神様の敵=あなたの敵?


❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語/英語)


❖ 読む

神様の敵=あなたの敵?

(詩編68、エフェソの信徒への手紙2:13-22) 永原アンディ

 今日の詩編は、神様がその敵を蹴散らし滅ぼされるという勇ましいものですが、神様の敵とは誰のことなのでしょうか?ある人々は「自分の敵が神様の敵」と都合よく考え、聖書を振り上げて、自分の気に入らない人々を攻撃します。それは他の経典を掲げて聖戦を叫ぶ人々と同じことです。この詩編をどう読めばいいのでしょうか? 長い詩なので全ては読みませんが、少しづつピックアップして読んでいきましょう。まず最初の4節です。

1 【指揮者によって。ダビデの詩。賛歌。歌。】2 神は立ち上がり、敵を散らす。神を憎む者はその前から逃げ去る。3 煙を吹き払うように、あなたは敵を振り払う。火の前に蝋が溶けるように 悪しき者は神の前に滅び去る。4 正しき人は喜び祝う。神の前に喜び、楽しむ。


A. 自分の敵を神様の敵とする人々

1. 飼い葉桶としての聖書? (20-24)

20 わが主をたたえよ。我らの救いの神は 日々、私たちを担ってくださる。〔セラ 21 我らの神は救いの神。わが主は死から逃れさせてくださる神。22 神は必ずその敵の頭を打ち砕き 罪の内に歩みむ者の、髪に覆われた頭を打ち砕かれる。23 わが主は言われる。「バシャンから私は連れ帰ろう。深い海の底から連れ帰ろう。24 あなたは彼らを打ち砕いて足を血に浸す。あなたの犬の舌も敵からの分け前にあずかる。」

 ここを読むと、神様はイスラエルという特定の民にあらん限りの恵みを与え、そうではない民はひどい目に合わせるように聞こえます。しかし、イスラエルが依怙贔屓されてきたわけではないことは世界史を見れば明らかです。他の宗教を敵とみなす人は、自分たちは聖書をそのまま受け取っていると主張しますが、実は聖書を「表面的」にしか読んでいないのです。なぜそのような読み方がいけないのかを説明します。

 聖書は「神の言葉」です。しかし、人の言葉で書かれた神の言葉です。それはヘブライ語、ギリシャ語で書かれたということだけではなく、書いた一人一人が聖霊に導かれて自分の意思と知恵と知識を用いて書いたということです。聖霊が勝手にその人の手を動かした訳ではありません。それは、時代的、地域的、文化的な制限の中で表現されているということです。神様の意思が直接表現されているのではなく、記者や詩人を取り巻く時代、文化の影響を受けた文章の中に表現されているのです。私たちは、その限界の中での表現を、今の現実の中でどう受け取るべきかをよく考えて理解します。これを解釈と言います。例えば現代のクリスチャンは重婚を否定しますが、旧約の有名な王たちに多くの妻がいることは当たり前のことでした。パウロは女性は教会では黙っているべきだという考えを持っていました。パウロの神学を尊重している人でも、彼の女性観に賛成する人は多くはないでしょう。しかし今だに、女性は牧師になるべきではないという教会があるのも事実です。そのように、聖書の限界を無視して、聖書の言葉は、時代も文化も超越した神様からの、いつの時代の、どこに住む人にも直接語られたものだと考えるなら、キリスト教以外の宗教を信じる人は敵で、敵は殺してもいいということになってしまいます。

 週報の表紙の絵は何かわかりますか?二つの絵の絵を組み合わせたのですが十字軍です。十字軍を素晴らしい信仰の現れと評価する人はほとんどいないでしょう。しかし十字軍的な考えのキリスト教指導者は今もいて、イスラムは悪い宗教だから、イスラム教の国は核兵器を使って滅ぼすべきだと言ったりするのです。自分たちは聖書に従って神様の敵を滅ぼすのだと主張しているわけですが、実は聖書を自分の価値観に引き寄せて読み込んでいるのです。そのような考え方をする人々は他方で、同性愛やトランスジェンダーを想像させるような聖書の言葉を取り上げて、LGBTQであることを神様が罪としていると主張します。彼らは、自分たちを「聖書を解釈せず文字通り読む忠実なクリスチャン」と言いますが、実際のところは、聖書を自分の価値観に基づく解釈で読んでいるに過ぎません。つまり先週のメッセージに出てきた、本当は神様の言葉をないがしろにしている現代の律法主義者です。 

