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神様が助けられないのではなく、私たちが助けを求めていない
(マルコ 6:1-6)
池田真理
皆さんには有名人の知り合いがいますか?今は付き合いがなくても、子供の頃同じ学校だったとか…。私はタレントのベッキーと同じ幼稚園でした。私の一つ上で子供同士でも親同士でも知り合いではありませんし、小さい頃のことなので私には何の記憶もありませんが、ちょっと自慢したくなります。同じ地域の生まれというだけで親近感を持ってしまいます。自分の知っている人が有名人だったら、誰でも普通はちょっと誇らしく思うんじゃないでしょうか。特に、もしその人のことを子供の時から知っていたら、特別に嬉しくなると思います。まして、その人が世間で素晴らしい先生だと賞賛されていたら、誇らない理由はありません。
でも、イエス様の故郷ナザレの人たちは、多くの人の病気を癒し、悪霊を追放して有名になったイエス様を喜びませんでした。むしろ、頭がおかしくなったと嘲りました。それはなぜだったのでしょうか?マルコ6:1-3を読んでいきます。
A. イエスが神様であるはずがないという思い込み (1-3)
1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになった。弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。」こうして、人々はイエスにつまずいた。
1) イエスの知恵と奇跡に驚きながらも…
イエスの兄弟や親戚がイエスのことをよく思っていなかったということは、マルコによる福音書では3章にもすでに出てきました。
3:21 身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。
また、ヨハネによる福音書7章にも、イエスの兄弟はイエスを信じていなかったということが書かれてあります。そして、それはイエス様の故郷ナザレの人たちも同じでした。もう一度2節を読みます。
2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。
ナザレの人たちはイエス様のことをうわさで聞いていましたが、実際にイエス様の言葉と奇跡に触れて驚きました。イエス様が教える神様の国の話は、それまで誰も教えたことがないものでしたし、イエス様が行う病気の癒しも悪霊の追放も、それが人間の力を超えた奇跡だということは誰にでも分かったからです。そんな素晴らしい教えと奇跡に驚きながらも、彼らはイエス様を受け入れることができませんでした。新しい素晴らしい先生が自分たちの村ナザレから出た、と喜ぶことはなかったのです。その理由は、ナザレの人たちに限らず、イエス様を受け入れることができなかった人たち全てに共通する理由です。イエスが神の子であるはずがない、という思い込みです。多くの人はイエス様の言葉と力に驚きながらも、イエス様が自分は神の子であると言ったことで、つまづいたのです。なぜ人々は、イエスが神の子であるはずがないと思い込んでいたのでしょうか?そこにはさらに二つの理由があると思います。一つに、イエスはただの人だという思い込み、もう一つは、神がこんな身近な一人の人であるはずがないという思い込みです。これは、時代を超えて、今でも多くの人がイエス様を受け入れられない理由だと思います。ナザレの人たちの不満の声には、全ての時代の人の声が反映されていると思います。もう一度3節を読みます。
2) イエスはただの人だと思い込んでいる
3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで私たちと一緒に住んでいるではないか。
今から2000年前にイエスという一人の人物がいたということは歴史的事実です。その人はマリアとヨセフという夫婦のもとに生まれ、ナザレの町で育ちました。ここにあるナザレの人たちの言葉によれば、イエス様は以前は大工だったようです。また、育ての父親であるヨセフは早くに亡くなったのではないかと言われています。ユダヤ人社会では、子供は父親の名前を引き継ぐのが普通です。もしヨセフが生きていたら、ここでは当然イエス様は「ヨセフの息子」と呼ばれるはずです。ただ、それにしても、ここでナザレの人たちがイエス様のことを「マリアの子」と呼んでいるのには差別的な意味があるのかもしれません。普通は父親が亡くなったからと言って、子供を母親の名前で呼ぶことはないからです。母親の名前で呼ぶということは、その子が私生児であるような印象を与えます。それで、このままではあまりにひどいと、マタイとルカは思ったのかもしれません。マタイによる福音書とルカによる福音書では「マリアの子」という呼び方はなくなり、「大工の子」「ヨセフの子」と直されています。いずれにしても、ナザレの人たちにとって、イエスは自分たちの村で育った子供たちのうちの一人に過ぎず、イエスの両親も兄弟姉妹もみんな、彼らの知り合いでした。
