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私たちの心を変えられるのは聖霊様だけ
(マルコ 7:1-23) 池田真理
今日はイースターから50日目、ペンテコステの日です。マルコのシリーズを離れて別の箇所を読むことも考えたのですが、マルコの続きの箇所がちょうどペンテコステのテーマに合っているように思ったので、続きを読むことにしました。先に、マルコの今日の箇所の内容を一言でまとめると、神様は私たちの行いだけでなく、それを行なっている私たちの心の方を見られる方だということです。どんなに人の目をごまかせても、自分をごまかせても、神様はその裏にある私たちの本当の思いを知っておられます。そして、神様は私たちがその心の深い部分から神様を求めることを望まれています。3つに分けて読んでいきましょう。まず1-8節です。
A. 神様は私たちの心を見る
1. 私たちは行いが良ければいいと思っている (1-8)
1 ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった。2 そして、イエスの弟子たちの中に、汚れた手、つまり洗わない手で食事をする者がいるのを見た。3 ――ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを守り、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、4 また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、水差し、銅の器や寝台を洗うことなど、守るべきこととして受け継いでいることがたくさんあった。――5 そこで、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」6 イエスは言われた。「イザヤは、あなたがた偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は唇で私を敬うが、/その心は私から遠く離れている。7 空しく私を崇め/人間の戒めを教えとして教えている。』8 あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
旧約聖書のレビ記の11章を開くと、清い動物と汚れた動物、食べていいものといけないものが細かくリストアップされています。イエス様の時代、そういう旧約聖書の記述にさらに様々な言い伝えが加えられて、主にファリサイ派の人たちや律法学者と呼ばれる宗教的エリートたちによって厳格に守られるようになっていました。彼にとって一番重要だったのは、汚れているものと清いものの知識を正しく持っていることと、それに従って正しく行動していることでした。
私たちには彼らのように清めの儀式を守る習慣はありません。でも、彼らが陥った間違いは私たちも陥ります。私たちは、聖書の知識をより多く持っていることを信仰の表れのように勘違いすることがあります。教会でたくさんの活動を担っていることを信仰の表れのように間違います。牧師でも神学者でも、神様を悲しませる人は多くいます。どんなに教会で目立っていて多くの役割を担っている人でも、その人の心のうちに本当に神様への信頼と安心があるとは限りません。知識や行動というのは、人間の目をごまかすにはとても便利です。それがあれば人から尊敬されることはできるし、自分でも自信を持てます。でも、神様が見られるのは、それをしている私たちの心なのです。
続きの9-13節も似ていますが、今度は、他の人だけでなく神様さえも私たちはごまかそうとすることが分かります。
2. 私たちは神様を都合よく使う (9-13)
9 また、言われた。「あなたがたは、自分の言い伝えを重んじて、よくも神の掟をないがしろにしたものだ。10 モーセは、『父と母を敬え』と言い、『父や母を罵る者は、死刑に処せられる』と言っている。11 それなのに、あなたがたは言っている。『もし、誰かが父または母に向かって、「私にお求めのものは、コルバン、つまり神への供え物なのです」と言えば、12 その人は父や母のために、もう何もしないで済むのだ』と。13 こうして、あなたがたは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」
これは、両親の世話をするのが面倒だと感じている人と、より多くの財産を持ちたいと狙っている祭司たちの利害が一致したから成立した習慣です。神様に捧げると言えば、なんでも許されてしまいました。彼らは神様の名を利用して、それぞれの自己中心的な願いを正当化しました。彼らにはもう、神様への畏れも尊敬も、まして信頼もありません。
