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「私の声よ神に届け!」
(詩編 77) 永原アンディ
今日の詩は、私たちに「あなたはどれほど真剣に神様と向き合っているのか?」ということを問いかけてくれます。あなたの信仰は、あなたの仕事や趣味や性格や才能と同様にあなたの属性の一つでしかないのでしょうか?そうであれば、あなたが自分の宗教として、数ある神様のうちからイエスを選んだということになります。それは無意識のうちに、イエスが自分の主ではなく自分がイエスの主となっているということです。しかしそれはイエスの考えとは異なります。イエスは言いました。
「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」 ヨハネ 15:16
旧約聖書の民が、現代のクリスチャンより優れていた点があります。それは、自分たちが神様を選んだのではなく、自分たちが神様に選ばれたということを確信していたことです。このことを最初の部分から読み取ることができます。
A. 諦めるのはまだ早い (2-7)
1 指揮者によって。エドトンによる。アサフの詩。賛歌。
2 私の声よ、神に届け。私は叫ぶ。私の声よ、神に届け。 神は私に耳を傾けてくださる。
3 苦難の日にわが主を尋ね求め 夜もたゆまず手を差し伸べた。しかし、私の魂は慰めを拒む。
4 神を思い起こし、呻き、思い巡らそう 私の霊が萎え果てるまで。〔セラ
5 あなたは私のまぶたを閉じさせず 私は思い乱れて、ものを言うこともできない。
6 私はいにしえの日々を とこしえの歳月を思う。
7 夜、琴の音を心に思い起こし 思い巡らして、私の霊は問いかける。
自分の声が神様には全く届いていないような状況が長く続いても、詩人は叫ぶことをやめません。神は必ず耳を傾けてくださると信じているからです。簡単に苦難は去りません。それでも、神様になど頼らずに別のもので心を満たそうという誘惑には耳を傾けず、最後の最後まで、神様に叫び求めようと決心しています。すぐに解決を見ることもできず、眠れない夜が続いても、昔、神様が民にしてくださったことを思い、神様に叫び求めることをやめません。これは本物の信仰による行動です。神様に選ばれたということに疑いの余地がないので諦めないのです。求めているのは「自分と神様とのコネクション」です。それこそが彼らにとって最も必要なことだと知っているからです。
彼らに比べると現代のクリスチャンは諦めが早過ぎます。叫び求めもせずに、どうせ神様は私の叫びに答えてはくれないのだと諦め、神様以外のもので満足していることにしてしまいます。それも、神様と無関係なものではなく神様的なものであることが多いのです。このことが恐ろしい思い違いにつながるのです。それは、事実と反して、自分が信仰的に生きていると勘違いしてしまうという事です。礼拝や集まりに参加すること、そこでの自分の役割・働き、教会の人間関係、聖書の学び、組織としての教会の発展といったものです。その一つ一つは決して悪いものではありません。しかし、それらは神様自身ではありません。そして、神様ではないものに求め続けるなら、遅かれ早かれあなたの「霊は萎え果て」てしまいます。
もう一度、確認しておきましょう。あなたがイエスを選んだのではないのです。イエスがあなたを選びました。あなたが豊かに実を結ぶためです。それは、あなたがイエスを諦めない限り、イエスは決してあなたを諦めないという事です。諦めずにあなたの願いを叫び求め続けましょう。
B. 人にとって最も恐ろしいこと (8-11)
先週のメッセージで、地獄とは死んだ後に行く場所ではなく、神様から切り離された状態であることを学びました。人間にとって一番恐ろしいことは、神様から切り離された状態です。詩人もそのことを知っていました。8-11節を読みましょう。
8 「わが主はとこしえに捨て置き もう二度と、顧みてくださらないのか。
9 主の慈しみは永遠に失われ 約束は代々にわたって断たれてしまったのか。
10 神は恵むことを忘れ 怒りのあまり憐みを閉ざされたのか。」〔セラ
11 私は思った 「いと高き方の右の手が変わること これこそ私の痛み。」
諦めずに叫び続けているとはいえ、もし神様が本当に自分たちを見捨ててしまったらどうしようという恐れは、彼の心の中にあるのです。いえ、だからこそ叫び続けるしかないということでもあるのです。デパートのおもちゃ売り場で迷子になった子供は、親が見つけ出してくれるまで泣き叫び続けるでしょう。そんな時にその辺にあるおもちゃで遊び始めたりはしません。それは、親が必ず来てくれるという信頼と、このまま一人ぼっちになったらどうしようという恐怖感の両方からくるものです。あなたはこの根源的な神様への信頼があるでしょうか?また、神様不在の恐しさを実感しているでしょうか?実は神様とのコネクションが壊れているのに、手近なおもちゃで神様と共にいるような気になっているのではないでしょうか? 神様とのコネクションが壊れている事、それこそが人にとって最も恐ろしい事だと知ってください。イエスもまた、その恐ろしさを実感として知っていた方です。十字架にかけられる前、そのことについて苦しみ悩み「できることなら、この杯を過ぎ去らせてください」と祈られたことが三つの福音書に記録されています。イエスが恐れたのは、死に至る肉体の苦しみではなく、私たちの罪を負って十字架で死ぬ事によって、父である神様と引き離されることでした。イエスは三日目によみがえることを知っていたのに、それでもできれば負いたくはないほど恐ろしいことなのです。
