イエス様が最も憤ること

 

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イエス様が最も憤ること

(マルコ 10:13-16) 

池田真理

 

 今日は、イエス様が珍しく憤られたという場面を読んでいきます。皆さんはイエス様に対していつもどのようなイメージを持っていらっしゃるでしょうか?優しいか怖いかで言ったら、イエス様は間違いなく優しい方です。でも、ただ優しいだけではありません。本当の優しさ、本当の愛には、厳しさが伴います。愛に反するもの、誰かを傷つけることに関しては決して容赦しない厳しさです。
 短い箇所なので、早速全体を読んでいきます。マルコによる福音書10:13-16です。

13 イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た。弟子たちはこの人々を叱った。14 イエスはこれを見て憤り、弟子たちに言われた。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。15 よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」16 そして、子どもたちを抱き寄せ、手を置いて祝福された。 

 細かい内容に入る前に、今日まず心に留めていただきたいのは、14節の「イエスはこれを見て憤り」の「憤る」という言葉です。この言葉は、原語で非常に激しい怒りを表す形容詞で、イエス様を主語にして使われるのは聖書全体でここだけです。今日の箇所はマタイとルカに並行箇所がありますが、そのどちらにも「イエスは憤った」という節はありません。マタイとルカは、イエス様がそんな激しい怒りを持つのはおかしいと思って、省略してしまったのかもしれません。でもマルコは、イエス様は激しく怒ったのだと、そのまま記録しました。私たちは、マルコがそのように記録したイエス様の怒りを、よく心に留めるべきです。他にこの形容詞が使われていないという意味では、今日の場面は聖書の中でイエス様の最も激しい怒りを記録していると言ってもいいかもしれません。

 それでは、イエス様は何に対してそんなに憤られたのでしょうか?それは、子どもたちを排除しようとした弟子たちの態度に対してです。それは、子どもたちだけではなく、子どもたちに代表されるような社会的に弱い立場の人たちを排除してはいけないという間接的な広い意味につながりますが、子どもたちを排除してはいけないという直接的な狭い意味も大切です。まずそのことを考えていきましょう。

 

A. 弱い者を排除すること

1. 子どもたち 

 今日の箇所の始まりは唐突です。「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た」とありますが、時間や場所の設定がありません。詳しい設定は(クリスマス前に読んだ)直前の箇所にありました。そして、来週読む箇所の後にまた場所の記録があります。これは、この三つの箇所が一続きのイエス様の教えだからです。直前の箇所は結婚と離婚の話でした。そして来週の箇所は財産に関するお話です。配偶者のこと、子どものこと、財産のこと、この三つは、昔も今も、多くの人にとって一番身近で大切なトピックです。この世界で生きていく上で、私たちが実際に考えなければいけない問題です。イエス様は、私たちがそれらの具体的な問題に対してどのような態度を取るべきなのか、教えられたということです。

 だから、この箇所を読む上で、イエス様が特に子どもたちに対する態度について教えたという面を見過ごすわけにはいきません。私たちは、配偶者に対する態度を間違えるように、財産の扱い方を間違えるように、子どもたちに対する態度を間違えることがあります。

 子どもたちの社会的地位という意味では、現代は昔と比べればずいぶん改善されました。少なくとも、国際的に子どもの権利条約があり、一般的にも子どもを厳しくしつけるよりも優しくする方が美徳とされています。子どもは黙って大人の言うことを聞くものという考え方は、少なくとも今の日本の教育現場では時代遅れとされていると思います。それでも、考え方の個人差はありますし、世界を見れば貧しい国では教育を受けられない子どもがたくさんいますし、兵士や労働力としてしか見られない国もまだまだたくさんあります。そして、そういう状態がイエス様の時代のユダヤ人社会でも普通でした。子どもは大人になって初めて社会的価値ができるのであり、子どもは愚かなのだからただ大人の言うことを聞いていればいいと思われていました。イエス様は、当時のそういう一般的な社会常識を覆して、子どもたちを大切にしたと言えます。