私たちはもちろん、イエス様のことを小さい頃から知っているわけではありませんが、イエスという歴史上の人物がいたことは世界中で知られている事実です。そして、多くの人にとってはイエスはそれだけの存在で、はるか昔に死んでしまった過去の人でしかありません。確かに、2000年前に死んだ一人の人が今の自分に関係があるなんて、思えないのが普通です。でも、その一人の人が、一人の人ではなく神様だったとしたらどうでしょうか。そんなわけはないと、多くの人は言います。でも、なぜそんなわけがないと言い切れるのでしょうか。もし本当にイエスという一人の人が神様だったとしたら、イエスのことを過去の人として無視することはできないはずです。なぜその可能性を最初から考えない人が多いのでしょうか。それは、もう一つの私たちの思い込みがあるからです。私たちは誰でも、神様はそんな身近にいるはずがないと思い込んでいるのです。
3) 神様がこんな身近にいるはずがないと思い込んでいる
ナザレの人たちは「この人は大工じゃないか、マリアの子じゃないか、両親も兄弟も姉妹もよく知っている人じゃないか」と言いました。そして、だからイエス様を信じられなかったと言われています。彼らは、神様という絶対的な存在が、自分たちのそんな近くにいるわけがないと思っていたのです。これは、私たちがもともと持っている神様のイメージと同じだと思います。神様という存在があるとしても、それは自分からはかけ離れた存在で、雲の上から私をただ冷たく見下ろしているというイメージです。そして、もし本当に神様が人間の目に見える形で現れるなら、それは何か厳かで、力があって、絶対的な力で人間を圧倒するのだろうと思っています。まさか、自分たちの小さな目立たない村に育ち、自分たちと同じ服を着て、同じ食べ物を食べるとは思いません。イエス様は天使たちを従わせて来たのではなく、嫌われ者の徴税人や日に焼けた漁師たちを引き連れていました。光り輝くどころか、長旅で服も足も汚れていたと思います。そんな人をどうして全能の神様だと思えるでしょうか。でも、それが真実です。イザヤ書53章にはこうあります。
1 私たちが聞いたことを、誰が信じただろうか。主の腕は、誰に示されただろうか。2 この人は主の前で若枝のように、乾いた地から出た根のように育った。彼には見るべき麗しさも輝かきもなく、望ましい容姿もない。3 彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、痛みの人で、病を知っていた。人々から顔を背けられるほど軽蔑され、私たちも彼を尊ばなかった。4 彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであった。しかし、私たちは思っていた。彼は病に冒され、神に打たれて苦しめられたのだと。5 彼は私たちの背きのために刺し貫かれ、私たちの過ちのために打ち砕かれた。彼が受けた懲らしめによって、私たちに平安が与えられ、彼が受けた打ち傷によって私たちは癒された。6 私たちは皆、羊の群れのようにさまよい、それぞれ自らの道に向かっていった。その私たちすべての過ちを、主は彼に負わせられた。
歴史上に存在した一人の人物が実は神様であったということ以上に衝撃的なのは、その人は人々に軽蔑され、嫌われ、捕らえられて殺されてしまったという事実です。神様が人間に殺されるなんていうことが起こるのか?神様なのに人間に抵抗できなかったのか?そんなわけはないから、イエスが神様であったはずがないと、多くの人は思っています。でも、それが神様の真実で、私たちを救うための計画でした。神様は、人間を救うために自ら人間となって命を捧げるという、ありえない愚かな計画を実行しました。なぜなら、神様は私たちを遠くから冷たく見下ろしているのではなく、私たちそれぞれの置かれているところで共に生きたいと願っておられるからです。その証が、イエス様の十字架です。イエス様が十字架で死なれた事実は、神様がご自分の命を私たちに与えるほど私たちを愛していることの証です。
イエス様の十字架は、すでに2000年前に終わった出来事です。つまり、2000年前にすでに、神様は私たちを愛しているとはっきり意志を示されたということです。それを信じる信じない、受け取る受け取らないは私たちそれぞれが決めることですが、神様の側の意志表示は完了しています。そしてその神様の意志は、永遠に変わることはありません。私たちはその神様の意志を、受け取るでしょうか?