これも、私たちにも当てはまります。極端な例で言えば、家族が病気でも日曜日の礼拝には働きに来なさいと言ってしまう牧師とか。反対に、家族のことが面倒で、教会の活動を言い訳にして、助けを必要としている家族への務めを果たさないことも起こるかもしれません。どちらの立場にしても、私たちは皆、自分が楽な方に、自分に都合がいい方に、自分を正当化する傾向を持っています。そして、それを認めたくないので、神様の名前を使ってごまかします。それは神様への冒涜です。私たちは、常に、自分の都合を神様より優先し、自分を神様にしてしまう心を持っているのです。
イエス様は、私たちのこの心こそ悪いのだと言われています。続きの14-23節です。
3. 悪いのは私たちの心 (14-23)
14 それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。15 外から人に入って、人を汚すことのできるものは何もなく、人から出て来るものが人を汚すのである。」† 17 イエスが群衆と別れて家に入られると、弟子たちはこのたとえについて尋ねた。18 イエスは言われた。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人に入って来るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。19 それは人の心に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出されるのだ。」このようにイエスは、すべての食べ物を清いものとし、20 さらに言われた。「人から出て来るもの、これが人を汚す。21 中から、つまり人の心から、悪い思いが出て来る。淫行、盗み、殺人、22 姦淫、貪欲、悪意、欺き、放縦、ねたみ、冒瀆、高慢、愚かさなど、23 これらの悪はみな中から出て来て、人を汚すのである。」
ファリサイ派の人たちや律法学者たちが、外から入ってくる汚れのことばかり気にしているのは反対に、イエス様は、私たちの中からこそ汚れが出てくるのだと言われています。21-22節にある汚れの説明を読むと、全て、人を傷つけるものであることが分かります。他人を傷つけ、ときに自分自身も傷つけるものです。それを生み出すのは全て私たち自身の心なのです。私たちは互いにこの毒を吐き合っています。それがイエス様の見ている私たちの現実です。
今日のマルコの箇所は、長いですがここで終わっています。これだけでは救いはどこにもありません。でも、この最後の悪い心が生み出すもののリストはどこかで見たことがあります。そこに私たちの救いのヒントがあります。ガラテヤ5:16-26を読みます。
B. 聖霊様が私たちを新しくされる
1) 私たちの罪と神様の霊はあい反する (ガラテヤ5:16-26)
16 私は言います。霊によって歩みなさい。そうすれば、肉の欲望を満たすことは決してありません。17 肉の望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反するからです。この二つは互いに対立し、そのため、あなたがたは自分のしたいと思うことができないのです。18 霊に導かれているなら、あなたがたは律法の下にはいません。19 肉の行いは明白です。淫行、汚れ、放蕩、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、嫉妬、怒り、利己心、分裂、分派、21 妬み、泥酔、馬鹿騒ぎ、その他このたぐいのものです。以前にも言ったように、ここでも前もって言いますが、このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできません。22 これに対して、霊の結ぶ実は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制であり、これらを否定する律法はありません。24 キリスト・イエスに属する者は、肉を欲情と欲望と共に十字架につけたのです。25 私たちは、霊によって生きているのですから、霊によってまた進もうではありませんか。26 思いあがって、互いに挑み合ったり、妬み合ったりするのはやめましょう。
ここで「肉」と言われている部分は、私たちの罪と言い換えることができます。私たちが皆持っている罪の性質、自己中心的で、神様を畏れずに自分を神様にする心です。ここでパウロが言っているように、私たちの罪と聖霊様はあい反します。私たちの罪は私たちが自分を神様にして、自分も他人も傷つけるように導きますが、聖霊様は私たちに神様のことを教え、私たちが神様を愛し、人々を愛することができるように導かれます。導かれるというのは、ただ私たちにすべきことを示すだけではなく、それをする力を与えてくださるということです。いつもお話ししていますが、私たちは自分の力でイエス様を信じる決心をすることも、信じ続けることもできません。私たちの罪の性質は決して消えることはなく、イエス様を信じていても傷つけあってしまうことは起こります。だから、私たちはいつも聖霊様に方向修正をしていただく必要があります。それは、単に道徳的に正しい行いをするという意味ではありません。空しいものを求めてしまう心の向きを修正していただいて、神様の確かな愛に向き直させていただくということです。神様の方に向き直ることは、私たち自身に癒しをもたらし、新しく歩み始める力の源にもなります。それによって、私たちは少しずつ他の人との壊れてしまった関係も修復することができます。それは全て、聖霊様の働きによります。