 でも、子どもたちの社会的地位の改善よりも今日もっと私たちにとって重要なのは、子どもたちとイエス様の関係のことです。イエス様は、「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない」と言われました。子どもたちは、親を通さなくても、イエス様と一人ひとり直接関係を持つことができます。もちろん、イエス様が何をした方で、どういうふうに私たちを愛してくださっているのかを知るためには、子どもたちは親や他の大人から教えてもらう必要があります。また、大人がイエス様を信じている姿を見なければ、子どもはイエス様は本当にいるのだと思えないでしょう。でも、子どもたち一人ひとりが、自分はどうするのか、イエス様と人生を歩んでいくのか、それを決めるのは子どもたち自身です。その信仰のあり方、人生の歩み方については、どんな大人も、子どもとイエス様の間を邪魔するわけにはいきません。子どもたちのことを、イエス様に信頼して、委ねましょう。

 

2. 社会的に弱い立場の人たち

 それでは、今日の箇所をもう少し広い意味でとらえていきたいと思います。もうお話した通り、子どもたちは当時の社会において非常に低い地位にありました。女性と子どもは数のうちに入らず、女性が夫や父親に属したように、子どもも父親に属するものでした。彼らは社会の中で重要ではない人たちであり、忘れられていい存在でした。さらに今日の箇所に注意すると、ここで人々が連れてきた子どもたちの中には、まだ自分で歩くこともできない赤ちゃんもいた可能性もあります。ルカによる福音書の並行箇所にそう書いてあるのと、「子どもたち」という言葉が0歳から12歳の子どもたちを指すことから、そう考えられます。想像してみてください。そんな小さい子どもたちが、一言も発さずにそこにやってくるでしょうか?そんなわけはありません。泣いている赤ちゃんもいれば、ふざけあって走り回っている小さい子たちもいれば、その子たちを叱るお姉さんお兄さんもいたかもしれません。真剣にイエス様の教えを聞きに集まっている大人たちの中に、そんな子たちがやってきたら、みんな迷惑そうな顔をしたかもしれません。弟子たちは、「うるさい!そんな子どもらを連れてくるんじゃない!先生にも皆さんにも迷惑だからとっとと帰れ!」と言ったでしょう。彼らにすれば、それが当然の反応であり、子どもたちや子どもたちを連れてきた人たちの方が非常識だったのです。でも、イエス様の反応は、読んだ通りです。

 非常識で、役に立たなくて、イエス様の迷惑になると思われるような人たちは、私たちの周りにいるでしょうか?私たちはその人たちには自分と同じ価値はないと思っていて、存在を忘れてしまっていいと思っているかもしれません。私たちにとって重要ではない人たち、関わる必要はないと思われる人たち。私たちは、自分の間違った価値観で他の人たちのことを勝手に評価し、イエス様も自分と同じように考えるだろうと思い込んでいることがあります。そして、その人たちを排除することを、イエス様も望んでいると考えてしまうことすらあります。もしその間違いに気が付いていないなら、イエス様は弟子たちに対して憤られたように、私たちにも憤られます。人間の歪んだ常識や価値観によって社会の中で弱い立場に置かれてしまっている人たちのことを、イエス様は何よりも大切にされます。教会の中でも同じです。教会も小さな人間の社会なので、間違いが起こります。でも、教会の中の間違いは教会の外で起こる間違いよりももっと深刻です。神様の愛を歪めて伝えてしまうからです。イエス様は、それこそ最も激しく憤られ、悲しまれるでしょう。

 


 それでは、私たちはどうしたら自分の持っている価値観や常識の間違いに気が付いて、本当にイエス様のように他の人たちを受け入れ愛することができるのでしょうか?その答えが、15節のイエス様の言葉にあります。もう一度読みます。

よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 

 

B. それは私たちが自分が弱いことを分かっていないから

1. 「子どものように」なるとは?

