イエスの思いを知るプロセス

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イエスの思いを知るプロセス

(詩編 69) 永原アンディ

 「イエスならどう考え、どう言われ、どうなさるのかを考えて行動しましょう」と、いつもお話ししていますが、それは何かをするときに福音書のテキストを思い返して、状況にあったイエスの言動を探すようなことではありません。日常生活をイエスと共に歩むことによって自然にできるようになることなのです。しかし、イエスと共に歩むといって
も、抽象的であまり実感が持てない人もいると思います。また「イエスは人となられた神」ということにも実感が伴わない人もいるでしょう。今日の詩編は、あなたが生活の中でイエスを実感し、イエスの思いを知り、イエスに倣って行動することができるようになることを助けてくれます。68編と同様に長い詩なので、一節一節に細かく触れることはできませんが、その全体像を掴んでいただけるようにお話ししたいと思います。是非、今週この詩を何度か読み返してください。イエスの思いがもっと皆さんの生活の中でリアルになるはずです。まず最初の部分を読みましょう。

 


1. 危機はすぐ近くにある (2-5, 20-22)

【指揮者によって。「ゆり」に合わせて。ダビデの詩。】 神よ、私を救ってください。大水が喉元にまで迫っているからです。 私は深い泥沼にはまり込み 足がかりもありません。大水の深みに沈み 激流が私を押し流します。叫び疲れて、喉は涸れ わが神を待ち望み、目は衰えました。いわれなく私を憎む者は私の髪の毛よりも多く 私を滅ぼそうとする者 偽り者の私の敵は強いのです。私は自分が奪わなかったものさえも 償わなければなりません。(1-5)

 あなたは、この詩人の叫びを実感できますか? 描写されているのは生命の危機、しかも一瞬のうちに取り去られるのではなく、苦しみや、恐れや、焦りや、憤りで胸が張り裂けそうな状態が続いています。プールの中で歩くとなかなか前に進めません。喉元まで迫る深さなら、泥沼では動くこともできず、完全に飲み込まれるのを何もできずに待つしかありません。周りにいる人々は手を差し伸べてくれるどころか、嘲笑うばかりです。
 病気は、私たちにとって一番身近な危機です。事故や、犯罪に巻き込まれることもあります。これらを予知して完全に回避する方法はありません。しかし、イエスはそのただ中で、あなたと共にいてくださるのです。20-22節を見てください。

あなたはご存じです 私が受けたそしりを、恥を、辱めを。私を苦しめる者はすべてあなたの前にいます。そしりは私の心を打ち砕き 私は病に伏しました。望んでも同情は得られず 慰めてくれる人もいません。彼らは私の食物に毒を入れ 渇く私に酢を飲ませようとします。(20-22)

 福音書のイエスの死の記事(マタイ27, マルコ15, ルカ23, ヨハネ19)を思い出した人がいると思います。イエスは自分のではない罪を負わされ、苦しめられ、処刑された“神様”です。こう考えてみてください。「イエスは、他の誰かではなく、私になった」のです。イエスは2000年以上も前に人として歩まれたのですが、あなたの直面する危険も、愚かさも、苦しみも、すでに自分のこととしてすでに体験されたのです。その時代や地域に特有の問題はありますが、人間の悩み、苦しみの本質は変わっていません。だから、イエスを主、神と信じる人は世界中に存在し続け、聖書は今でも読み続けられているのです。そして、イエスは今、わたしたちの中に住み、そこから心に語りかけてくださいます。

誰でも、イエスを神の子と告白すれば、その人のうちに神はとどまってくださり、その人も神の内にとどまります(ヨハネの手紙 I 4:15)

コリントI 6:19 では「聖霊が」、コロサイ 1:27 では「イエスが」と言い換えられて記されています。たとえ危機の中にあったとしても、イエスは遠くでそれを見ているのではなく、一番近くにいて、支えてくださり、耳を傾ければ、どうすれば良いのかを教えてくださいます。

 


2. 自分の愚かさを知る (6,7)

  自分の愚かさを知ることも、イエスの語りかけをよく聞くために大切なことです。多くの失敗、人を悲しませたこと、傷つけたこと、裏切ってしまったことなどは思い出したくもないことですが、自分が愚かな者であることを忘れないための傷跡のようなものです。愚かさ、弱さの自覚があるので神様に助けを求められるのです。イエスを従う者にとって、弱さは恥ではありません。人はあなたの弱さを見て、がっかりするのではなく、弱いあなたのうちに働く神様の力を見て励まされるのです。

神よ、あなたは私の愚かさをご存じです。私の犯した罪もあなたには隠すことができません。わが主、万軍の主よ あなたに望みをおく人が私のことで恥じ入ることがありませんように。イスラエルの神よ あなたを尋ね求める人が私のことで 屈辱を受けることがありませんように。(6,7)

 


3. イエスの苦しみを知る (8-13)

私はあなたゆえにそしられ 顔は恥辱に覆われています。兄弟にとっては見知らぬ者 同じ母の子にとってはよそ者となりました。あなたの家を思う熱情が私を食い尽くし あなたをそしる者のそしりが私にふりかかっています。私が断食し、自分のことで泣けば そのことでそしられ 粗布を衣とすれば 私は彼らの話の種となります。町の門に座る人々は私を噂の的とし 酒に酔った者は嘲り歌います。(8-13)

