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逆風の中で新しい道が開ける
(マルコ 6:45-52 / イザヤ 43) 池田真理
火曜日は台風のようなひどい天気でした。私もレインコートを着て長靴を履いて、レインコートのフードもかぶって、頑丈な傘をさして出かけましたが、大変でした。傘をさしているだけで大変で、でも大粒の雨が降っているので傘を閉じるわけにもいかず、風と戦っているうちにレインコートが暑くて汗をかきはじめるし、途中でレインコートはぬいでしまいました。目的地に着いた時には、膝から腰までがぐっしょりぬれてしまいました。もっとひどい目にあった方もいたと思います。でも、あの大雨と強風と戦った皆さんは、お家の窓からその様子を見ていただけの人よりも、今日のお話がちょっとだけよりリアルに感じられるかもしれません。強い風に悩む弟子たちのお話だからです。早速読んでいきましょう。マルコ 6:45-52です。
A. イエス様は逆風に漕ぎ悩む弟子たちを放っておかない
45 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間にご自分は群衆を解散させられた。46 そして、群衆と別れると、祈るために山へ行かれた。47 夕方になった頃、舟は湖の真ん中に出ており、イエスだけが陸地におられた。48 イエスは、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜明け頃、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。49 弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、叫び声を上げた。50 皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐに彼らと話をし、「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言われた。51 イエスが舟に乗り込まれると、風は静まった。弟子たちは心の中で非常に驚いた。52 パンのことを悟らず、心がかたくなになっていたからである。
このエピソードを簡単にまとめると、逆風に悩む弟子たちをイエス様が助けた、というエピソードです。ここでは雨は降っていませんが、強風で湖が荒れ、高波で船のコントロールが難しい状況でした。48節の「弟子たちが漕ぎ悩んでいる」に使われている「悩む」という動詞は、非常に苦労する、さいなまれるというような強い意味を持っています。イエス様は、強風と荒波に苦労している弟子たちを見て、そのまま放っておくことはしませんでした。イエス様は、苦しむ私たちを決してそのまま放っておかれません。それが今日のエピソードから私たちが最初に受け取るべきメッセージです。
でも、このエピソードには不可解な点が二つあります。まず、イエス様が水の上を歩いてきたという点。もう一つは、弟子たちを助けにきたはずのイエス様が、弟子たちのそばを通り過ぎようとされた、と書かれている点です。
実は、今日の箇所は、旧約聖書の背景がとても色濃く反映されている箇所です。不可解に思える点も、旧約聖書の背景を踏まえて読むと謎が解けます。ですから今日は、たくさん旧約聖書の箇所を読ませていただきます。まずは、今日の箇所全体を預言しているような箇所、イザヤ書43:16-19を読みます。
16 主はこう言われる。すなわち海の中に道を/荒れ狂う水の中に通り道を作られ 17 戦車と馬、大軍と兵を連れ出し/彼らを皆倒して起き上がらせず/灯心の火を消すように消滅させた方。 18 先にあったことを思い起こすな。昔のことを考えるな。 19 見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を/荒地に川を置く。
イスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した時、神様は海を二つに分けて、人々が海を渡れるようにしました。このイザヤの言葉の通り、「海の中に道を、荒れ狂う水の中に通り道を」作られたのです。イエス様が水の上を歩いたというのは、このことと同じです。神様しかできないことをイエス様はされたのです。それは、神様しか作れない道を作られたとも言えます。荒れ狂う波の中に、不安定な水の上に、イエス様は道を作られたのです。イザヤの言葉は、さらにその先を預言しています。「見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。」イエス様は、水の上を歩いて弟子たちに近づき、新しいことをしようとされていました。それは、このエピソードの最大の不可解な点、「通り過ぎようとされた」という言葉に関係があります。
B. イエス様が開かれた新しい道
1) そばを通り過ぎようとされた? (Exodus 33:20-23)