 聖書自体は私たちの信仰の対象ではありません。聖書はちょうどあの生まれたばかりのイエスが置かれた飼い葉桶のようなものです。それ自体は神聖というより、薄汚れている、つまり矛盾や限界のあるものです。しかし、飼い葉桶が、家畜用の不潔なものだからと言って、イエスが乗せられている飼い葉桶を蹴っ飛ばして転がす人はいないでしょう。イエスのことまで放り出してしまうことになるからです。そうではなく、限界はあっても、そこからしか神様の意思は汲み取れないので大切にするのです。しかし飼い葉桶自体を大事にして、中に置かれているイエスに従わないなら、それはもう、イエスを信じる信仰ではなく、イエスが厳しく戒められた律法主義になってしまうのです。

 

2. 旧約はイエスというメガネをかけて読む (5-11)

5 神に向かって歌え。その名をほめ歌え。雲を駆って進む方をたたえよ。主の名によって、その前に喜び躍れ。6 みなしごの父となり やもめの裁き手となるのは 聖なる住まいにいます神。7 神は孤独な人を家に住ませ 捕われ人を幸福へと導き出される。背く者は焼けつく地に住まなければならない。

8 神よ、あなたが民に先立って出て 荒れ果てた地を行進されたとき〔セラ 9 地は震え、天は雨を滴らせた 神、シナイの神の前に 神、イスラエルの神の前に。10 神よ、あなたは豊かに雨を降らせ 衰え果てたご自分の民を回復させ 11 あなたの群はその地に住む。神よ、あなたは恵み深く 苦しむ人のために備えてくださる。

 イエスはここに描写されている憐れみ深い神様です。背いて苦しむという7節後半が引っかかるかもしれませんが、それは神様の罰というより、恵みを受け取ろうとしない当然の結果です。有能で親切な医師が正しく処方した薬を拒否すれば病は悪化しますがそれは医師からの罰でないのです。

このイエスが聖書を正しく読むためのポイントなのです。先に、解釈をしなければ正しく受け取れないと話しましたが、それが自分勝手な解釈なら、やはり神様から遠く離れることになってしまいます。
 
 ゴルフや釣りで使う偏光レンズ(polarizing lens)は様々に反射する光をカットしてグリーンの地形や波の上で揺れるウキをよく見えるようにしてくれます。イエスは聖書を読むための偏光レンズです。先週のメッセージで、イエスはレビ記の食物規定を否定されたことを聞きました。少なくとも、ユダヤ人ではなく、全く違う文化、時代に生きている者にとって、その規定の一つ一つは意味のないことだとイエスは教えてくださいました。一方で旧約には、イエスの十字架と復活を暗示する部分が多くあることを私たちは知っています。当時のユダヤ教という特殊な文化の中で書かれた旧約聖書であっても、未来のイエスの登場を預言していること、ユダヤの歴史を通して、イエスに出会うことなしに本当の解放はあり得ないこと教えてくれていることから大きな価値があります。励まされ、教えられることが豊かに備わっています。(実はここを間違えて、イエスの入れられている飼い葉桶を捨ててしまうように、キリスト教には旧約聖書は必要ないと教える異端が、2世紀にはすでに現れています。)

 旧約聖書を読む時は、十字架と復活を中心とした、イエスの言葉と行いを心に留めて読む、言い換えればイエスという偏光レンズの入ったメガネで読むべきだということです。そうするとそこから、時代、文化の制約を受けた文の中でも、普遍的に輝きを失われない、神様の意思を読み取ることができるのです。このメガネは、福音書以降の新約聖書にも使えます。パウロの手紙も文化と時代の制約を受けていますが、イエスを通して読めば神様の意思をより良く受け取ることができます。

 

 


B. 神様の敵を知り、自分の敵とする

1) 被造物の全ては神様の敵ではない (12-15)

 私は世界は神様が作られたと信じます。これは単純な問題です。世界は偶然にできたのか?神様の意思によってできたのか?。選択肢は二つしかありません。私は21歳になるまで、どのような神様も宗教も信じませんでした。宗教の悪い面を多く見てきたので、どんな宗教も神様も信用できなかったのです。しかし、神を信じないという考えに基づいて作られた社会も同じように酷いものだとわかって絶望しました。偶然に支配されているなんて耐えられないと思いました。偶然なら、自分の欲望に従って生きるしかありません。それでは争いは絶えません。そして、強い者はもっと強く、弱い者はもっと弱く。富んだ者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなるしかありません。自分の幸せを追求しようとするなら、邪魔をするものは敵として倒さなければなりません。
 聖書が最初に主張したことは「神様が世界を創られた」ということです。しかも神様は、すべての被造物を良いものとして創られました。そして人はただ良いだけではなく神様に似たものとして創られたとあります。一つの民族だけが、そうなのではありません。「全ての」人です。神様は、核兵器で滅ぼしてもいい人、敵など創造されませんでした。イスラエルはそうは受け取りませんでしたが、正義の戦争などどこにもないのです。