C. 現された神様の奇跡を思い起こせ (12-21)
12 主の業を思い起こそう。いにしえからのあなたの奇しき業を思い起こそう。
13 あなたの働きの一つ一つを唱え あなたのなされた業を思い巡らそう。
14 神よ、あなたの道は聖なる道。我らの神のように大いなる神はいない。
15 あなたは奇しき業を行われる神。もろもろの民に力を示し
16 その腕をもってご自分の民を ヤコブとヨセフの子らを贖われた。〔セラ
17 神よ、大水はあなたを見た。大水はあなたを見て、もだえ 深い淵さえ震えた。
18 雨雲は水を注ぎ出し 雷雲は声を上げ あなたの矢もまた飛び交かった。
19 あなたの雷鳴はとどろき 稲妻は世界を照らし出し 地は震えおののいた。
20 あなたの道は海の中に あなたの行く手は大水の中にある。その足跡を知る者はいない。
21 あなたはモーセとアロンの手によって ご自分の民を羊の群れのように導かれた。
イスラエルの民は、主の業を出エジプトに見ます。先々週、76編のお話をしたとき「あなたの出エジプト」を思い起こしてくださいと言いました。そのことが、キリスト教的なものに対する信仰ではなく、イエスに対する信仰に私たちを引き戻してくれるからです。私はどのような状態から解放され、どのような者とされたのかを思い出してみましょう。簡単に言ってしまえば、罪の奴隷であった私たちは、罪から解放されて、イエスに従う者となったのですが、それぞれのエジプトでの苦しみも、今イエスと共に歩む喜びも画一的なものではありません。ミニチャーチで、それぞれのエジプトの苦しみと、今の喜びについて分かち合ってみてください。神様がどれほど一人一人にふさわしい特別な恵みを与えてくださっている事がわかるはずです。
ところで、出エジプト記には、イスラエルの民が、神様の偉大な救いの業と共に、彼らの不信仰な性質を忘れないために、次のようなエピソードも記されています。14章がエジプトからの脱出、15章には救い出された感謝と神様を賛美する歌が書かれているのですが、その三日後には、現在の自分たちの状態についてモーセとアロンに向かって不平を言い始めます。16章に入るとすぐ彼らは、エジプトでの悲惨な生活を忘れ、こんなふうに言っています。
イスラエルの人々は二人に言った「私たちはエジプトの地で主の手にかかって死んでいればよかった。あの時は肉の鍋の前に座り、パンを満ち足りるまで食べていたのに、あなたがたは私たちをこの荒れ野に導き出して、この全会衆を飢えて死なせようとしています」
私たちは、生命を維持するために欠かせない空気を、当たり前に存在する物としてほとんど意識していないように、神様の恵みを忘れがちです。直面している苦しみに対して、神様は何もしてくれないと思ってしまい、他のものに慰めを見出そうとします。しかしそれらは、イエスが言ったいくら飲んでもやがて渇く水のようなものです。私たちの魂を健康に保つために必要なのは、「イエスが与える水」です。それを飲めば渇かないばかりか、その人の内で泉となり永遠の命に至る水が湧き出るとイエスは言いました。(ヨハネ4:13) それが「あなたと神様のコネクション」です。
実感が持てませんか? でも、あなたが神様に向かって、魂が萎え果てるほどに叫び求めていないのなら、まだ諦めるのは早過ぎます。
メッセージのポイント
神様はいつでも必ず共にいてくださると本気で信じていますか?苦難の時、自分から神様の助けを諦め、他のものに慰めを見出そうとするなら、あなたは命より大切なもの -「神様との関係」を失うことになります。神様に向かって、魂が萎え果てるほどに叫び求めていないのなら、まだ諦めるのは早過ぎます。
話し合いのために
- 主に向かって必死の思いで叫んだ時のことをシェアしてください
- あなたが最も恐れていることは?それに対して神様はどのようにしてくださると思いますか?
子供たちのために
エジプトでイスラエルの民が奴隷として苦しい生活を送っていたこと、彼らの叫びを神様が聞いてモーセを用いて彼らを救い出したことを紹介してください。そして、神様が必ず応えてくださる事、そのことを信じて叫び求め続けるべきことを伝えてください。嬉しい時も、悲しい時も、苦しい時も、イエス様に呼びかけること、心に語りかけてくださるその声を聞こうとすることを励ましてください。