この「通り過ぎようとされた」という言葉は、文脈的に不自然なので、同じエピソードを記録しているマタイとヨハネはこの言葉を省略しています。イエス様は、実際のところ、弟子たちのそばを素通りしようとされたわけではないのです。では、なぜマルコではこんなおかしな書き方がされているのでしょうか?それは、マルコが、この「通り過ぎようとされた」という言葉に、旧約聖書の神様を描こうとしたからです。水の上を歩かれたイエス様は、モーセの前で海を二つに分けた神様です。そして、神様がモーセの前を通り過ぎたように、イエス様は弟子たちのそばを通り過ぎようとしたと書いたのです。出エジプト記33:20-23を読みます。神様がモーセに語りかけているところです。
20 …「あなたは私の顔を見ることはできない。人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」21 主は言われた。「私の傍らに一つの場所がある。あなたはその岩の上に立ちなさい。22 私の栄光が通るとき、あなたを岩の裂け目に入れて、私が通り過ぎるまで、私の手であなたの上を覆う。23 私が手を離すと、あなたは私の後ろを見るが、私の顔を目にすることはない。」
旧約聖書では、神様は決してご自分の姿を人間に見せることはありませんでした。モーセに対して言っている通りです。「人は私を見て、なお生きていることはできないからである。」神様と人間の間には、本来、埋めることのできない断絶があります。人間は誰も決して神様にはなれないし、神様の前に出て行って対等に話せるような存在ではありません。完全で正しい神様の前に、私たちは出ていけるはずがないのです。だから、神様はモーセの前をただ通り過ぎ、決して顔を見せられませんでした。マルコは、イエス様がその旧約聖書の神様でもあるということを、ここで私たち読者に悟らせようとしたのです。このイエスという人は本来は決して人間に姿を見せない神様なのだと、マルコは語っているということです。
2) でも弟子たちに話しかけ、同じ舟に乗り込んだ
でも、イエス様は旧約聖書の神様にはあり得ないことをされました。怯える弟子たちに、すぐに話しかけ、彼らの舟に自ら乗り込まれたのです。顔を隠すどころか、まっすぐ彼らと目と目を合わせ、波にもまれる彼らの舟に一緒にいようとされました。これは、イエス様が人間の体を持ってこの世界に生まれたところから、もう始まったことですが、神様はイエス様として、旧約聖書の時代にはあり得なかったことをされようとしたのです。旧約と新約、古い契約と新しい契約の違いが、ここにあります。モーセの前を通り過ぎた神様は、弟子たちの舟に一緒に乗り込まれる神様になられたのです。なられたというより、実はそんなに近い存在なんだということを、自ら示されたということです。神様と人間を断絶していた壁を、神様の方から崩して、橋を渡してしまいました。それが、イエス様が開かれた新しい道であり、私たちと神様の新しい関係です。
さらに、イエス様が水の上から弟子たちに話しかけた内容を読むと、神様が今日も私たちに語りかけているメッセージを受け取ることができます。50節「安心しなさい。私だ。恐れることはない。」
C. イエス様を知ることが新しい道
1) 「私だ」 (出エジプト記 3:14a)
まず、「私だ」という言葉ですが、この「私だ」には「私は幽霊ではない」ということ以上の意味があります。このイエス様の「私だ」という言葉は、神様がモーセに伝えたご自分の名前と同じです。
(出エジプト記3:14a)神はモーセに言われた。「私はいる、という者である。」
「私はいる。(私はある、存在している。)I am. (I exist.)」イエス様は、そう弟子たちに告げました。それは、イエス様が神様であり、神様は確かにおられることを知りなさいというメッセージでもあります。
2) 「恐れることはない」 (イザヤ 43:1-2)
だから、「恐れることはない。」これも、神様が旧約の時代から繰り返し人々に伝えてきたことです。
(イザヤ43:1-2)1 しかし、ヤコブよ、あなたを創造された方/イスラエルよ、あなたを形づくられた方/主は今こう言われる。恐れるな。私があなたを贖った。私はあなたの名を呼んだ。あなたは私のもの。2 あなたが水の中を渡るときも/私はあなたと共におり、川の中でも、川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず/炎もあなたに燃え移らない。
神様は、私は水の中でも火の中でもあなたと共にいるから、恐れるな、と言われています。イエス様は、まさにそのことを人間の目に見える形で実現されました。私たちは、イエス様を通して、神様はただ存在しているだけではなく、私たちと確かに共におられる方だということを知ることができます。
3) 「見よ、私は新しいことを行う」 (イザヤ 43:10-12)