12 我が主が言葉を与えられる。良い知らせを告げる女たちは大いなる軍勢。13 王たちの軍勢はちりじりに逃げ 家にいる女たちは戦利品を分ける。14 あなたがたが柵の間に伏していても 銀に覆われた鳩の翼 緑色の金に覆われた羽はすでに戦利品。15 全能者が王たちを散らすとき ツァルモン山に雪が降るであろう。

この王たちは、イエスのレンズを通して読めば、人の命や財産を奪い取ろうとするすべての力です。イスラエルの王も、キリスト教国の指導者も例外ではありません。そのはかりごとは、弱い者、地位の低い者を通して与えられる神の言葉によって、無力にされ、弱い者、地位の低い者に恵みが与えられる。という希望です。しかし、あなたのものを奪い取ろうと攻めてくる人々もあなたとおなじ神の似姿、敵ではないのです。それでは今私たちが戦うべき本当の敵はどこにいるのでしょうか?

 

2) 敵は全ての人の内にある罪 (エフェソの信徒への手紙 2:13-22)

 先週のメッセージのイエスの言葉を覚えていますか?「汚れたものは自分の内側にあって出てくるものであって、外から入り込もうとするものではない。だから清さは食べ物の規定で保てるものではない」この汚れの法則は悪の法則でもあります。創世記は人がただ良いだけではなく神様に似たものとして創られたことを記しています。他の被造物との違いはここにあります。それは自分の意思を持って生きるということです。しかし、ここに大きな困難がありました。この自由は神様に背を向ける事も可能だったということです。 そして、人はそれを実行しました。神様の意思を求めて世界を治めようとするのではなく、自分の欲望に従って支配しようと考えたのです。その結果が、この世界に現れています。神様が敵を創造したのではなく、私たちの心にある罪が、自分と同じように神様の似姿として創られた人を敵と決めつけるのです。神様の作った美しい世界に、悪いものを撒き散らしているのは、一人一人の心に働くエゴです。それが複雑に絡み合い、敵意・憎しみが膨れ上がり、コントロールできない力となって多くの人々を苦しめ、幸せを、平和を脅かします。自分の意思を、神の意志、正義と思い込み、あなたに挑んでくる人々が本当の敵ではありません。その人々の心を支配している「罪」が本当の敵です。私たちは他人の心に生まれる悪と戦うことはできませんが、自分の内側に働く悪を自由にはさせないことができます。この戦いのためには、神様は喜んで力を貸してくれます。イエスはそのために来てくださいました。本当に平和を求めるなら、イエスに従って歩むことです。イエスを自分の主、神と信じて歩み始めると、自分の罪をコントロールする力が与えられます。それと同時に誰にも壊すことのできない平和が心の中に訪れます。そしてその平和は、周りの人に伝わります。このことについて述べているエフェソの信徒への手紙を読んで終わります。

(エフェソの信徒への手紙 2:13-22) しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。

 


メッセージのポイント

 新約聖書を読むとき、そこに旧約の土台があることを意識して読まなければならないように、旧約聖書を読むときは、イエスの言葉と行いを意識して読まなければ、誤解して受け取ることになります。聖書の解釈の違いで多くの教会のグループがありますが、誰にも自分の解釈が絶対だという権利はありません。自分の読み方を絶対とするとき、私たちは神の敵を見失い、自分の敵を神の敵と誤解します。

話し合いのために

1) どうしたら聖書を正しく読むことができますか? 
2) 神様の敵とは誰のことですか?

子供たちのために

この詩で読むのは1-4節だけでいいと思います。「敵」という言葉を子供達がどう意識しているか聞いてみましょう。かなり個人差があることが予想されますが、神様は、みんなが敵と思っている人々の敵ではない。全ての被造物を愛されていることを教えてください。それでは敵とは何でしょう? それは、すべての人の心にある「罪」です。罪とは、自分の心を満足させるために、人を悲しませても、傷つけても構わないという心、自分中心の心です。罪に負けない方法は、自分中心ではなく、神様中心、つまりイエス様を信じてついてゆくことです。