苦しむイエス様に出会おう

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苦しむイエス様に出会おう

(マルコ 15:25-39, 詩編 22)

池田真理

 今週はイエス様が十字架に架けられたことを覚える受難週です。いつも読んでいるマルコ福音書から、今日は15章の受難の場面を読んでいきたいと思います。今週はぜひ今日読む箇所の前後もお家で読んでください。では最初に15:25-32です。

A. 苦しみ、絶望する神

1) 私たちは強い神を求めるが、神様が見せたのは、弱く、みじめな姿だった (25-32)

25 イエスを十字架につけたのは、午前九時であった。26 罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。27 また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。† 29 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を壊し、三日で建てる者、30 十字架から降りて自分を救ってみろ。」31 同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。32 メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。

 ここでイエスを罵っている人々は私たちの姿でもあります。お前が神だと言うのなら、その力を示してみろ、そうすれば信じてやろうという態度です。信じてほしいなら力を見せろ、ということです。私たちは強い神を求めます。神という存在は強いものだと思い込んでいるとも言えます。私たちを力で圧倒して恐れさせ、従わせることができるなら、それが神の力だと思っています。でも実際は、神様が私たちに見せたのは、強さではなく弱さでした。
 イエスは十字架の上で無抵抗で無力でした。人々を従わせるどころか、人々に侮辱され、暴力を受け、されるがままでした。それは、弱くみじめな姿でした。そして、イエスは体の苦しみと同時に、人間が経験しうる最悪の絶望を味わいました。33-38節を読みます。

2) イエスは最悪の絶望を味わった (33-38)

33 昼の十二時になると、全地は暗くなり、三時に及んだ。34 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」という意味である。35 そばに立っていた何人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。36 ある者が走り寄り、海綿に酢を含ませて葦の棒に付けてイエスに飲ませ、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言った。37 しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。38 すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 ここで注目していただきたいのは、イエスの叫びです。「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか。」イエスはそう叫び、死んでしまいました。十字架で苦しむイエスを、神様は助けませんでした。イエスは、生涯を通して正しいことを行い、神様を愛して生きてきたのに、神様はイエスの叫びに答えなかったのです。そして、罪のないイエスを苦しめる人々を罰することもありませんでした。神様は、正しい人が苦しみ、間違っている人たちが喜ぶ状態を、そのままにしておかれました。ですから、イエスが十字架で味わった絶望というのは、生きることへの絶望と虚しさも含みます。イエスは十字架で、人にも神様にもこの世界にも絶望しました。それはもう、どこにも希望の残らない絶望です。
 私たちは、このイエスが実は神様だったと知っています。そこに希望があることも教えられています。でも、なぜこの十字架で苦しんだ一人の人が神様だったと言えるのでしょうか?その答えは今日の箇所にはないのですが、39節を読んでおきましょう。

3) なぜ、そのイエスが神様だったと言えるのか? (39)

39 イエスに向かって立っていた百人隊長は、このように息を引き取られたのを見て、「まことに、この人は神の子だった」と言った。

 この百人隊長がなぜイエス様のことを神の子だと認めることができたのかは、私たちには分かりません。ここまでイエス様に従ってきた弟子たちも女性たちも、誰もこの時点でイエス様のことを神の子だと分かっている人はいませんでした。それなのに、イエス様の処刑の場面に居合わせただけのローマ人の兵隊長だけには分かったのです。このローマ人には神様の霊が働いて、そう悟らせたのだというほかはありません。弟子たちがイエス様は本当に神の子だったと分かるのは、イエス様がこの三日後に復活されて弟子たちに姿を現された後です。それは私たちも同じです。2000年前に十字架で処刑された一人の人が実は神様なんだと分かるには、私たちも復活したイエス様に出会う必要があります。今はイエス様はもう目に見えるわけではないので、私たちは先にイエス様を信じた人たちを通して、復活したイエス様に出会います。それは、2000年前の弟子たちから始まって、ずっと続いてきた教会の役割です。
 でも、今日の百人隊長の告白からも学べることがあります。それは、私たちがイエス様を神様だったと知るためには、イエス様の死の出来事と向き合わなければいけないということです。百人隊長は「イエスに向かって立っていた」、つまり、イエスの十字架を真正面から見つめていたということです。そして、「このように息を引き取られるのを見て」いた、つまり、イエスが十字架の上で絶望し、叫ぶ様子も全て見ていたということです。私たちは、イエス様の十字架での絶望に向き合っているでしょうか?私たちがイエス様が十字架で苦しんだ意味を知ることなしには、復活の意味もありません。

