完全と不完全の間にいる私たち

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完全と不完全の間にいる私たち

(マルコ 8:22-26, 1コリント 13) 池田真理

 

A. 不完全な癒し?

22 一行はベトサイダに着いた。人々が一人の盲人をイエスのところに連れて来て、触れていただきたいと願った。23 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その両目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。24 すると、盲人は見えるようになって、言った。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります。」25 そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、見つめているうちに、すっかり治り、何でもはっきり見えるようになった。26 イエスは、「村に入ってはいけない」と言って、その人を家に帰された。

 

 イエス様が目の見えない人を癒したという話は、聖書によく出てきます。でも、今日の箇所は他とは違う点があります。それは、癒しが2段階になっていることです。イエス様はわざわざ途中で「何か見えるか」と確認しています。盲人は見え始めているものの、まだよく見えていませんでした。そして、2回目にイエス様がこの人に手を置いたことで、この人の視力は完全に回復されました。なぜイエス様は他の箇所のように、一気に一言でこの人を癒さなかったのでしょうか?

 その直接の答えは私たちには分かりません。でも、このエピソードの前後の箇所を読むと、マルコ福音書の中でこの場所にこのエピソードが収められていることに大きな意味があることがわかります。今日の箇所の直前には、弟子たちがイエス様のことを理解できず、イエス様が弟子たちに「まだ分からないのか、耳があっても聞こえないのか、目があっても見えないのか」と嘆いた言葉がありました。弟子たちは、イエス様のことが分からなかった、つまり、心の目は盲目で、見えていなかったのです。そして、今日の箇所の直後には、ペテロがイエス様のことを正しく理解しているようなことを言っておきながら、やはり全然わかっておらず、すぐにイエス様に叱られてしまう場面が出てきます。弟子たちは、イエス様のことを見えているようで見えていないということを繰り返していました。そんなイエス様と弟子たちのやり取りの中に、今日の箇所はあります。弟子たちの心の目が全然見えていないという状況の中で、イエス様は盲目の人に触れて、一気にではなく、だんだん見えるようにされたのです。ここには、弟子たちの未来が象徴されています。今はイエス様のことを分かっていない弟子たちも、やがてイエス様によって変えられていき、目が開かれていくのだという希望が示されています。それは私たちが通る道でもあります。

 私たちは、イエス様を知り、神様の愛を知りました。イエス様が十字架でご自分の命を捧げてくださるほど、私たちを大切に思ってくださっていることを知っています。でも、日常生活の中で、神様に愛されているという安心感と充足感を常に持っていられる人はいません。目の前に起こってくる問題の中で、私たちは慌てたり悲しんだりがっかりしたりします。神様を信頼していて、どんなことが起こっても大丈夫だと頭では分かっていたとしても、気持ちがついていかないことは人間なら普通のことです。また、私たちには一生答えの分からない、神様も私たちと一緒に悲しまれる出来事も起こります。そんな時、神様は一緒に悲しんでおられるのだと確信を持てればいいのですが、その確信を苦しい状況の中ですぐに持てる人はいません。私たちは弟子たちと同じように、イエス様のことを知っていながら、分からなくなるということを繰り返すのです。イエス様の愛を信じていながら、疑ってしまうことの繰り返しです。

 ではイエス様の十字架は不完全で不十分だったのかというと、そうではありません。この盲目の人の癒しで言うなら、最初の癒しは不完全な癒やしだったということではないのです。もしイエス様が中途半端なところでやめてしまうような方だったとしたら、この人は不完全な癒ししかいただけなかったかもしれませんが、イエス様は決して中途半端にやめてしまう方ではありません。この盲目の人は、イエス様に出会った時点で、完全に癒されることが決まっていたのです。それと同じで、イエス様の十字架の愛は、今はまだこの世界の中で完全に実現してはいませんが、完全に実現する日が来ることが決まっています。それはイエス様が2000年前にこの世界に来られた時に約束されたことです。約束は、たとえそれがまだ達成されていなかったとしても、その約束を信じることができたら、達成されているのと同じです。約束を信じるために必要なのは、その約束をした人自身を信頼することです。イエス様は決して約束を破る方ではないと信じることができたら、私たちはイエス様の約束を信じることができます。そして、イエス様の十字架の愛は、今は完全に実現していなくても、必ず実現されるのだと信じることができます。たとえ目の前の状況が悪くても、イエス様という方を信頼することによって、希望を保つことができます。

 不完全なのは、私たち自身、そしてこの世界に生きている全ての人です。私たちは自分自身の弱さや間違いによって、自分自身を見失い、他人を傷つけています。私たちは最初から不完全で、イエス様と出会ってからもそれは変わりません。自分の力でイエス様を信頼し続けることはできません。だから、私たちには今日の盲目の人の癒しのストーリーが必要です。癒してくださるのはイエス様、見えるようにしてくださるのはイエス様です。イエス様が中途半端にやめてしまうことはありません。私たちにいつも語りかけ、働きかけ、完全な癒しに向かって進ませてくださっています。

