来て、主キリストをあがめよう

 

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来て、主キリストをあがめよう

待降節第四日曜日・クリスマス礼拝 讃美歌「神の御子は今宵しも」より)   
(ルカによる福音書 2:8-18, ヨハネによる福音書1:1-14) 

永原アンディ

 

 取り上げたテキストは先週と重なりますが、今日注目したいのは、今歌った「神の御子は今宵しも」のモチーフとなった箇所15節です。

天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。


A. 神様からの呼びかけ

1. ヒントを与える神様(ルカによる福音書2:10-12)

 キリストの誕生を最初に知らされた、羊飼いたちは町外れの野原にいたのです。そして彼らは、イエスの両親であるヨセフ、マリアを除いて、最初にイエスを見た人々でした。しかし天使は、羊飼いたちをイエスのところに連れて行き「これが救い主です」と示したのではありませんでした。ヒントを与え、行動を促しました。その天使の言葉を聞きましょう。10-12節です。

10 天使は言った。「恐れるな。私は、すべての民に与えられる大きな喜びを告げる。11 今日ダビデの町に、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。12 あなたがたは、産着にくるまって飼い葉桶に寝ている乳飲み子を見つける。これがあなたがたへのしるしである。」

 最初、天使は羊飼い達に、生まれたのはどのような方かということを説明しました。それはイスラエルの民が待ち望んでいた救い主=メシアですが、実はイスラエルだけではなく“全ての民”を救う者であるということも告げられました。残念ながら当時の人々には全人類のメシアという概念は想像を超えていたので誰も、天使の告げたイエス像を正確に受け取ることはできませんでした。それは使徒パウロ達の働きによってようやく正しく受け取られるようになるのです。そのあと天使は、羊飼い達がイエスを見つけ出すために必要なヒントを与えます。それが12節です。

 私たちがイエスに出会うためにも、神様は天使を通してではなかったかもしれませんが、ヒントをくれたのです。そしてそのヒントを手掛かりにイエスを見出し、イエスに従う者となりました。それは、それまでの生き方への疑問や、病気、イエスを信じる人との出会いというヒントです。

 神様は、全ての人の心に呼びかけてくださいます。しかし、全ての人が羊飼いたちのように、呼びかけに応えてイエスを探す心の旅を始めるわけではないのです

 

2. 呼びかけに応える人は多くはない(ヨハネによる福音書1:1-14)

 ヨハネによる福音書は、イエスの誕生の意味を全く違った角度から説明してくれています。読んでみましょう

(ヨハネによる福音書1:1-14)
1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2 この言は、初めに神と共にあった。
3 万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。
4 言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。
5 光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。(中略)

9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。
12 しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。
13 この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。
14 言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

  聖書の他の箇所では「神様が、ご自身の子をイエスとして世に派遣した」という表現もなされますが、ヨハネはイエスが神様ご自身であることを彼の福音書の最初にはっきりと書いているのです。しかし、2節ではすぐに「神と共にあった」と付け加えています。ここには、まだ聖霊について触れられてはいませんが、「三位一体」という神様のあり方の根拠の一つとなっている言葉です。この中で、今日注目したいのは9-11節です。もう一度読んでみます。

9 まことの光があった。その光は世に来て、すべての人を照らすのである。
10 言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。
11 言は自分のところへ来たが、民は言を受け入れなかった。

 神様は、イエスとしてご自分の作った世界に登場したのに、多くの人はそうとは気付かず、イエスを主、神として受け入れた人は多くはなかったということです。言、つまり私たちの理解できる表現で、光、つまり見ることのできる姿で約2000年にこの世界に、ご自身を表された神様・イエス・キリストは、けれどもほとんどの人に認められず、受け入れられませんでした。

 キリスト教国ではない日本でも、イエス・キリストの名前を知らない人はほとんどいません。そして聖書は、信仰を持たない多くの人にも読まれています。

 先日「愛」という題名に惹かれ、著者のことを知らずに一冊の本を図書館で借りて読みました。著者は若い教育学者・哲学者です。彼はキリスト教の「愛」を他の宗教、哲学とともに観念的(ideological)な「愛」だとして全く認めません。そこで現実世界の中で愛を見つけようと、性愛、恋愛、愛着、友情などを検証していくのですが、結局それらのうちに“真の愛”は見出せず、自分の体験に基づいて「愛は相手をありのままに受け入れる。愛は、その対象の存在によって自分の存在意味が満たされる。愛は無条件。愛は自己犠牲的献身」という結論にたどり着くのです。