 それでは、今日はここからもう少しイエス様の十字架の意味を考えておきたいと思います。


B. なぜ、神様が苦しむ必要があったのか?

 なぜ、イエス様は死ななければならなかったのでしょうか?なぜ神様が苦しむ必要があったのでしょうか?それは、それ以外に神様が私たちを救う方法がなかったからです。
 今日最初に、私たち人間は神様に強さを求めるとお話ししました。でも、もし、絶対的な力で人間に有無を言わせずに従わせることが神様の願うことなら、神様は最初からそうしているはずです。人間が最初から神様に従うことしかできないように、ロボットのように造ればよかったはずです。でも実際は、神様は私たちに意志を与えて、自分で選ぶことができるように造りました。それは、人間が自分の意志で、神様を信じるか信じないかを決めてほしいと願ったからです。そもそも、信じるということは、信じなくてもいいのに信じると決めることです。信じないという選択肢がないなら、それは信じることにはなりません。愛するということも同じです。愛することしかできないようにプログラムされていたら、それは本当の愛ではありません。神様は私たちに自分で信じる決心・愛する決心をしてほしいと願われました。なぜなら、神様は私たちと本当に信頼し合い、愛し合う関係を持ちたいと願われたからです。
 ところが、私たちはこの神様の期待を裏切りました。与えられた選択の自由を、なんでも自分勝手に決めていいということだと勘違いしました。そして、神様のことなんて考えなくなりました。その結果、私たちは世界を苦しみにあふれたところにしてしまいました。正しい人が苦しみ、間違っている人が喜ぶ世界。罪が罪を呼び、傷ついた人が他の人を傷つける世界です。それが当たり前になっていて、最初に神様が何を意図してこの世界を造られたかなんて、もうほとんど見えないような現状です。
 こんな状態にある私たちを、神様は責めるのではなく、救いたいと願いました。そのためには、私たちの罪と罪によってもたらされる苦しみを終わらせなければいけませんでした。罪を罪として正しく裁くことがなければ、苦しみは生まれ続けます。罪も苦しみもただなかったことにはできません。でも、神様は私たちに罪の罰を負わせることなく、ただ正しい生き方に改めてほしいと願われました。そこで、自らが人間となって、全ての人間の罪の罰をひとりで引き受けることで解決しようとされました。イエス様として十字架で苦しむことで、私たち全ての罪を担い、私たちの身代わりになられたのです。罪の中で苦しむ私たちを、自らの命を身代金として差し出して、神様のもとに取り戻そうとしたとも言えます。イエス様はご自分についてこう言われました。

人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 私たちが生かされているのは、神様ご自身が私たちの代わりに死なれたからです。私たちの罪が赦されたのは、神様ご自身が私たちの代わりに罪の責めを負って苦しまれたからです。


C. なぜ、私たちは苦しむのか?

  それでは、なぜ私たちはまだ苦しむのでしょうか?お話ししてきたように、私たちの苦しみの大きな原因は、私たち自身の罪です。自分自身の罪がもたらす苦しみもあれば、他の誰かの罪によってもたらされた苦しみもあります。罪のない人は誰もいません。私たちは自分の過ちの責任は取らなければいけませんが、どんなに罪を償おうとしても、もうどうにもならないこともあります。誰かの責任だと分かっていても、その人を責めたところで解決しない苦しみもあります。そして、さらに私たちが苦しむのは、誰のせいでもない、私たちには一生理由の分からない苦しみです。なぜこの病気になるのか。なぜこの障害を持って生まれたのか。なぜ女性の体に生まれたのか。なぜこの親の元に生まれたのか。私が悪いのか、親が悪いのか、他の誰かが悪いのか、さかのぼっていっても答えは出ません。神様に問いかけても、直接の答えは返ってきません。


D. 苦しみの中でイエス様に出会う

 今日、またこの受難週に、改めてみなさんにお伝えしたいことは、イエス様は私たちを全ての苦しみから救うために十字架で苦しまれたということです。互いを傷つけ合う苦しみも、一生答えの出ない苦しみも、イエス様は十字架で経験して知っています。イエス様が苦しまれたのは私たちの苦しみです。また、私たちが苦しむのは、イエス様の苦しみを分け合っているとも言えます。私たちは、苦しみの中で共に苦しむイエスに出会います。そして、苦しみがなくならなくても、苦しみの中で神様は共におられると知ります。たとえ、病気が治らなくても、障害を変えられなくても、イエスと共に生きることはできます。イエス様が自分を犠牲にして示してくださった愛は、どんな苦しみによっても消されることはありません。苦しみの中で、イエス様に出会ってください。救いは、苦しみがすべてなくなることではありません。苦しんでいても喜んでいても、イエス様に愛されていると確信していること、それが、イエス様の与えてくださった救いです。

 今週はぜひ、詩編22篇も読んでみてください。詩編22篇はイエス様の十字架での叫びから始まります。読んでみると、イエス様は十字架で、本当に私たちの叫びを叫び、私たちの苦しみを共にしてくださったのだと分かります。


メッセージのポイント

私たちの苦しみには色々なものがあります。自分自身の罪が引き起こした苦しみ、他人の罪によってもたらされた苦しみ、そして、誰のせいでもない、私たちには一生理由の分からない苦しみがあります。イエス様はそのすべてから私たちを解放するために、十字架で苦しまれました。苦しみの中で、私たちと共に苦しまれているイエス様に出会いましょう。私たちの救いは、苦しみがすべてなくなることではなく、苦しみの中でイエス様に出会うことです。

話し合いのために

1) あなたの苦しみの理由は何でしょうか?
2) イエス様の苦しみはあなたの苦しみをどう解決してくれるのでしょうか?

子供たちのために

ふつう、神様ならなんでもできるから、神様が人間に捕まって殺されてしまうわけがないと思います。十字架の上で苦しむイエス様を、神様はなぜ助けなかったのでしょうか?助けられなかったのでしょうか?イエス様が神様なら、なぜ自分の力でどうにかしようとしなかったのでしょうか?少し難しいかもしれませんが、イエス様が私たちのためにあえて無力になったことを話してください。