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魂の渇きに気づけ!
(詩編 63)
永原アンディ
A. 渇かなければ水は得られない (1-4)
1【賛歌。ダビデの詩。ダビデがユダの荒れ野にいたとき。】
2 神よ、あなたこそわが神。
私はあなたを探し求めます。
魂はあなたに渇き
体はあなたを慕います。
水のない乾ききった荒れ果てた地で。
3 聖所であなたの力と栄光にまみえるため
私はあなたを仰ぎます。
4 あなたの慈しみは命にもまさる恵み。
私の唇はあなたをほめたたえます。
皆さんは、脱水症の事をよく知っていると思います。暑い夏に多いのですが、冬のエアコンで暖かく乾燥した室内も危険なのだそうです。しかし、この症状はのどが乾きやすい人がなるわけではありません。むしろ渇きに鈍感で水分補給の必要をあまり感じない人の方が危険なのです。気づかないうちに体内が致命的に脱水して突然致命的な症状を引き起こすかもしれません。
このことは体だけではなく、魂についても全く同じ事が言えます。
流されるままに人生を生きているような人がいます。渇きを知っている自分より気楽そうで、正直、羨ましくさえ思えるかもしれません。コカインが体を蝕んでも気づかず、得られる快楽だけを感じてやめようとはしないように、神様ではなく、魂を蝕む欲望を追求し続けるなら、心や体、あるいはその両方を病むことになります。しかも、重症化するまで気付かないのです。大切な人々がそうなっていくのを見ることは辛い、だから私たちはイエスを紹介するのです。
この詩人は、魂の渇きを強く感じて叫んでいますが皆さんはいかがですか? イエス・キリストを主、神と信じ従って歩み始めたということは、この渇きに少なくとも一度は気付いたということです。イエスとサマリア人の女性の会話を覚えていますか?
(ヨハネ4:12-14) あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」
イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
私たちも渇きを覚えたからこそイエスに求めたのです。
しかし、また渇きを忘れてしまう人が少なくないのです。どうやら、ほっておくと渇きを感じなくなる、のが私たちの頑固な罪の性質のようです。イエスに求めた時のことを思い起こして下さい。逆説的ですが、神様の恵みを痛切に感じていない人の方が、魂の脱水症の危険が大きいのです。
神様は私たちに自動的に「命の水」を補給してくださるわけではありません。なぜでしょう?神様が人間を、ご自身に似た姿にお造りになったと創世記にありますが、それは自分の意思で神様とともに生きる存在としてお造りになったからです。私たちは神様のロボットではないのです。気がつきにくい魂の渇きを自分から求めなければなりません。つまり、礼拝することを自分のプライオリティーの頂点に起き続けることです。
B. 渇きから賛美に (5-9)
5 命のあるかぎり、あなたをたたえ
その名によって、手を高く上げよう。
6 極上の食物にあずかるように私の魂は満ち足り
唇は喜び歌い、口は賛美の声をあげます。
7 私が床であなたを思い起こし
夜回りのとき、あなたに思いをはせるなら
8 あなたは必ずわが助けとなってくださる。
あなたの翼の陰で、私は喜び歌います。
9 私の魂はあなたに付き従い
あなたの右の手は私を支えてくださいます。
切なる叫びは、神様に届いています。私たちが25年間、捧げ続けた礼拝の上にユアチャーチは成り立っています。教会としても、その一部である私たちそれぞれの生活の中でも、泣き、叫び、求めざるを得ない時を通ってきましたが、それらの全てが神様に忘れ去られることなく「賛美」に変えられてきたことを皆さんは知っているはずです。それはこれからもそうなのです。苦難はやってくるでしょう。しかしその全ては「賛美」へと変えられます。
(詩編126:5,6)「涙と共に種を蒔く人は喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる。」
私たちはこのことを繰り返し経験してきました。まだイエスに従い始めて間もないなら信じられないかもしれません。主に従ってきた時間が長ければ偉いということでは全くありませんが、恵みの体験を多く得られていることは確かです。もちろんその前提として、飢え乾き苦しむ体験も多く経験してきたわけです。そのような体験をしてきた「おじいさん」としていうわけですが、神様に本気で近づき、心の全てを向けて、思いの全てを、主に伝えるように、礼拝するなら、「私は渇いています。あなたの命の水で、あなたの霊で、私を満たしてください」と叫び続けるなら、イエスは必ず応えてくださいます。苦痛や恐怖、不安の叫びは、感謝と賛美の歌に変わります。
もう40年以上前になりますが、私は22歳のときに、自分が渇いていることを知りました。いろいろなことに関心を持ちましたが、どれも私の心の渇きを癒すものはありませんでした。それがイエスではないかと思い至ったのです。確信などではなく、ただイエスに賭けてみよう思い、「あなたに従います」と言って一緒に歩き始めました。失望したらいつでもやめてやろうと思いながら歩き始めたのです。その結果を、皆さんは今見ています。お話ししてきたように、イエスは私の全ての叫びを賛美の歌に変えてくださいました。ですから、私が勧められ、確信のないまま従ったイエスに、あなたも従うことを勧めたいのです。
C. 賛美から信頼に (10-12)
10 私の命を根絶やしにしようとうかが者が
地の底へと入り込みますよう。
11 剣に渡され
ジャッカルの餌食となりますように。
12 王は神によって喜び
神に誓いを立てた者が皆、誇りを持ちますように。
偽って語る口は塞がれますように。
詩人は、それでも相変わらず、攻撃する者の脅威にさらされているようです。自分に襲いかかる悪をなんとかして下さい。ここで記されているような言葉を使って願ってもいいのです。いくら正義が曲げられて、悪が力を振るっても、神様は必ず私たちを守り、導き続けられます。そのような中で、切実な叫びが賛美に変わる経験をするのです。そのような経験を、何度も経験することによって、神様への信頼が少しづつ深まり、安定したものになっていくのです。神様への信頼は試練を通らなければ強くはならないのです。私たちは試練がなければ、自分の弱さに気づきません。弱さを知れば、渇きに気づきます。渇きに気づけば、勝利はその先にあります。心を開いて、命の水に満たされ、さらに溢れ出す器になりましょう。溢れ出す、それは誰かに伝わるということです。もっと私を満たしてください、祝福してください、癒してください。それは、決して欲張な叫びではありません。その結果は、あなたを通して、人々の心にも神様の恵みが注がれることになるからです。
メッセージのポイント
魂の渇きそのものよりも、その渇きに気づかないことの方が恐ろしいのです。心の渇きを覚えるなら、あなたの魂は健康です。神様は、願い求めるなら必ず、魂を命の水で満たして下さるから。「私の魂をあなたの命の水で満たして下さい」と叫び求める声は、やがて賛美の歌に変えられます。礼拝と賛美が私たちの主への揺るがない信頼を実現します。
話し合いのために
1) なぜ渇きそのものより、それに気づかないことの方が危険なのでしょう?
2) 今度、主への信頼を失いかけた時、あなたはまず何をしますか?
子供たちのために
のどが渇くことを子供たちは知っています。そこから「心の渇き」を連想することを助けて下さい。親や友達、兄弟が様々な理由で自分に心を向けてくれないとき。したいことが様々な障害によってできない時、欲しいものがなかなか手に入らない。あの感じが心の渇きです。しかしそれは決して満たされない。もっともっと欲しくなって、それはきりがないからです。この心の渇きを癒すことができるたった一人の方がイエス様です。求めて、渇きが癒されることを経験できます。今持っていなくても、自分に必要なものは必ず与えてもらえます。