神様の憐れみによって確かな心を持つ

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神様の憐れみによって確かな心を持つ

(詩編57、2コリント12:9, 10)

永原アンディ

ダビデの詩と題されている詩の多くは後世に作られたと考えられます。しかし、詩人たちの思いがダビデの思いに寄り添ったものであることは間違いありません。人はダビデをその強さや賢さによって人気No1の王だと考えますが、神様の目から見たダビデの良いところは、自分の弱さを率直に認め、神様に憐れみを求めるところです。ダビデの生涯が私たちに教えてくれるのは、本当に強い人とは、自分の弱さを知って神様に憐れみを求める人だということです。皆さんが自分は弱いと知っているなら、強さを持つ希望があります。まず全体を通して読んでみましょう。

1 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて、ダビデの詩。ミクタム。ダビデがサウルを逃れて洞穴にいたとき。】
2 私を憐れんでください。
神よ、私を憐れんでください。
私の魂はあなたのもとに逃れました。
災いが過ぎ去るまで
あなたの翼の陰に私は逃れます。
3 私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。
4 神が天より使いを送り
私をお救いくださいますように。
私を踏みにじる者が嘲っています。〔セラ
神が慈しみとまことを送ってくださいますように。

5 私の魂は雌獅子の群れのただ中に
人の子らを貪り食う者たちの間に伏しています。
その歯は槍、矢。
舌は鋭い剣。
6 神よ、天の上に高くいませ。
あなたの栄光が全地にありますように。
7 彼らは私の足元に網を仕掛け
私の魂は打ち沈みます。
彼らは私の前に落とし穴を掘りましたが
彼ら自身がその中に落ち込みました。〔セラ

8 神よ、私の心は確かです。
私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
9 目覚めよ、私の栄光よ。
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
私は曙を目覚めさせよう。
10 わが主よ、もろもろの民の中であなたに感謝し
国々の中であなたをほめ歌おう。
11 あなたの慈しみは大きく、天にまで及び
あなたのまことは雲にまで及ぶ。
12 神よ、天の上に高くいませ。
あなたの栄光が全地にありますように。


A. 神さまの憐れみ (2-4)

2 私を憐れんでください。
神よ、私を憐れんでください。
私の魂はあなたのもとに逃れました。
災いが過ぎ去るまで
あなたの翼の陰に私は逃れます。
3 私はいと高き神に
私のために成し遂げてくださる神に呼びかけます。
4 神が天より使いを送り
私をお救いくださいますように。
私を踏みにじる者が嘲っています。〔セラ
神が慈しみとまことを送ってくださいますように。

1. 神さまの憐れみを求める

 神様の性質を表す言葉のナンバーワンは「愛」ですが、「憐れみ」も忘れてはいけない重要な性質です。「愛の神」「神は愛」といった表現より、「憐れみ深い神」「神は憐れみ深い」といった表現の方がより多く見られます。ダビデ一人だけでなく、アブラハムの時代からイエスの時代に至るまで、強力な国々に囲まれながら生き延びてきたイスラエル民族にとって、神様が憐れみ深い方であることは明らかなことでした。しかしそれは、すべての人間にとって同じことです。自然環境も人間関係に対して人ができることは多くはありません。自分の能力で生きている人は一人もいません。誰もが神様の憐れみに“生かされている”のです。
 空気の成分は窒素が78%、酸素が21%、0.9%がアルゴンで、残りの0.1%の中で一番多いのが、温暖化で注目される二酸化炭素ですが、0.03%に過ぎませんが。しかしその二酸化炭素が2倍、つまり0.06%になれば、平均気温は4度上昇するという計算をする人がいます。それは夏になると北極海には氷はなくなり、アマゾンの森林の2/3が砂漠化することを意味します。人間はもちろん多くの動物の生命が脅かされるでしょう。神様などおらず、偶然にこの割合の大気が、長い間変化せずに存在するのだという人もいると思いますが、私には、神様がそのようにお創りになり、守っていて下さると考える方がずっと無理がありません。
 人間関係も厄介なことだらけです。実際私たちは、人間関係の悩みの方がずっと深刻に思えて、地球温暖化のことを考える暇がある人はほとんどいないわけです。しかし、本当は、神様の憐れみによって「大丈夫」なのです。人間関係で悩んでも、相手を変えることはできませんし、自分を変えることだって簡単ではありません。それでも「大丈夫」なのは、自分勝手で自己中心的で人に対して憐れみの気持ちを持ち難い私たちとは正反対に、神様が憐れみ深い方だからです。

2. 神様のもとに逃げ込む

 私たちは遠く離れた神様に虚しく叫んでいるのではありません。詩人が、神様の翼の陰に隠れて災いが去るのを待つと表現しているように、私たちは神様のもとで災いから身を隠し、避けることができます。神様の翼は私たちにすぐ近くに目に見えるかたちで存在します。それが教会です。だから教会は、人の目に見える形でご自身を表された神様:イエス・キリストの体と言われているのです。そしてそれは、十字架が付いた建物のことではなく、イエスを主と信じる人々のコミュニティーのことです。私たちは、災いから身を隠すコミュニティーを見つけた者たちなのです。私たちは、この中でずっと身を隠しているのではなく、暴風が収待って歩いて行けそうなら外に出て歩き始めます。しかし、また危機がやってくれば何度も助けを求めて、ここに逃げ込み、風が収まるのを待つことができます。