 それでは、イエス様が約束してくださっている完全なもの、完全な癒しとは何なのか、後半は考えていきたいと思います。1コリントの13章の8-13節を読みます。

 


B. 決してなくならない完全なもの

(1コリント13章)8 愛は決して滅びません。しかし、預言は廃れ、異言はやみ、知識も廃れます。9 私たちの知識は一部分であり、預言も一部分だからです。10 完全なものが来たときには、部分的なものは廃れます。11 幼子だったとき、私は幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていました。大人になったとき、幼子のような在り方はやめました。12 私たちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ていますが、そのときには、顔と顔とを合わせて見ることになります。私は、今は一部分しか知りませんが、その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。13 それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残ります。その中で最も大いなるものは、愛です。

 ここでパウロが言っているように、私たちは今は神様の一部分しか見ることができません。汚れてかすんでいる鏡に映すようにぼんやりとしか、神様のことを知ることができません。でも、いつか神様と顔と顔を合わせて会うことになります。私たちが死ぬ時が先か、世界が終わる時が先かはわかりませんが、多分私たちが死ぬ時の方が先でしょう。その時に、私たちは神様と顔を合わせることになります。その時には、私たちは何の妨げもなく、神様のことを完全に知ることになります。12節でパウロが言っているように、「その時には、私が神にはっきり知られているように、はっきり知ることになります。…then I shall know fully, even as I am fully known.」神様が私たちのことを完全に知っているように、私たちも神様のことを完全に知るようになること、それが、神様の望みであり、私たちへの約束です。その時には、私たちは神様が私たちのことを本当に愛しておられることを完全に知ることができます。
 でも同時に、今日前半でお話ししてきたように、私たちはすでにイエス様によって癒され始めています。そして、神様はこんな私たちを用いて、その愛を世界に示そうとされています。8節でパウロは、「預言も異言も知識も廃れる」と言っています。これを私たちに当てはめて考えるなら、説教の言葉も聖書の知識も不思議な体験も、やがては廃れるものだということです。そういうものは私たちがイエス様を知るために必要な助けですが、部分的なものです。私たちが神様に愛されているという確信を持つのに役に立たなければ、意味はないのです。これがどういうことなのか、同じ1コリント13章の少し前を読みます。1-3節です。

そこで、私は、最も優れた道をあなたがたに示します。 1 たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル。2 たとえ私が、預言する賜物を持ち、あらゆる秘義とあらゆる知識に通じていても、また、山を移すほどの信仰を持っていても、愛がなければ、無に等しい。3 また、全財産を人に分け与えても、焼かれるためにわが身を引き渡しても、愛がなければ、私には何の益もない。

私たちは、神様に愛されているという確信を持つことによって、神様を愛したいという願いを与えられます。それが、人を愛したいという願いにつながります。私たちは相変わらず不完全で、愛されている確信を失ってしまうことを繰り返しますが、イエス様が途中であきらめることはありません。同じように、私たちには人を愛せる時も愛せない時があっても、イエス様があきらめることはないと知っているので、愛し続けることができます。そして、私たちは時々、互いの間でイエス様の愛が実現していることを知り、互いに喜ぶことができます。
 最後に、イエス様が実現し、今も私たちの間で実現しつつある愛がどういうものか、パウロの言葉を読んで終わりにしたいと思います。

愛は忍耐強い。愛は情け深い。妬まない。愛は自慢せず、高ぶらない。5 礼を失せず、自分の利益を求めず、怒らず、悪をたくらまない。6 不正を喜ばず、真理を共に喜ぶ。7 すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。

 私たちは完全なイエス様の愛と自分の乏しい愛の間で揺れ動いています。それでも、イエス様が日々私たちを導いてくださっていること、作り変えてくださっていることは変わりません。そして、私たち自身のうちに働き、私たちを通して働いているイエス様の愛は、決して滅びません。たとえ、私たちの体がなくなっても、その愛は続いていきます。私たちはこの愛のうちに、今日も生かされています。

 


メッセージのポイント

私たちは、イエス様の十字架を通して、すでに神様の完全な愛を知っています。でも、それはまだ私たちの目に見える形で完全に実現してはいません。私たちはこの完全と不完全の間で揺れてしまいますが、そんな私たちを用いて神様はご自分の愛を世界に示そうとされています。その愛は私たちがこの世界からいなくなっても、「決して滅びません。」

話し合いのために

1) イエス様に愛されていることが分からなくなったことはありますか?その時どうしましたか?
2) 神様はあなたを誰のためにどのように用いていると思いますか?(他の人の意見を聞いてみましょう。)

子供たちのために

 人が歩いているのは分かるけど、木のように見える、というのが、私たちの今の状態かもしれません。神様が私たちを愛して下さっているということを、いつも信じていること(はっきり見えていること)は誰にもできません。悲しいことや苦しいことで見えなくなってしまうことが誰にでもあります。それでも、必ずイエス様は私たちの視力を回復させて、良く見えるように(信じることができるように)して下さいます。見えない時は、正直にイエス様に「見えるようにして下さい」と求めることを励まして下さい。