でも、弟子たちの反応はというと、まだ全然イエス様のことを理解できませんでした。50節には、彼らはイエスを見ておびえたのだと、念を押すように言われています。彼らは、目の前にいる方が誰なのか分からなかったから、恐れたのです。そして、「私だ」と話しかけられるイエス様の声を聞いても、まだ分からなかったのです。彼らがイエス様は本当に「私はいる」という神様なのだと理解できたのは、イエス様の十字架の後、それも聖霊様の力を受けてからでした。イエス様は、「恐れるな、私は水の中でも火の中でもあなたと共にいる」ということを十字架によって証明されました。そのことを、弟子たちは出来事として体験し、聖霊様によって解釈することによって、理解できました。私たちも弟子たちと同じように、十字架の出来事を知ることと聖霊様の力を受けることによって、その神様の意志を受け取ることができます。
今日最初に、火曜日の悪天候のことをお話ししました。大雨と強風の中で傘をさして進んでいると、傘が飛ばされないように、風に体を持っていかれないように必死になって、体は固くなります。人生の嵐の中でも同じことが起こります。逆風の中で歩く時、その歩みは一歩一歩を踏み出すのも大変で、とても遅いように感じます。強風がいつどこから吹いてくるのかわからず、風にあおられて進むべき方向も分からなくなる時があるかもしれません。その状況に耐えようとして、私たちは緊張し、固くなります。でも、そこをイエス様が一緒に歩んでいるとしたらどうでしょうか。イエス様は、私たちが握りしめている傘をとって、代わりにもっと頑丈な傘を開いて、私たちをそこに入れてくれます。そうされて初めて、私たちは自分が持っていた傘がいかに弱くてボロボロだったかに気がつきます。相変わらず雨は降っていて、風が吹いていても、イエス様がさしてくださる頑丈な傘の中で、イエス様と一緒に歩むなら、私たちは力を抜いて、安心して悪天候の中を歩むことができます。その安心感というのは、悪天候の中でしか分からないものです。私たちが不完全で、この世界が不完全なので、生きている限り、逆風は繰り返し吹いてきます。それは神様のせいではなく、神様の意志でもありません。でも、その中で私たちが、「私は共にいる」という神様の存在を知ることを、神様は望まれています。なぜなら、その答えは今日最後のイザヤ書の箇所にあります。
(イザヤ43:10-12)10 あなたがたは私の証人/私が選んだ私の僕である—主の仰せ。あなたがたが私を知って、信じ/それが私であると悟るためである。私より前に造られた神はなく/私より後にもない。11 私、私が主である。私のほかに救う者はいない。12 私が告げ、救い、知らせた。あなたがたの中に、ほかに神はいない。あなたがたは私の証人—主の仰せ。私が神である。
逆風の中で共におられる神様を知ること、神様は確かにおられると知ることができたら、私たちは神様の証人です。私たちは神様をたたえ、神様は私たちのことを導いてくださるでしょう。
私たちは逆境の中でこそ、神様の栄光と憐れみを新しく知ることができます。「私はいる」という神様の語りかけがリアルになるのは、私たちが不安と恐れの中にいる時だからです。神様は私たちに、もっとご自分のことを知ってほしいと願われています。逆境は、私たちがそこをイエス様と共に過ごそうと決心するなら、逆境ではなくなります。それは、私たちと神様の関係が新しくされる機会でもあります。今日最初に読んだイザヤ書43:19をもう一度読んでください。
19 見よ、私は新しいことを行う。今や、それは起ころうとしている。あなたがたはそれを知らないのか。確かに、私は荒れ野に道を/荒地に川を置く。
メッセージのポイント
私たちは逆境の中でこそ、神様の栄光と憐れみを新しく知ることができます。「私はいる」という神様の語りかけがリアルになるのは、私たちが不安と恐れの中にいる時だからです。神様は私たちに、もっとご自分のことを知ってほしいと願われています。逆境は、私たちがそこをイエス様と共に過ごそうと決心するなら、逆境ではなくなります。それは、私たちと神様の関係が新しくされる機会でもあります。
話し合いのために
1) 私たちはどうやって逆風の中を進みますか?
2) イエス様が開いた新しい道とは何ですか?
子供たちのために
まず、神様とイエス様をあえて別々に考えてみてください。「神様」とはどういう方でしょうか?ふつう、人は神様とは死んだ時に初めて会うのであって、今はどんな方か分かるわけがない、知る必要がないと考えています。でも、その神様がイエス様としてこの世界に来られました。それは、決して私たちには姿を見ることができないはずの神様が、私たちと同じ体を持つひとりの人間となって、ご自分がどういう方かを直接私たちに教えるためでした。だから、イエス様がなにを教え、なにをされたのかを知ることが、神様を知ることになります。そのためには、自分でイエス様に語りかけること(祈ること)、聖書を読むこと、イエス様のことについて他の人と話すことが大切です。その中で、「安心しなさい(勇気を出しなさい)、私だ(私は共にいる)、恐れることはない」と語りかけるイエス様に出会えるはずです。