 信じる者にとっては、これこそがイエスの愛なのです。しかし現実世界しか認めない人にとって、それは実現不可能な絵空事でしかありません。彼は、福音書のイエスの言葉さえ引用しながら、イエスを見つけることができません。それは、聖書を読みながらイエスを探そうとしなかったからです。この著者の態度は特別なものではありません。世界中の多くの人がイエスの名は知っていても、イエスに従ってはいないのです。クリスチャンと自認している人でも例外ではありません。

 


B. 行動を生む信仰

1. 呼びかけに応えた羊飼い

「さあ、ベツレヘムへ行って、主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」

 こう言ってイエスを見つけにベツレヘムに向かった羊飼いたちですが、羊は大丈夫だったのかと心配になった人はいませんか?彼らは、その必要があって夜通し羊の群れの番をしていたはずです。生まれて初めての驚くべき体験をしたので、羊のことはどうでも良くなってしまったのでしょうか?聖書には何の説明もありませんから断言はできませんが、そうだったかもしれないし、実は羊の群れとそこに残った人がいたのかもしれません。いずれにしても、イエスを発見した羊飼いたちは、日常のあり方を離れて“イエスを見つける”という行動に出たのです。神様が天使を通して彼らに行動を促したと信じたからです。

 羊飼いたちの知識は、羊に関すること以外は、現代の平均的な日本人が持つ知識に比べれば遥かに少なかったはずです。もしかしたら、私たちにはいろいろな知識がありすぎて、神様の呼びかけに応えられないのかもしれません。しかし本当にイエスと共に生きたいと願うなら、本当にイエスに出会わなければなりません。そのためには、一度自分にとって大切だと思われる諸々のことから離れてイエスを求める以外に方法はないのです。

 

2. 信じて神の子となる

 もう一度ヨハネによる福音書の1:12-14を読みましょう。

しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には、神の子となる権能を与えた。この人々は、血によらず、肉の欲によらず、人の欲にもよらず、神によって生まれたのである。言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 聖書の中で、イエスの誕生から、十字架、復活までを伝える4つの書は福音書と呼ばれます。「福音」とは良い知らせという意味です。この箇所は、その「良い知らせ」の中心と言えるメッセージです。イエスを受け入れた人、イエスの名を信じる人に、神の子となる「権能」を与えるという表現に注意したいと思います。ここでいう神の子とは、地上で神様の意思を行う人、愛と正義を求めて生きる人のことです。しかし、イエスを信じたら、自然とそうなれるわけではなく、そうなる権能=権利を与えられると言っているのです。
 
 信じて神の子となるとは、一度「イエスを信じてクリスチャンになりました、以上!」ということではないということです。むしろ、そこから新しい生き方がスタートするということなのです。ここには、「私はクリスチャン」と考える人が多くいると思います。その人にとっても「信じて神の子となる」ということがもうすでに起こった過去のことではないのです。私たちは皆レースの最中にいるのであって、ゴールには達してはいません。スタートの合図を聞いたのに、スタートラインから一歩も動かずにいるということだってあるのです。確かにあなたはイエスを見つけました。しかしイエスはもっと先にあなたを連れてゆきたいので、先に進まれます。「ぼーと生きてんじゃねーよ」とチコちゃんは言いますが、その通りなのです。ぼーとクリスチャンをやってたらイエスを見失ってしまいます。だから、生まれたイエスを探しに行った羊飼いたちの態度が、イエスを信じた人にも必要なのです。イエスの背中が見えていてもいなくても、イエスを追いかけ続けましょう。

 


メッセージのポイント

天使は、羊飼いたちをイエスのところに連れて行き「これが救い主です」と示したのではありません。ヒントを与え、行動を促しました。神様は人々に、聖書とすでに信じている人の歩みでイエスを紹介しますが、それを受け入れるかどうかは、その人の決心に委ねられています。

話し合いのために
  1. イエスは誰のために生まれましたか?
  2. なぜイエスは「言」と表現されるのですか?
子供たちのために

イエスを探して、ベツレヘム の街中に入ってきた羊飼い達の思いを想像させてください。そして自分には、誰がイエスのことを教えてくれたのか?どうしたらもっとイエスのことをよく知ることができるか、話し合ってみましょう。