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平和と喜びの探し⽅
(讃美歌「牧⼈ひつじを」より)
待降節第三日曜日 (ルカによる福音書 2:8-21)
池田真理
クリスマス3週目を迎えました。来週はこの教会でもみんなでお昼を持ち寄ってお祝いをすることになっています。クリスマスは確かにイエス様の誕生を祝う、楽しい時です。でも、クリスマスの喜びというのは本来、喜びのないところにやってきた喜びです。ただ家族や友達が集まって楽しいひと時を過ごすためのイベントではありません。クリスマスの喜びは、悲しみや苦しみを抱えている人たちのためにこそあります。皆さんの中で生きる喜びを失いつつある人や、苦しみを抱えたままここにいる人は、今日のクリスマスの物語をよく聞いてください。どんな状況でも消えることのない平和と喜びは、どうやって探せばいいのかということが、今日の物語から分かります。ルカによる福音書2:8-21を読みます。
8 さて、その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が現れ、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。10 天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」13 すると、突然、天の大軍が現れ、この天使と共に神を賛美して言った。14 「いと高き所には栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝ている乳飲み子を探し当てた。17 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使から告げられたことを人々に知らせた。18 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19 しかし、マリアはこれらのことをすべて心に留めて、思い巡らしていた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の告げたとおりだったので、神を崇め、賛美しながら帰って行った。21 八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
1. 闇を知っている
この場面は、羊飼いたちに天使が喜びの知らせをもたらすところから始まっています。王様や宗教的指導者などの身分の高い人のところにではなく、羊飼いたちのところに天使が現れたのはなぜだったのでしょうか?それは、羊飼いが政治的権力者や宗教指導者たちのような特権階級ではなかったからです。当時のユダヤ人社会は外国の支配のもとにあり、ごく一部の特権階級をのぞいて、多くの人々は貧しい生活をしていました。羊飼いたちは、他の多くの農民や漁師や手工業者たちと同じように、家族を養い、税を納めるために懸命に働く貧しい人たちでした。社会の不条理や権力者たちの不正義に、最も苦しんできた人たちとも言えます。彼らは社会の闇を知っていて、生きることの厳しさを知っていました。そのことを象徴するように、羊飼いたちは夜の真っ暗な野原で寝ないで羊の番をしていました。そこに天使が現れたというのは、偶然ではなく、神様が彼らを選んで彼らに良い知らせを伝えたいと願われたからです。
このことは、今自分が闇の中にいると感じている人たちにも当てはまります。生きることの辛さ、将来が見えない不安、自分にはどうにもならない悩みで、私たちの心は暗くなります。神様なんていないんじゃないか、いても私には興味がないんじゃないかと、絶望しそうになります。でも、神様はそんな私たちだからこそ、良い知らせを伝えたいと思われます。自分にはどうしようもないと思うような闇を抱えている人のために、クリスマスの良い知らせはあります。
2. 天使に教えてもらう
それは誰にも自分の力で手に入れることはできません。羊飼いたちのもとに天使が送られたように、私たちも天使に教えてもらうことが必要です。でも、私たちの場合は天使ではなく、神様の霊に教えていただくことができます。神様の霊、聖霊様によって初めて、私たちは自分ではどうにもならない絶望にも希望があるのだと思うことができます。それは、羊飼いたちが天使の姿を見てその声を聞いたように、目で見て耳で聞こえる具体的な現象ではないかもしれません。でも、私たち一人ひとりに分かるように、神様はそれぞれの心に語りかけられます。聖霊様は私たちがその声を聞けるように私たちに働きかけてくださいます。そして私たちは、自分の力ではどうしようもなかった恐れや悲しみを、その声を聞くことで手放すことができます。聖霊様助けてくださいと呼ぶこともできなくても、苦しい、もうどうしようもありません、と言うだけでも聖霊様は来てくださいます。この後のワーシップの時や家でひとりで悩む時に、どうぞ聖霊様に期待してください。
それでは、クリスマスの良い知らせ、クリスマスの平和と喜びとは何なのか、その中身を考えていきたいと思います。
3. 神様のしるしを知る
a. 歴史上に実在した人物
10 天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。
天使が伝えたのは、今日救い主が生まれたということでした。それはすでに起こった出来事です。クリスマスの喜びはまずここにあります。私たちを救う方がもうすでに生まれた、その方はもうこの世界におられるということです。イエス・キリストは2000年前に歴史上に実在したひとりの人物です。ダビデの町と呼ばれたベツレヘムという町、今もパレスチナに存在する町で生まれた人です。その人が実はこの世界を造られた神様ご自身だったということが、教会と聖書が伝えてきたことです。それが、クリスマスの喜びの始まりです。イエスは過去の人物ではありません。イエスはこの世界を作られた神様ご自身であり、時代を超えて、昔も今も私たちを救いたいと願われている方です。イエス様が2000年前に生まれるまでは、神様は限られた人たちに声で語りかけることはあっても、決して人間の目には直接見ることのできない、手で触れることはもちろんできない存在でした。でも、イエス様がこの世界に来られたとき、神様は人間の体を持ち、人間と同じように食べ、笑い、悲しみ、人々と触れ合いました。私たちは、このイエス様の生涯を通して、神様がどんな方であるかを知ることができるようにされています。