聖霊様によって私たちは日々新しく造り変えられています。今日は、そのことについて励ましてくれているもう一つの箇所を紹介したいと思います。2コリントの3章です。本当は全体を読みたいのですが、6節と12-18節だけ読みます。
2) 「文字ではなく霊に仕える資格」 (2コリント3:6, 12-18)
6 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。…12 このような希望を抱いているので、私たちは堂々と振る舞い、13 モーセが、やがて消え去るものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。14 彼らの心はかたくなにされたのです。今日に至るまで、古い契約が朗読されるときには、同じ覆いが除かれずに掛かったままです。それはキリストにあって取り除かれるものだからです。15 実際、今日に至るまでモーセの書が朗読されるときは、いつでも彼らの心には覆いが掛かっています。16 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。17 主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。18 私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
この箇所を読みたかったのは、今日のマルコの箇所で読んだイエス様の言動に関係があるからです。ファリサイ派の人たちや律法学者たちが大切にしていた旧約聖書の教えを、イエス様は意味がないと一蹴しました。レビ記の11章にははっきり、清い動物と清くない動物、食べていいものと食べてはいけないもののリストが載っています。でもイエス様は、食べ物が人に汚れをもたらすことはない、全ての食べ物は清いと言い切られました。このことは当時のユダヤ人にとっては衝撃で、神様の教えを否定する危険な教えでした。イエス様を信じたユダヤ人の中でも論争が起こりました。聖書にはっきり書いてあることを否定していいのか。聖書は神様の教えではないのか。その答えが、今読んだ2コリントのパウロの言葉です。
6 神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。
聖書は神様の言葉であると同時に、人間を通して伝えられた言葉でもあります。神様の霊が人間に働いて、神様が人間を用いて与えてくださった言葉です。私たちは、同じように、神様の霊によってそれを読まなければいけません。ファリサイ派の人たちや律法学者たちが、聖書の言葉を使って、汚れた食べ物を食べる人々を排除しようとしたように、私たちも聖書の言葉を自分勝手に解釈して人を傷つけることがあります。イエス様の十字架の愛を知り、聖霊様によって聖書を解釈することがなければ、私たちは聖書を人を傷つける道具にしてしまうのです。「文字は殺し、霊は生かします。」聖霊様によって、私たちが無意識のうちに持っている固定観念や偏見に気付くことができます。そして、イエス様と出会うまでは顔に覆いがかかっていて見えていなかったことが見えるようになります。聖書の言葉に、それまでは気付かなかった新しい意味があることに気付けるようになります。
16 しかし、人が主に向くならば、覆いは取り去られます。17 主は霊です。そして、主の霊のあるところには自由があります。18 私たちは皆、顔の覆いを除かれて、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じかたちに変えられていきます。これは主の霊の働きによるのです。
聖霊様は、私たちを日々新たに作り変えてくださっています。心の向きを神様に向き直していただいて、空しいものではなく、神様の与えてくださる永遠の希望に向けて、力強く歩んでいきましょう。
メッセージのポイント
私たちは皆、罪の性質を持っていて、神様を畏れず、自分の都合を最優先する傾向を持っています。私たちはそれを自分の力で改めることはできません。私たちは、日々、聖霊様によって心を新たにされ、神様の思いが何であるかを追い求める必要があります。聖霊様は私たちの心に働き、神様の愛を私たちがもっと受け取ることができるようにしてくださいます。
話し合いのために
1) 神様を都合よく使っていると思うような例はありますか?
2) 聖霊様の働きを経験した経験をシェアしてください。