イエスの苦しみの本質は孤独です。私たちの味わう孤独の比ではありませんでした。周りから見れば、神様に呪われた者、見放された者として十字架の上で死んだのです。家族からもその死に至るまで理解されることはありませんでした。イエスを信じ愛するあなたは、イエスの孤独、自身の孤独を知るものとして、目の前にいる人の孤独を知り、その人のためにふさわしい振る舞いができるのです。

 


4. 率直に願い求める (14-19, 23-29)

14-19と23-29節は読みませんが、そこには苦しみの解放を求める言葉が率直に記されています。14-19節は先に読んだ2-5節の状況を直接訴える祈りです。23-29節は「私を苦しめる者をひどい目に合わせてください。その人の名を命の書から消し去ってください」という激しい願いです。イエスが聞いたらどう答えられるでしょうか?
 私たちは、問題をわかりやすい誰かのせいにしたいのですが、イエスが教えてくださったことは、問題の根源が、直接の加害者である人や組織にではなく、自分自身を含めたすべての人の持つ罪の性質の集合的な表れにであることを知っています。しかしだからと言って、その人が罰せられることを願うことまでが禁じられているわけではありません。
 さすがに、「命の書から抹消してください」は言い過ぎですが、「私を踏みつけているあの人の足を蹴っ飛ばしてください」くらいは受け入れてもらえるかもしれません。
 イエスに向かって、思いや願いを率直に求めてください。それは言った後で、言い過ぎだと諭されたとしても、イエスとの距離が近くなることだからです。

しかし主よ、私はあなたに向かって祈ります。神よ、御旨に敵うとき 豊かな慈しみとまことの救いとによって 答えてください。泥沼にはまり込んだままにならないように 助け出してください。私を憎む者から 大水の深みから助け出してください 大水の激流が 私を押し流すことがありませんように。深い底が呑み込むことがありませんように。 穴が私の上に口を閉ざすことがありませんように。 主よ、恵みと慈しみのゆえに答えてください。 深い憐れみにふさわしく御顔を向けてください。僕に御顔を隠さないでください。私は苦難の中にあります。急いで答えてください。私の魂に近づき、贖い 敵から解き放ってください。(14-19)

彼らの食卓が彼ら自身の罠となり その仲間には落とし穴となりますように。彼らの目が曇って見えなくなりますように。その腰を絶えず震えさせてください。あなたの憤りを彼らの上に注ぎ あなたの燃える怒りが 彼らに迫るようにしてください。彼らの宿営は荒れ果て その天幕に住む者はいなくなりますように。彼らは、あなたに打たれた人をなおも迫害し あなたに刺し貫かれた人の痛みを 数え上げているからです。彼らの罰には罰を与え あなたの義にあずからせないでください。彼らが命の書から消し去られ 正しき人と並んで書き記されることがありませんように。(23-29)

 


5. 神様に期待する (30-37)

私は苦しみ、痛みの中にいます。神よ、あなたの救いが 私を高く上げてくださいますように。私は歌をもって神の名を賛美し 感謝をもって、神をあがめます。それは雄牛よりも 角と割れたひづめのある牛よりもなお 主の喜びとなるでしょう。苦しむ人はこれを見て喜びます。神を尋ね求める人よ あなたがたの心に命が与えられますように。主は貧しい人に耳を傾け 捕われた民を決して侮ることはありません。天と地、海とその中にうごめくものすべてが 主を賛美しますように。神は必ずシオンを救い ユダの町を築かれる。彼らはそこに住み、そこを受け継ぐ。主の僕らの子孫はこれを譲り受け 主の名を愛する人はその中に住む。(30-37)

 イエスに対する期待がなければ、イエスの思いを知り、それを人間関係の中で生かそうとは思えないでしょう。私たちは皆、様々な苦しみを、共にいてくださるイエスに支えられて乗り越えてきました。今、苦しみの只中に置かれている者もいるのです。私たちは、苦難の日にイエスが共にいてくださったことを知っている者です。イエスのように行う事の基本は、イエスのように共にいるという事です。それは、目に見えないキリストの体が目に見える形で存在するという事です。イエスは見えなくても、イエスが住まいとされ、イエスの意思を行う人々が共にいるという事です。それは教会の根本的な存在の意味です。社会的な活動も、イエスを伝える伝道と呼ばれる活動も、第一のことではありません。「互いのうちにイエスが見えるような人間関係」を築くことです。それがあれば、そこには自然と活動が生まれます、イエスとの出会いが生まれます。ユアチャーチはそのようにして今日まで歩んできました。これからもそのような思いを共有して行ければうれしいです。

 


メッセージのポイント

イエスが人となられたことを他人事のように思ってはいけません。イエスはあなたになったと思ってください。あなたの直面する危険も、愚かさも、苦しみもイエスは、すでに自分のこととしてすでに体験され、神に叫び求め、それでも希望を神に置き続けることをイエスは身をもって教えてくださいました。

話し合いのために

1) 23-29節を読んでどう思いますか? 
2) 苦しみの中にあるにも関わらず、34節のように確信できるのはなぜですか?

子供たちのために

 2-5節を読んで、深い沼に足を取られているような苦しみ、大水に流されているような自分を想像させて、どんな危機が詩人に迫っているのか考えてみましょう。そのあと14-19を読んで、子供達が想像したような状況から逃れさせてくださいと主に祈ることができることを伝えてください。最後に30-34に触れて、主は必ず聞いていてくださり、救い出してくださる方だということを確認しましょう。