 そしてそれを繰り返していくうちに、私たちは自分がただ、このキリストの体に、何かがあれば助けを求めて身を寄せるだけ者ではなく、同時に自分自身がこの体の一部であることを知るようになるのです。つまり、あなたのところにも、誰かが災いから身を隠すためにやってくるということです。

 イエスは、私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさいと言われます。また同様に、私があなたがたを憐れんだように、あなた方も憐れみ深い者となりなさいと勧められます。イエスに愛され、イエスの憐れみで生きる者は、人々を愛し、憐れみ深い者となることができるのです。

 明後日から始まる「線路沿いのエンドウマメ」はユアチャーチが周辺の人々にとっても「神様の翼」となる機会なのです。


B. 確かな心を持つ (5-12,2コリント12:9,10)

5 私の魂は雌獅子の群れのただ中に
人の子らを貪り食う者たちの間に伏しています。
その歯は槍、矢。
舌は鋭い剣。
6 神よ、天の上に高くいませ。
あなたの栄光が全地にありますように。
7 彼らは私の足元に網を仕掛け
私の魂は打ち沈みます。
彼らは私の前に落とし穴を掘りましたが
彼ら自身がその中に落ち込みました。〔セラ
8 神よ、私の心は確かです。
私の心は確かです。
私は歌い、ほめたたえよう。
9 目覚めよ、私の栄光よ。
目覚めよ、竪琴よ、琴よ。
私は曙を目覚めさせよう。
10 わが主よ、もろもろの民の中であなたに感謝し
国々の中であなたをほめ歌おう。
11 あなたの慈しみは大きく、天にまで及び
あなたのまことは雲にまで及ぶ。

1. 人を見ないで、イエスを見上げる

 私たちの肉眼は神様を見ることはできません。目の前に見えるのは人間です。自分を喜んでくれる人、理解してくれる人ばかりなら悩みはありませんが、理解してくれない人、自分を嫌う人、さらには攻撃してくる人までいます。また反対に、私たちが自分を守ろうとして無意識のうちに表わす態度が相手にとって不快なもの、不安にさせるものとなっていることもあります。良い人間関係を保ちたいと思って、その人間関係だけに目を向けることは返ってそれを悪化させることになります。最初にお話ししたように、人間関係は、神様の憐れみという介入なしに、その健康を保つことはできないのです。そこで私たちは一旦、目の前の人間関係から目を離し、イエスに目を向けるのです。それは、人間関係を見ることをやめてしまうということではありません。イエスを見上げるということは、自分の存在の原点 (origin) を再確認するのです。相手と自分との関係だけに気を取られていたら、イエスと自分との距離が遠く離れてしまっても気付けないという恐れがあります。相手が、自分にとってどのような人であっても(パートナーであっても、敵対する人であっても、1対1の関係でも、グループであっても)、あなたがイエスとの関係を確認することで、どうしたらその人間関係を良くすることができるかが見えてきます。

2. 感謝と賛美を献げる

30 また、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。31 それは、からし種のようなものである。地に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」

 詩人は、状況が困難であっても神様を信頼し続けて、失望せず「神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように」と祈り続けました。そして、やがて自分を苦しめる者が自滅してゆくことを体験しました。それで「神よ、私の心は確かです。私の心は確かです。私は歌い、ほめたたえよう。」と言い表すことができたのです。私たちも、「神よ、天の上に高くいませ。あなたの栄光が全地にありますように」と求め続けましょう。そして神様が見せてくださる一つ一つの恵みに応えて「神様、私の心は確かです。私の心は確かです。私はあなたに歌い、あなたをほめたたえます」と感謝と賛美を献げ続けましょう。弱さを嘆いている必要はありません。パウロは辛い持病があったようで、それを取り除いてもらえるように、3回、真剣に主に願いました。その時の主の答えとパウロの応答を聞いてください。時いただけるようにコリントの教会への第二の手紙でこう言っています。

ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。 それゆえ、わたしは、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まりの中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。(2コリント12:9,10)

私たちの弱さの中にも、主が力強く働いて下さることを祈り、主に従って歩んでいきましょう。


メッセージのポイント

神様の憐れみなしに、強く生きられる人はいません。私たちは弱さを誇るべきです。なぜなら、パウロも言っているように、私たちの弱さの中にこそ、神様の力が十分に発揮されるからです。私たちの心が、目に見える出来事にかかわらず揺らがずにいられるのは、神様の憐れみにより、神様と共に歩んでいるからです。

話し合いのために

1) “心が確か”とはどういうことですか?
2) 神様に憐れみを求めて祈った経験をシェアしてください

子供たちのために

「弱い人が強い」という真理を伝えてください。ダビデやパウロのエピソードでもいいのですが、みじかな自分たちの経験から、弱さを自覚していて神様に頼って生きる人の方が力強く行きられることを伝えていただきたいです。自信満々だったり、能力のあることよりも、いつでも自分の弱さを知っていて神様に助けを求める人の方が確かな心を持っています。弱くても、劣っていても大丈夫!イエス様を見ながら歩こうと励ましてください。