上りも下りもイエス様と

❖ 見る

第1礼拝(日本語)

第2礼拝(日本語・英語)


❖ 聴く

第一礼拝 (日本語)

第二礼拝 (日本語/英語)


❖ 読む

上りも下りもイエス様と

(マルコ 9:2-13) 池田真理

 

 皆さんは今日どんな気持ちでいるでしょうか?喜んでいるか、悩んでいるか、一人ひとり違うと思います。そして、その中で神様に対してどう感じているでしょうか?「あなたをたたえます」と心から言える人もいれば、神様のことがよく分からなくなってしまったという人もいるかもしれません。私たちはみんな、その両方を経験します。そして、イエス様はその両方の経験を共にしてくださる方です。前半と後半に分けて読んでいきます。まず2-8節です。

 

A. 山の上の経験 (2-8)

 

2 六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。すると、彼らの目の前でイエスの姿が変わり、3 衣は真っ白に輝いた。それは、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほどだった。4 エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。5 ペトロが口を挟んでイエスに言った。「先生、私たちがここにいるのは、すばらしいことです。幕屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」6 ペトロは、どう言えばよいか分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。7 すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」8 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた。。

 

 イエス様の姿が弟子たちの目の前で変化したとあります。そういうことはイエス様の生涯において、この1回しかありません。イエス様はこれまでも様々な奇跡を行って、人間を超えた力を示されてきました。でも、イエス様自身の姿が人間ではない何かに変化したというのは、これが最初で最後です。イエス様の服が真っ白に輝き、大昔に死んだはずのモーセとエリヤが現れてイエス様と語り合ったとあります。マタイやルカにはイエス様の顔も輝いたとあります。そして、そこにいた弟子たちを雲が覆って、何も見えない雲の中で声が響いてきたとあります。

 この不思議な出来事は、弟子たちにとっては神様の存在を確かに感じる経験だったはずです。イエス様は人間を超えた存在であると感じた経験とも言えます。弟子たちだけでなく、もし私たちがその場に居合わせていたとしたら、誰でも圧倒されると思います。そして、神様は本当にいるのだと思うでしょう。

 でも、こういう出来事は後にも先にもこの1回だけでした。こういうことがたくさん起これば、誰でも神様を信じることができるのに、なぜ神様はそうしないのでしょうか。また反対に、なぜこの時だけはそのようにしたのでしょうか。先に、後の問いから考えていきたいと思います。

 二つヒントがあります。一つ目のヒントは最初の2節にあります。

六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。

 

「六日の後」とは、前回読んだ直前の箇所から六日後という意味です。前回の箇所は、イエス様が初めて自分がもうすぐ捕らえられて殺されることになると予告した箇所でした。そして、それを聞いたペトロが「そんなことはあってはいけません!」とイエス様に反論して、イエス様に叱られてしまうという内容でした。その時から六日後ということです。こういうふうに具体的な時間の経過が書いてあるのは、この箇所が前の箇所と関係があるからです。自分は殺されることになると予告したイエス様と、それを受け入れいられないペトロたちとのやりとりがあったから、イエス様はペトロたちを連れて山に行ったのです。何のためにでしょうか?それが二つ目のヒントにあります。

 二つ目のヒントは、7節にある雲の中で聞こえた声です。「これは私の愛する子、これに聞け。」「これに聞け」と命令している相手は、そこにいた弟子たちです。つまり、この声は弟子たちのために語られたということです。

 この二つのヒントを合わせると、イエス様は、動揺する弟子たちに神様は本当におられるということを教えるために、山に連れて行ったと言えます。イエス様は、自分が殺されると予告したことで弟子たちが動揺しているのを知っていました。そして、彼らがその動揺の中でも神様を信じることができるように、神様の存在を肌で感じ、神様の声を聞く必要があると知っていました。だから、この時は彼らに特別に不思議な経験をさせたのです。

 イエス様は、私たちも時にこのような不思議な体験を通して、理屈ではなく感覚で、神様は本当におられると感じることが必要だと知っています。私たちは、歌を通してイエス様に向き合う礼拝、ワーシップの時間にそういうことが起こることをもっと期待していいと思います。それ以外にも、個人的に不思議な経験をしたことのある人もいると思います。それは全て感覚的なことなので、他の人に話しても伝わらないかもしれませんが、一人ひとりにとってイエス様の存在がリアルになる経験です。その時、私たちは今日の弟子たちと同じように、イエス様と一緒に山の上に立っています。そして、ペトロのように、「私たちがここにいることは素晴らしいことです!」と喜ぶことができます。神様は私たちにそういう経験が必要なことを知っています。

 でも、もう一つの疑問に戻ると、それならなぜ、神様はこういう不思議な出来事をたくさん起こしてくださらないのでしょうか?その答えは、続く9節のイエス様の言葉にあります。9-13節を読んでいきましょう。

 


B. 下り道(9-13)

 

9 一同が山を下っているとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことを誰にも話してはならない」と弟子たちに命じられた。10 彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。11 そして、イエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。12 イエスは言われた。「確かに、まずエリヤが来て、すべてを建て直す。では、人の子については、どのように書いてあるか。多くの苦しみを受け、蔑まれるとある。13 しかし、言っておく。エリヤはすでに来たのだ。そして、彼について書いてあるとおり、人々は好きなようにあしらったのである。」