b. 家畜小屋で生まれ、十字架で死なれた
天使はこう続けました。12節です。
12 あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」
神様が人間となってこの世界に来られるという、すごい出来事のはずなのに、イエス様の誕生の仕方は非常に質素でした。イエス様の両親は旅先で泊まるところもなく、マリアは家畜小屋でイエス様を生みました。イエス様が生まれて最初に寝かされたのは、家畜のエサを入れる飼い葉桶でした。天使は、「これがあなたがたへのしるしである」と言いました。神様は、家畜小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされることを選ぶ方だということです。どこかの宮殿で多くの召使いに囲まれて立派なベビーベッドに寝かされることを望む方ではないのです。それは、イエス様の生涯を通して一貫していた姿勢です。自分を低くし、他人に仕えられるのではなく、自分が他人に仕える姿勢です。そして、最後は十字架で自分の命を私たちのためにささげて亡くなりました。多くの人に罪人と侮辱され、仲間には裏切られて、十字架刑という残酷な方法で苦しんで死ななければいけませんでした。神様ご自身が神様に見捨てられるという究極の絶望を味わいました。なぜ、イエス様はそんな目に遭わなければいけなかったのでしょうか。それは、そうでなければ、神様が私たちの絶望と苦しみを知っておられることを証明できないからです。また、イエス様が三日後によみがえられたことによって、神様は私たちの絶望と苦しみを知っているというだけでなく、そこから立ち上がってほしいと思われているということも証明されました。そのすべてを、神様ご自身がご自分の命を捨てて証明されました。それほど、私たちのそばにいて、苦しみを共にし、共に生きることを望まれるからです。イエス様は、私たちが先の見えない暗闇の中にいても、死の恐怖を前にしても、そこで私たちと共にいます。そして、希望を与えたいと願われています。イエス様は、そういう神様の愛を証明するために、確かにこの世界に来られました。これが私たちへの神様のしるしです。
4. 無力さと弱さの中にイエス様を発見する
天使の知らせを受けた羊飼いたちは、イエス様を探しにベツレヘムに向かいました。彼らはどうやってイエス様を探し当てたでしょうか?天使は正確な場所を教えませんでしたし、両親の名前を教えたわけでもありません。天使が教えたのは、イエス様が今日生まれて、飼い葉桶に寝かされているということだけです。それだけでしたが、羊飼いたちはイエス様を探し当てることができました。
私たちがイエス様は一体どこにいるのか、生きる希望や喜びはどこにあるのか、それぞれの暗闇の中で迷う時も同じことです。イエス様は飼い葉桶に来られた方です。生まれたばかりの赤ちゃんのように、自分の力では何もできない無力で弱い者の中にいる方です。もし私たちが自分の良い部分や強いと思われる部分ばかりを見ていたら、イエス様には会えません。イエス様は、私たちのどうしようもない弱さや痛みの中にいます。そこでイエス様に出会えたら、たとえ目の前の状況が変わらなくても、私たちはきっと大丈夫なのだと思えます。もう自分の力で乗り越える必要はないし、ひとりで孤独に戦っているわけではないのだと分かります。そして、神様は私たちの弱さも小ささも含めてすべてを知っておられ、その上で共にいてくださるのだと分かります。だから、パウロはこう言いました。
(2コリント12:9-10)ところが主は、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中で完全に現れるのだ」と言われました。だから、キリストの力が私に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、私は、弱さ、侮辱、困窮、迫害、行き詰まり中にあっても、キリストのために喜んでいます。なぜなら、私は、弱いときにこそ強いからです。
闇の中に生きていること、その辛さを知っていることは、神様がそこであなたに出会いたいと願われている証拠でもあります。イエス様が飼い葉桶に来られたように、私たちの弱い心にイエス様は来てくださいます。聖霊様に助けられて、どうぞ今日神様はあなたと共におられることを知ってください。
メッセージのポイント
神様が私たちに与えたいと願っておられる平和と喜びは、暗い闇の中で、さびしく貧しい羊飼いたちに最初に伝えられました。その平和と喜びは、飼い葉桶に寝ている無力で弱いひとりの男の子の中にあり、その子がやがて十字架で殺されることによって完成しました。神様の平和と喜びは、闇に生きている人のためであり、無力で弱い者にこそ与えられ、体の死を超えて永遠に続きます
話し合いのために
- あなたの心には今、平和と喜びがありますか?
- この世界に(周りの人たちに)平和と喜びをもたらすために、あなたには何ができるでしょうか?
子供たちのために
クリスマスはただ楽しいイベントではなく、苦しんでいる人や悲しんでいる人たちのためのものだということを話してください。みんなの中に悲しい思いを持っている人はいるでしょうか?友達やきょうだいが悲しんでいたら、みんなはどうやって励ましますか?イエス様ならどうすると思いますか?話してみてください。