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心のまっすぐな人
(詩編 64)
永原アンディ
A. 三つのことを願おう (1-3)
1 指揮者によって。賛歌。ダビデの詩。
2 神よ、嘆きの中にある私の声を聞いてください。
敵の脅威から私の命を守ってください。
3 悪をなす者の群れから
悪事を働く者の騒ぎから私を隠してください。
今あなたの心に嘆きがありますか?無いにこした事はありませんが、嘆きを持ちつつ、こうして主の前に出られた事はとても幸いな事なのです。嘆いている人こそ、最も礼拝を捧げるのにふさわしい人です。主は礼拝の中で、つまり、あなたとの親しい交わりの中で、耳を傾けてあなたの願いを聞いてくださるからです。今読んだ最初の部分に詩人の三つの願いが記されています。
私の声を聞いてください、私の命を守ってください、私を悪い者の目から隠してください、です。苦難の中で私たちは「本当に主は聞いていてくださっているのだろうか」と思ってしまいます。それは悪魔のささやきです。疑い始めている心につけ込んで、あなたの心を本当に主から引き離すことが目的です。主はあなたの願いを聞き、簡単にあなたを敵の手に渡す事はありません。主に従う人で、その命を守られていない人は一人もいません。あなたを不用意に災いの前に晒すような方ではありません。神様がイスラエルの民をエジプトから導き出した時のことを思い出してください。強大国エジプトで、彼らは奴隷のような状態に置かれ苦しんでいましたが、その叫びは神様に聞かれました。大きな災いがエジプト全土に起こり、死人のない家はなかったというほどでしたが、あらかじめ屠られた子羊の血で印が付けられたイスラエルの民の家を、災いは過ぎ越してゆき、起こりませんでした。イスラエルの最大の祭り「過越の祭り」はこの出来事を記念して行われています。実は、今年もその日が近づいています。もう気づいた方もいると思います。過越は十字架の時期と重なるのです。そして、この出来事はイエスの十字架の出来事の前兆だったのです。だから、イエスは過越の祭の時期を選んで、エルサレムに向かいました。(ヨハネ2:13) また、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた。 」(ルカ22:15) と言われたのです。エジプトでの過越はイスラエルのための神様のわざでしたが、イエスの血が流された十字架はすべての人のための過越のしるしです。悪から、身を守ってくださいと願うなら、その印を心につける必要があります。それは十字架のイエスを主、神と信じ従ってゆくという決心です。
B. 私たちがさらされている危険 (4-7)
4 彼らは舌を剣のように鋭くし
苦い言葉の矢をつがえています。
5 物陰から罪もない人に射かけようと構え
不意に射かけることに後ろめたさも感じていません。
6 彼らは悪の言葉に身を固め
それを数え上げては罠を仕掛け
「誰が見破ることができよう」と言います。
7 巧妙に不正を謀り
「我らの謀は完全だ。
人には裏側、心には秘めたものがある」と。
あなたの直面している問題が人からの攻撃ではなかったとしても気をつけるべき事は同じです。あなたが主から目を離し、その問題で心がいっぱいになってしまえば、客観的に事態を見ることができなくなってしまいます。先にお話しした三つの願いをはっきりと主に言い表して、主が共にいて護られている事を知っている人には、敵の出方、問題の実態がよく見えます。だから慌てる事はありません。イエスと共に歩む人は、途方もなく大きく見える問題や、不意に襲ってきたような問題でも、絶望して、諦めてしまわないのです。主イエスは、誰よりも、一人一人の痛みをご存知です。その主と共にいるなら、あらゆる問題を、神様の視点という、最も確かな見方で見ることができます。苦しくても、冷静に、諦めずに、イエスを頼って、エジプトを脱出した民のように、あなたも今の苦しみから逃れることができます。テキストの後半から、そのためにこれからし続けるべき二つのことをお話しします。
C. 二つのことをし続けよう
1) 神様の正しい裁きを待つ (8-10)
8 だが神は彼らに矢を射かけ
不意に彼らは傷を負う。
9 彼らは自分の舌のゆえにつまずき
