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全てを失くさなければ手に入れられないもの
(マルコ 10:17-31)
池田真理
今日のタイトルは、あえて挑戦的なタイトルにしました。イエス様は私たちに全てを捨てて従っていくことを求めているというのが、今日の内容です。その全てというのが何を指すのかは、一人ひとりが一生を通して自分自身に問いかけなければいけないことです。だから、私たちの挑戦は今もこれからも続くという意味で、このタイトルにしました。ただ、今日の箇所からはっきりしていることは、私たちが捨てなければいけないものには少なくとも三つあるということです。一つ目は、自分は自分の力で良い人生を歩むことができるという間違った自信です。二つ目は、単純ですが、私たちの財産です。三つ目は、私たちの愛する人たちでさえ、時に私たちは捨てなければいけないということです。まずは一つ目から考えていきます。少しずつ読んでいきます。まず17-20節です。
A. 自分自身への自信
1. 良い行いで神様に認められようとする間違い (17-20)
17 イエスが道に出て行かれると、ある人が走り寄り、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、私を『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という戒めをあなたは知っているはずだ。」20 するとその人は、「先生、そういうことはみな、少年の頃から守ってきました」と言った。
これだけ聞くと、この人はとても傲慢だと思えます。自分は子どもの時から良い行いを心がけてきて、大きな間違いを犯したことはありませんと断言しています。でも、それだけでは永遠の命をもらえるのか不安だったので、イエス様にさらにどんな良いことをすればいいのか聞きにきました。イエス様のことを「善い先生」と呼んだのは、この人がイエス様のことを「善い行い」が何かを教えてくれる道徳の先生として見ていたからです。イエス様はこの人のその間違いを見抜いて、「神しか善い者はいない」と注意しました。この人は神様に認めてもらうためならどんな善いことでもしようと思っていたかもしれませんが、そもそも人間が神様に認めてもらうためにできることは何もないということを分かっていませんでした。
私たちはみんな、この人と同じように考えるくせを持っています。行いが良ければ、神様に認めてもらえるという間違った考え方です。反対に言えば、神様に認めてもらうためには、倫理的に立派な生き方をしていればいいという考え方です。その考え方の根底には、自分は自分の力で立派な生き方ができるという過信があります。そして、その立派な生き方とは、他人から見てほめられるような生き方を想定していて、他人との比較が全てです。神様が何を喜ばれ、何を悲しまれるかを真剣に考えるよりも、他人からどう評価されるかの方が大事になってしまいます。そして、他人の評価が神様からの評価のように勘違いしていきます。
これが虚しいことだと、私たちはもう知っているはずです。でも、私たちは誰でも、いつの間にか、イエス様を忘れて、世間的に立派と思われることや他人から認められることばかりを追求していることがあります。そんな私たちに、イエス様はこう言われます。21-22節に進みます。
2. 神様が求めるのは私たちが全てを捨てて神様を愛すること (21-22)
21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に与えなさい。そうすれば、天に宝を積むことになる。それから、私に従いなさい。」22 彼はこの言葉に顔を曇らせ、悩みつつ立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
イエス様は「あなたに欠けているものが一つある」と言われました。それは、自分の持っているもの全てを捨ててもイエス様に従っていきたいと思える心です。自分の財産よりも、自分自身よりも、イエス様のことを愛する心とも言えます。自分の能力も財産も、全てはイエス様の前には価値を失い、意味がなくなることを、この人は分かっていませんでした。それほどの価値がイエス様にあるとは思っていなかったということです。なぜなら、結局は自分が一番大切だったからです。
21節には、「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた Jesus looked at him and loved him」とあります。英語では「イエスは彼を見て、彼を愛した」と訳されていますが、その方が正確な訳です。ここで使われている「愛する」という動詞は、聖書の中で使われる「愛する」という動詞の中でも、一番深い愛を指す動詞です。見返りを求めず、自分を犠牲にする神様の一方的な愛を指す言葉です。イエス様は、この人が結局は自分が一番大事で神様のことを愛してはいないと気づきながら、この人を愛し、語りかけ、「私に従いなさい」と言われたということです。
神様の愛は、私たちが何をしたか、何を持っているかということで左右される愛ではありません。何もない、間違いだらけの私たちを赦して、一方的に注がれる愛です。私たちが、自分には何があるか、何ができたかに夢中になっている限り、この神様の愛を受け取ることはできません。先週の話にもつながりますが、小さい子どものように、赤ちゃんのように、自分には何もなく何もできないと知っていることだけが、私たちに必要なことです。
全てを捨てて私に従ってきなさいというイエス様の呼びかけは、この人にとっても、私たちにとっても、自分の間違いに気づくきっかけになります。イエス様より大切になっているものがないか、自分を調べることができます。また、これがなくなってしまったらもう生きていけないと思うような何かが、イエス様以外にあるなら、それもよく考えてみる必要があります。それは、イエス様を愛して礼拝する生活の中で、一人ひとりに聖霊様が教えてくださることでもあります。