 

山の上の不思議な体験について、イエス様は弟子たちにしばらく誰にも言ってはいけないと注意しました。神様を肌で感じるという恐ろしくも素晴らしい体験を、なぜ誰にも言ってはいけないのでしょうか?それは、その体験はそれだけでは不完全だからです。感覚的な不思議な体験だけでは、神様はどういう方か、イエス様はどういう方か、本当に分かったことにはなりません。イエス様は弟子たちに「人の子が死者の中から復活するまで」黙っていなさい、と言われました。その時初めて、弟子たちは山の上で体験したことの意味を正しく理解し始めます。イエス様の十字架と復活があって初めて、弟子たちも私たちも、神様の壮大な計画とイエス様の愛に気がつくのです。

 そのことは、山から下る途中で、すでにかすかに弟子たちにも感じられていたはずです。イエス様と弟子たちが山の上から下りてくる途中、話題はエリヤのことになりました。ユダヤ教では、約束の救い主が現れる前に預言者エリヤが再び現れると信じられていました。イエス様が死者の中から復活するということを言われたので、弟子たちはよく分からないまま、死んだはずのエリヤがよみがえることを考えたのでしょう。でも、イエス様の彼らに対する答えは、新たな衝撃を彼らに与えました。エリヤはすでに来たのであり、しかも人々は彼に気がつかないで、いいようにあしらったのであると、イエス様は言われました。これは洗礼者ヨハネのことでした。ヨハネはすでにヘロデによって殺されていました。これを聞いた弟子たちの反応はここには書いてありませんが、彼らは山を下りながら、だんだん重い気持ちになっていったことが想像できます。彼らは、イエス様が自分は苦しんで殺されることになっていると予告されたことを思い出しました。山の上の輝きとは反対に、山から下りていった先に待っている現実は暗いのかもしれないと、彼らも感じ始めていたはずです。イエス様と彼らの下り道は、十字架という現実に戻っていく道のりだったと言えます。

 私たちは、この時の弟子たちとは違って、イエス様の復活を知っているので、彼らほど不安になることはありません。それでも、イエス様が死ななければならなかった状況は、当時も今も変わっていません。私たち人間の罪が、世界に苦しみと悲しみをもたらしています。私たちは自分の罪と他人の罪の中で苦しみ、傷つけ合っています。この現実の中を生きていくということは、とても耐えられないと思うこともあります。でも、その道のりは、確かにイエス様が歩まれた道です。

 


C. 山の上でも下り道でも、イエス様についていくだけ

 

 今日最後に皆さんと確認しておきたいのは、今日のお話は全て、イエス様が弟子たちを導いた道のりだということです。弟子たちを山の上に連れていったのも、彼らと一緒に山を下ったのもイエス様です。イエス様だけが山に登ったのでも、イエス様は山に残って弟子たちだけを下山させたのでもありません。そして、その間中ずっと、弟子たちは訳が分かっていませんでした。それでも、彼らはただイエス様についていきました。

 私たちそれぞれの人生は山あり谷ありです。上りもあれば下りもあり、時には突然、崖から突き落とされるように感じることもあります。でも、その道のりとイエス様の導く道のりは違います。私たちが崖から突き落とされて、自分の力で登れなくても、イエス様は私たちを山の上に連れていくことができます。苦しい時には、全てが順調な時には気付かなかった、イエス様の憐れみと愛を知ることができます。そして、たとえ山の上の経験が過去のことになってしまって、目の前に長い下り坂が続いているように見えても、そこを一緒に歩いてくださるのもイエス様です。十字架への苦しい道は、復活へと続く道でもあります。先にそこを歩まれたイエス様が、私たちをそこに導いてくれます。

 山の上での輝きが消え、雲が晴れた時、「弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはや誰も見えず、イエスだけが彼らと一緒におられた」とありました。弟子たちに見えたのはイエス様だけでした。私たちも同じです。私たちもイエス様についていくだけです。神様は雲の中から弟子たちに語られたように、私たちにも言われています。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」

 


メッセージのポイント

神様は私たちが「神様は本当におられる」と感じられる経験が必要だと知っています。でも、そういう感覚的な不思議な経験だけでは不十分です。神様がどういう方かを本当に知るためには、十字架で死なれ、復活されたイエス様に出会うことが必要です。私たちは、分かったようで分からなくなり、喜んだ次には苦しむということを繰り返しますが、そのどこにいても、イエス様は共におられ、唯一の確かな道しるべです。

話し合いのために

1)  山の上の経験(神様はおられると感じられた経験)をシェアしてください。2)  なぜ十字架と復活のイエス様に出会わなければ、神様がどういう方か分からないのでしょうか?

子供たちのために

イエス様はいる、神様はいるという感覚を持っていることは大切なことで、それは神様が私たちに与えてくださった感覚と言えます。でも、子供たちにはいつか「本当にいるの?」と疑う時が来るかもしれません。それはいけないことではありません。そういう時こそ、イエス様が私たちのために死なれて、復活されたということを、自分で考えたり、大人に聞いてみたりするように励ましてください。