見る人は皆、頭を振るでしょう。
10 人は皆、恐れて神の働きを告げ知らせ
神の業により悟りを得る。
あなたは長い忍耐の後、急に神様が力強く働き出されたという経験をしたことがありますか?忍耐に長すぎることはありません。神様が完璧なタイミングで力を表し、絶対に起こらないだろうと思っていたことが起こる時が訪れます。
これは実際にある組織で起こった事です。健康な組織だったのに、ある時から二人のリーダーが、自分たちの利益のために組織を利用し始めました。周りの人々の言うことに耳を傾けず、忠告する人を追い出して、自分たちの帝国を築き始めたのです。多くの人が追い出され、あるいは自分から去って、残った人々はほとんど諦めていたのです。ところが20年以上も経って突然、ちょうどバベルの塔を築いた人々の言葉を混乱させてその試みをストップさせたように、神様は二人組を打ちました。それは彼らの塔(その組織を完全に自分たちの支配下に置き、私物化すること)が完成する寸前に起こったことでした。彼らは、塔の完成によって得られる財産を巡って仲間割れを始め、組織は彼らの野望から守られました。立て直そうとした人々の努力はことごとく失敗しましたが、神様は全能の方で、最もふさわしいタイミングで直接介入なさったのです。
どんなに、皆さんの周りで不義がはびこっても、悪が力をふるっても、主に信頼して待ち続けてください。
だが神は彼らに矢を射かけ不意に彼らは傷を負う。彼らは自分の舌のゆえにつまずき見る人は皆、頭を振るでしょう。(8-9)
これは詩人の願望ではありません。時が来れば神様は、本当に思っても見ない方法で、神の家族を救い出してくださるのです。期待して待ちましょう。
2) 心をまっすぐに保つ (11)
11 正しき人は主によって喜び
また主のもとに逃れます。
心のまっすぐな人は皆、誇ることができます。
最後の節です。心が「まっすぐ」とはどういうことなのでしょうか?この表現はほとんど詩編の中にしか見られない表現なのですが、主に従う人とか、正しい人とは少しニュアンスの異なる言葉です。「正しいかどうか」「従うかどうか」ではなく「心が主に向けられているかどうか」ということなのだと私は思います。そのポイントは、自分がどこに立っているかは関係ないということです。私たちは自分と人と比べて、どちらが神様に近いかなどと詮索したりしますが、どこにいようとイエスに顔を向けることができます。そこはイエスを信じる人にふさわしくないだろうと人が考えるところにいたって、イエスは耳を傾けます。あなたを守ります。そしてあなたは主を自分の主と誇ることができます。ぜひ生涯にわたってイエスに心をまっすぐに向け続けてください。
目の前の苦難はそれぞれ違っても、苦しみのない人は一人もいません。決して「私だけが」苦難の下にいるのではありません。教会は苦難のない人が、苦難のある人をお世話する施設ではありません。互いの苦労を主に委ねて、互いのために仕え合う家族です。主の体の一部として、互いに聞き、守り、隠すのです。忍耐して神の裁きを待ち、心をまっすぐに主に向けて歩みましょう。
メッセージのポイント
目の前の苦難はそれぞれ違っても、苦しみのない人は一人もいません。決して「私だけが」苦難の下にいるのではありません。教会は苦難のない人が、苦難のある人をお世話する施設ではありません。互いの苦労を主に委ねて、互いのために仕え合う家族です。主の体の一部として、互いに聞き、守り、隠すのです。忍耐して神の裁きを待ち、心をまっすぐに主に向けて歩みましょう。
話し合いのために
1) あなたに苦難をもたらしているのは何ですか?
2) 「心がまっすぐ」とはどのようなことを指すのでしょう?
子供たちのために
「困っていること、辛いことを神様に伝え、助けを求めよう」と励ましてください。神様に伝えるとは、お祈りをする事だけではありません。父母や家族に伝えることも、神様に言うことの一部です。もし家族に言えないようなことなら教会の他の人に伝えたり、守ってもらったり、脅威から隠してもらえることを教えてください。「教会とは大きな家族です。神様の家族に助けられ、守られて、忍耐して待っているなら神様は必ず苦難を取り除いてくださいます。期待してまっすぐに、イエス様を見つめるように、前を向いて歩いていきましょう。」と励ましてください。