池田真理
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静かにこの世界に来られた神様 (ルカによる福音書 2:8-16)
讃美歌「ああベツレヘムよ」より
アドベント2週目の今日は、「ああベツレヘムよ」を歌いました。今日はこの歌の歌詞からヒントをもらって、ルカ福音書にあるクリスマスの物語を読んでいきたいと思います。その前にプロローグとして、歌のタイトルであるベツレヘムという町のことが聖書でどのように言われてきたか、少し確認しておきたいと思います。旧約聖書ミカ書5:1(英語では5:2)を読みます。
A. 実現した預言 (ミカ5:1, マタイ 2:6)
ミカ書5:1 エフラタのベツレヘムよ/お前はユダの氏族の中でいと小さき者。/お前の中から、わたしのために/イスラエルを治める者が出る。/彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる。
ミカという預言者は、イエス様が生まれるより700年ほど前に生きた人です。この預言は、その頃から、人々が待望する救い主はベツレヘムで生まれると教えているということです。ベツレヘムは、この預言でも言われているように、小さな町でしたが、旧約聖書の中ではダビデが育った町として知られています。
イエス様がベツレヘムで生まれ、この預言は実現しました。マタイはこのミカの預言を引用してこう書いています。マタイ2:6です。
マタイ2:6 『ユダの地、ベツレヘムよ、/お前はユダの指導者たちの中で/決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、/わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』
それではルカ2章の物語を読んでいきましょう。今回、「ああベツレヘムよ」の歌詞を読んでいて、改めてイエス様誕生の物語の不思議さを感じました。神様が人となられてこの世界に生まれてこられたという前代未聞の大事件のはずなのに、それはとてもひっそりと静かに起こりました。(“How silently, how silently, the wondrous gift is given.” 「なんて静かに、素晴らしい贈り物が与えられたのでしょう。」) 世間的には、ある夜、ある小さな町で、身分の低い若い夫婦に男の子が生まれたという、ありふれた出来事だったのです。その子は神様が送られた救い主であるという知らせは、ごく限られた人にしか知らされませんでした。その限られた人たちに含まれたのが、今日読んでいく羊飼いたちでした。ルカ2:8-14を読みます。
B. 静かな始まり (ルカ Luke 2:8-14)
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。14 「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」
1. 夜に輝く光
羊飼いたちがいたのは夜の真っ暗な野原でした。火はたいていたと思いますが、焚き火やたいまつでは自分の周り数メートルくらいしか照らせず、その範囲を超えればもう足元も見えない暗闇です。遠くに町の灯りが見え、時々自分たちの羊の鳴き声がする、彼らにとってはいつもの静かな夜だったと思います。そこに急に光が差して天使が現れました。彼らが驚くのは当然です。天使が彼らに伝えた内容は後で見ていきたいと思いますが、ここではまず、暗闇を光が照らすというイメージを心に留めましょう。夜空に輝く星のイメージはクリスマスの物語に必ず出てくるイメージです。今日の箇所では星ではなく天使と共に現れた光ですが、同じイメージです。これはイエス様がどういう方であるかを象徴するイメージでもあります。イエス様はこの世界と私たちの心の暗闇に光を与えてくださる方です。どんなに目の前が真っ暗で先が見えなくても、イエス様という光が消えることはありません。イエス様の与えてくださる希望は永遠に消えることはないということです。なぜそう言えるのかは一人ひとりが自分で確認しなければいけないことです。今暗闇にいると感じている方は、どうぞ今日、イエス様が自分の暗闇を照らして光となってくださるということを確認してください。
(“Yet in thy dark streets shineth / The everlasting Light / The hopes and fears of all the years are met in thee tonight.” 「しかし、あなたの暗い道に永遠の光が輝いた。今夜、あなたのこれまでの望みも恐れも、すべてが満たされる。」)
2. 知らされたのは羊飼いたち
今日の箇所でもう一つ注目したいのは、救い主が生まれたと知らされたのは羊飼いたちだったということです。羊飼いは当時、社会的な身分も低く、宗教的には罪人とされていました。ユダヤ人の宗教家たちが定めた様々な掟を、羊の世話のために守ることができなかったからです。でも神様はそういう彼らを選んで、喜びの知らせを届けました。それも、彼らが夜通し野宿をしていた時にです。彼らは他の人が眠っている間も働いていました。神様は、社会に理解されていない、他の人の目には見えない苦労をしている彼らの苦労を知っていました。そして、彼らにこそ、一緒に喜びを分かちあってもらいたいと願われました。神様は、私たちの苦労も知っています。他の人には知られていなくても、静かに耐えていること、悩んでいること、頑張っていることを、神様はよく知っています。そして、天使を通して羊飼いたちに告げたように、今も私たちに喜びの知らせを届けてくださっています。。
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」
3. 救い主は赤ちゃん?