 自分の間違いを捨てて、本当に他の人のことを愛せるようになるにはどうしたらよいかの答えは、「子どものようになること」です。それはまさしく、弟子たちが排除しようとした子どもたちのことです。子どものようにというよりも、赤ちゃんのようにと言った方がふさわしいかもしれません。自分では何もできない、弱くて無力な存在であることを、自分自身が認めるということです。赤ちゃんはひとりでは何もできませんし、親にお世話してもらうのは当然です。そうでなければ生きていけません。私たちも、神様の前には自分がそういう存在であることを知らなければいけません。神様の前に、私たちはみんな何もできない子どもで、神様に助けてもらわなければ生きていけません。そのことを、私たちは本気で心の底から認めているでしょうか?神様が私たちを助けてくださるのに、一番の壁は、私たちが自分は大人だと勘違いしていることです。自分で自分の問題をどうにかできるし、しなければいけないし、神様とは対等に話し合っていけると思い込んでしまいます。言葉では神様に助けを求めていたとしても、本当に心の底から自分にはどうしようもないとは認めていないことがよくあります。まだ自分にはできるはずだと思っていたり、この問題はどうしようもなくても、他のことではできているから、自分はまだいけると思っていたりします。他の何かでごまかしたり、自分をだまさないで、神様の前にどうしようもない自分を出してください。謙遜なふりでも、自己卑下をするのでもなく、赤ちゃんのように、神様に助けてもらうことを恥じずに、自分の無力を認めましょう。

 また、子どものようになると言うと、よく子どものように純真に、素直に、無垢になることだと勘違いしてしまうことがありますが、そうではありません。私たちは誰も、子供も含めて、純真でも素直でも無垢でもありませんし、一生かかってもそうはなれません。私たちは歪んでいて、混乱していて、悪にまみれています。それが私たちの現実です。そんな自分を変えられないことを認めることが、自分の無力さを認めるということです。そこで初めて、私たちは神様に心から助けを求め、そんな自分を愛する神様の愛に気づくことができます。自分のどうしようもない間違いとそれに対する無力さを知らなければ、神様の愛の本当の大きさを知ることはできないのです。だから、イエス様は15節でこう言われました。もう一度読みます。

 

2. 神の国に入るとは?

よく言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」 

 神様の国に入るとは、神様と共に永遠に生きるということです。神様と永遠に愛し合う関係を持つとも言えます。神様の愛がどれほど大きいものか、自分がどれほど愛されているかを知らなければ、私たちは神様を知ったことにはなりません。また、自分の力では何もできないことを知らなければ、心から神様を求めることはできません。だから、子どものように自分の無力さを認めなければ、私たちは神様にどれほど愛されているかも分かりませんし、本当に神様と愛し合うことはできないのです。そして、そうでなければ、他の人たちのことを愛することもできません。どうしようもない自分を愛してくださっている神様のことを知って初めて、私たちは自分の価値観の間違いに気がつくことができます。神様は自分に対してと同じように、他の人たちに対して大きな愛を注いでおられることを認められるようになります。反対に言えば、誰かを排除しようとするのは、自分自身の無力さを認められていない証拠です。他の人を神様の愛から排除することは、自分自身の中に神様の愛を受け取っていない部分があるからです。そして、それによって自分を神様の愛から排除することになります。

 自分がどうしようもない混乱の中にあり、悪にまみれていることを、もう一度認めましょう。そして、自分は自分の力でそこから抜け出せないこと、イエス様しか助けられないことを知りましょう。そして、イエス様が子どもたちにしたように、もう一度イエス様に手を置いていただいて、祝福していただきましょう。

 


メッセージのポイント

イエス様が最も憤られるのは、私たちが自分の間違った価値観によって特定の人たちを排除することです。しかも、それをイエス様も望むと思い込んでやってしまいます。私たちは、自分自身がまず神様の前には子どもであり、無力で弱い者であることを心から認める必要があります。自分ではどうしようもない弱さを持っていると受け入れられなければ、私たちは本当にイエス様に愛されていることも分かりません。そして、本当にイエス様を愛することも、人を愛することもできません。

話し合いのために
  1. 弟子たちはなぜ子どもたちを排除しようとしたのでしょうか?それは私たちとどう関係がありますか?
  2. 「子どものように神の国を受け入れる」とは?
子供たちのために

ぜひこの聖書の箇所を一緒に読んでみてください。並行箇所のルカ18:15-17には、人々は乳飲み子までも連れてきた、とあります。イエス様は、私たちに何かができるからとか、何かをより多く持っているからとか、そういう理由で私たちを愛してくださるのではありません。その正反対に、自分には何もない、何もできない、でもあなたのことは大好きで必要です、と、赤ちゃんが親を必要とするように、私たちもイエス様を求めることが大切です。