ、その大きさに気がつくことができず、イエス様を苦しめる側に立ってしまいます。これは、教会が本当に気をつけるべきことです。

 

2. 真のイエス様の家族とは

33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35 神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。

 イエス様の答えは、一見、実の母や兄弟たちに対して、とても冷たい態度のように思えます。自分を呼びに来た彼らに対して、そんな人たちは知らないと言っているようです。でもそれは、彼らがイエス様に対して間違った態度を取っていたからです。イエス様は代わりに、イエス様の本当の家族はどういう人たちのことを指すのか、新しい定義を示しました。それは、前回の箇所でも読んだように、イエス様のそばにいる人、そばにいてイエス様の話に耳を傾けている人たちです。その人たちは決して、イエス様のことを完全に理解していたわけではありませんし、間違いも犯す人たちです。それでも、イエス様のそばにいられることを喜んで、イエス様のことをもっと知りたいと願っていました。その心があれば、私たちは自分の思いではなく、イエス様の意志を求め、神様の意志を行おうとします。そして、その心さえあれば、私たちはイエス様の本当の兄弟、姉妹であると言ってもらえます。このイエス様の真の家族は、血縁関係はもちろん、人種も文化も時代も超えることのできるつながりです。また、越えていかなければいけないとも言えます。イエス様は、私たちの知識や経験に収まる方ではありません。文化や時代の制限も受けません。私たちは、自分は神様を知っている、イエス様を知っているという思い込みを捨てなければいけません。そうすれば、いつもイエス様によって視野を広く持つことができ、このイエス様の家族は常に新しくされ続けていくことができます。教会は、常に打ち砕かれ新しくされていく必要があります。そのために、私たち一人一人が、イエス様のそばにいることを求め、常に新しくされていきましょう。


メッセージのポイント

自分は神様を知っている、イエス様を知っている、と思い込んでいることが一番危険です。教会はいつもその危険にさらされています。その思い込みによって、私たちは自分を神とし、他人を裁きます。その思い込みによって、私たちはイエス様の愛を理解せず、自分の狭い理解力の中でしか人を愛することができません。一人ひとりが自分の限界を認め、自分勝手な思いではなく、イエス様の意志を追い求めましょう。それによって、イエス様の真の家族となりましょう。

 

話し合いのために

1) この間違いを犯さないために私たちにできることは何ですか?
2) 真のイエス様の家族とは?

 

子供たちのために

全体は長いので、31-35にしぼって、イエス様の家族とはどういうものか(どういうものでないか)話してみてください。教会がイエス様の家族であるということから考えてもいいかもしれません。人間の家族とイエス様の家族の似ているところと違うところはなんでしょうか?