今回改めて考えてみて、この天使が告げた内容は、普通はとても説得力がない内容なんだと思いました。すべての人を救う救い主が生まれた、それは素晴らしいことです。でも、その救い主はまだただの一人の赤ちゃんで、寝ているだけで何もできません。しかも、その子は王様の王宮のふかふかのベッドに寝ているのではなく、家畜小屋の飼い葉桶に寝ていました。私たちはこれがイエス様の誕生の物語だと知っているので、すんなり受け入れていますが、普通はちょっと受け入れがたい内容なんじゃないでしょうか。それがしるしだと言われても、そんな貧しい状況の小さな弱い赤ちゃんがなぜ救い主だと信じることができるでしょうか?天使が光とともに現れるという普通ではない状況でなければ、とても誰も信じることはできなかったと思います。
でも、これが神様から私たちへの歴史上最大のプレゼントでした。神様自身が自分を私たちに捧げて、弱い人間になりました。神様はイエス様として人間の母親から生まれ、一人では何もできない弱い存在にまでなって、この世界に来てくださったということです。そしてその最期は十字架につけられて殺されるという、神様ならばそんなことが起こるはずのない結末を迎えることになります。そのすべては、神様が私たちをご自分の子供として呼び戻すためでした。神様は、私たちの罪によって歪んで傷ついている世界の中に来てくださり、本来神様が意図された世界はもっと素晴らしいものだと、ご自分の身を持って証明してくださいました。自分自身が弱くなり、傷つけられ、殺されることを通して、私たちの苦しみと絶望のすべてを引き受けてくださいました。だから私たちは、神様は私たちを愛し、最大限の関心を持っているのだと信じることができます。神様は、私たちが希望と喜びのうちに人生を歩むことを望んでいるのです。神様がそう望んでいるならば、私たちは絶望の中で希望を信じ、悲しみの中で喜びを選ぶことができるはずです。そのように生きることができたら、私たちはこの世界の中にいながら、神様の国の恵みを知っていることになります。イエス様の誕生は、この恵みを私たちに与えたいという神様の意志が、私たちに目に見える形で実現した瞬間だったのです。
(“So God imparts to human hearts / The blessings of His heaven / No ear may hear His coming / But in this world of sin / Where meek souls will receive him still / The dear Christ enters in.” 「神様は人間の心に天国の祝福を分け与えられる。その方が来られることは誰も信じないかもしれない。しかし、罪深いこの世界の中にキリストは入って来られ、従順な者は彼を受け入れるだろう。」)
それでは最後に、この喜びの知らせを受け取った羊飼いたちの行動から、私たちがこれからするべきことを教えてもらいましょう。15-16節です。
C. イエス様を探しに行く(ルカ 2:15-16)
15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。
羊飼いたちは、天使に教えられた内容を自分の足で確かめに行きました。救い主が本当に生まれたのかどうか、本当に飼い葉桶に寝ているのか、自分たちで見に行ったのです。私たちも彼らと同じように、他人からイエス様のことについて聞いているだけではなく、自分でイエス様を探しに行かなければいけません。イエス様はもう目には見えませんが、私たちが探すなら、必ず私たちにわかる形で、私たちのそばにいることを教えてくれます。このことに関しては「ああベツレヘムよ」の4番の歌詞がとてもよく表してくれているので、読んでみましょう。
O holy Child of Bethlehem / Descend to us, we pray / Cast out our sin and enter in / Be born to us today / We hear the Christmas angels / The great glad tidings tell / O come to us, abide with us / Our Lord Emmanuel
ベツレヘムの聖なる子よ、私たちのもとに降ってきてください。私たちの罪を取り去り、私たちのうちに入ってきてください。今日、私たちのうちに生まれてください。クリスマスの天使たちのもたらした喜びの知らせを私たちも聞いています。どうぞ来てください。私たちのもとにとどまってください。私たちの主、インマヌエル。
これは祈りの言葉です。“Be born to us”「私たちのうちに生まれてください」というのは、 “Be alive in us”「私たちのうちに生きてください」と言い換えていいと思います。イエス様を自分で探して、本当におられるのか自分で確かめるというのは、イエス様が自分にとって生きておられると確かめるということです。私たちはみんな、人生のどこかの地点でこのことを確かめます。そしてイエス様を信じる決心をします。でもそれで終わりではありません。私たちは今日も、自分のうちにイエス様が生きていてくださることを確かめなければいけません。それも、私たちの強さの中にではなく、弱さの中にこそ生きておられるイエス様です。神様は最初から、小さいベツレヘム、貧しいマリアとヨセフ、羊飼い、飼い葉桶を選ばれました。静かな夜にひっそりと、暗闇を照らす光としてこられました。この方に、「共にいてください、インマヌエル」と祈るなら、私たちは小さいままでも、小さくありません。今日、私たち一人ひとりの心に、イエス様が生きてくださいますように。
メッセージのポイント
イエス様は2000年前のある夜、小さな町ベツレヘムで生まれました。神様は、静かな夜に小さな町で、身分の低い人たちに囲まれて、貧しい飼い葉桶で眠る赤ちゃんとして、この世界に来られたのです。私たちの小ささや弱さの中にこそ来てくださるイエス様を、私たちも探して、確認して、喜びましょう。
話し合いのために
私たちがイエス様を探すとは具体的に何をすることを指しますか?どうすればイエス様に会えますか?どうすれば喜ぶことができますか?
子供たちのために
何百年も前から人々が待っていた救い主なのに、イエス様の誕生はごくわずかの人に知らされただけで、一般的にはただ貧しい若い夫婦に男の子が生まれたという、とても目立たない出来事にすぎませんでした。どうして神様はそんなイエス様の誕生の仕方を選んだのでしょうか?みんなで考えてみてください。