それでは最後に、マルコに戻って後半の4-6節を読みます。
B. 私たちが助けを求めなければ、イエス様は私たちを助けられない
4 イエスは彼らに言われた。「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである。」5 そこでは、ごく僅かの病人に手を置いて癒されたほかは、何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは、近くの村を教えて回られた。
ここにまた、マルコ特有の大胆な言葉があります。イエス様は故郷のナザレではほとんど「奇跡を行うことができなかった」とあります。神様なのにできないことがあったということです。それに続いて、イエス様は「人々の不信仰に驚かれた」とあり、人々の不信仰はイエス様にも予想がつかなかったかのようです。ここには、私たちの信仰とは何かということが隠されています。それは、前回の箇所と今日の箇所を比べるとよく分かります。前回、12年間出血の止まらなかった女性が登場しました。女性は絶望的な状況の中で、イエス様なら助けてくださるという期待をかけて、イエス様に助けを求めました。イエス様はその女性の行動を信仰と呼びました。信仰とは、イエス様に助けを求めることです。イエス様なら助けてくださると信頼することとも言えます。それと正反対なのが、今日のナザレの人たちの態度です。イエスに私を助けることなんてできない、私はイエスの助けなんて必要としていない、という態度です。なぜなら、イエスはただの人で、イエスが神であるわけがないと思い込んでいたからです。そして、イエス様はそこではあまり奇跡を行うことができませんでした。
イエス様は、助けを求める人を拒むことは決してありません。たとえ、イエス様のことを本当に神様だと信じていなかったとしても、イエス様に助けを求めるならイエス様は助けられます。イエス様は「信じれば癒す」のではなく、「信じていなくても助けを求めれば癒す」です。つまり条件は、私たちがイエス様を信じるか信じないかよりも、助けを求めるか求めないかです。イエスなんかに私を助けることができるか、と背を向けることも、私たちにはできます。それでは、イエス様が私たちを助けたくても、助けられません。
生きることに苦しみを感じない人はいません。誰でも、何かに助けを求めていると思います。イエス様に出会っていたとしても、イエス様以外の何かに助けを求めていることはないでしょうか?イエス様に期待しなくなっている、あきらめてしまっていることはないでしょうか?最後にイザヤ書59章のはじめの2節を読みます。
イザヤ59
1 見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのでもない。2 ただ、あなたがたの過ちが神とあなたがたとを隔て、あなたがたの罪が御顔を隠し、聞こえないようにしている。
なぜ自分はこんな状況になってしまったのか、苦しいままなのか、と思うなら、もう一度よくイエス様に聞いてください。十字架の証を思い出してください。神様はあなたを助けることを拒んでいるのではなく、私たちの方が、神様の変わらない愛を見失ってしまっているだけです。どんな状況の中でも、イエス様のしてくださることに期待してください。
メッセージのポイント
イエス様を信じる信仰とは、ただイエスという人を知っていることとは違います。イエスの教えや不思議な力を認めることだけでもありません。そうではなく、イエス様に助けを求め、どんな状況でもイエス様のしてくださることに期待することです。
話し合いのために
1) ナザレの人たちと私たちの共通点は何ですか?
2) あなたはイエス様に助けを求めていますか?
子供たちのために
これまで出てきた「悪霊に取り憑かれた人」「12年間も出血が止まらなかった女性」「ヤイロ」などの、イエス様に助けを求めた人たちと、今回の「ナザレの人たち」の違いを考えてみてください。違いは、イエス様に助けを求めたか求めなかったかです。信仰は助けを求めることです。不信仰は助けを求めないこと(イエス様に期待しないこと)です。イエス様は、イエス様のことを信じていなくてもイエス様に助けを求めるなら、差別なく助けました。反対に、イエス様のことを知っていても助けを求めないなら、イエス様との関係はないことになります。