それでは、次にもっと具体的なテーマに入っていきます。23-25節を読みます。
B. 自分の財産
1. 金持ちの罪 (23-25)
先週、世界の貧富の格差が衝撃的な数値で報告されました。国際NGOのOxfamが公表した2019年度版の統計データです。それによると、世界の億万長者の上位26人が持っている資産は、世界の貧困層38億人の資産と同じだそうです。38億人と言えば、世界の人口の半分です。また、大富豪たちの上位1%が、あと0.5%だけ税金を多く払えば、教育を受けられないでいる子どもたち3億人近く全てに教育を与えることができるそうです。なんて不平等な世界なんだろうと思います。でも、私たちはそんな億万長者ではありませんが、他人事と考えることはできません。日本に生きているというだけで、恵まれた環境にいると言えます。私たちの生活は、衣食住全てにおいて、他の貧しい国の安い労働力によって成り立っています。世界の経済の仕組み自体が既に不平等で、それは人間の罪の歴史が作り出してきたものです。世界中で、富んでいる人の生活は貧しい人の犠牲の上に成り立っています。だから、金持ちの罪は深いのです。
また、裕福であることは成功の証のように思われています。資産が多ければ多いほど、それを手放すのは難しくなります。死ぬ時にはその何一つ持っていくことはできないのに、手に入れた富で安心しようとしてしまいます。
だから、イエス様は、金持ちが神の国に入るのはとても難しいと言われました。続きに進みます。26-27節です。
2. 人の心を変えられるのは神様だけ (26-27)
26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われることができるのだろうか」と互いに言った。27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にはできないが、神にはできる。神には何でもできるからだ。」
この弟子たちの言葉は真理です。「それでは、誰が救われることができるのだろうか。Who then can be saved?」その通りで、本当は誰も救われることはできません。その中でも、富んでいる人より貧しい人の方が救いに近いとは言えますが、私たちはみんな神様の前には間違いだらけです。そして、人間の社会、歴史、世界の仕組み全てが、救いようのないほど、不正義に満ちています。人間の努力ではどうしようもない現実があります。
でも、イエス様はこの世界に来られた方です。そして、十字架で死なれました。それが、人の心を変えて、この世界を変えるために神様が選んだやり方です。私たち一人ひとりが、イエス様に罪を赦されて愛されていることを知って、生き方を変えていくことが、世界を変えていくことになります。それは、私たちの努力ではなく、神様が私たちにしてくださること、させてくださることです。私たちが、自分の全てを捨てても惜しくないほど、イエス様を愛せるように、神様が私たち一人ひとりを変えていってくださいます。自分の利益を追い求める虚しさに気がつかせてくださるのは神様です。イエス様の愛が私たちを内側から変えて、必要のないものを手離して、イエス様の愛をもっと求めるように導いてくれます。神様は、この世界の間違いを放置しているのではなく、私たち一人ひとりから始めています。
それでは、最後にもう一つ私たちが手離さなければいけないものをお話しします。それは、私たちの愛する人たちです。28-31節です。
C. 自分の愛する人たち
28 ペトロがイエスに、「このとおり、私たちは何もかも捨てて、あなたに従って参りました」と言いだした。29 イエスは言われた。「よく言っておく。私のため、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子ども、畑を捨てた者は誰でも、30 今この世で、迫害を受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。31 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
まずここで誤解してはいけないのは、イエス様は私たちが愛する人をもう愛してはいけない、愛する必要はないと言っているのではないということです。家族や友人は、神様が私たちに与えてくださっている大切な人たちです。その人たちが私たちの助けを必要としているのに、教会の活動を理由に放っておくとしたら、それは神様を都合よく利用しているだけです。
そうではなく、イエス様がここで言われているのは、どんなに親密で大切な人たちでも、イエス様の代わりにはならないということです。その人たちのことをイエス様よりも愛するなら、その人たちが私たちの偶像の神様になってしまいます。自分の大切な人に「私にとってあなたよりもイエス様の方が大事なんだ」と言うことは、時に勇気のいることかもしれません。相手がイエス様に対してよく思っていないのならなおさら、その人が大切な人であればあるほど、「それでも私はイエス様が一番大切なんだ」と言うことには痛みが伴います。それでも、私たちがイエス様を一貫して愛する態度が、その人たちにとっても助けになるはずです。
イエス様が私たちに与えたいと願っておられるのは、いつかなくなってしまう限りあるものではありません。人間には決して与えられない、お金ではもちろん買うことのできない、永遠に続くものです。それは神様とともに生きる希望であり、私たちの態度によって左右されない一方的な深い愛、そしてそこからくる平和です。イエス様は、私たちの人生の全てを捧げるに値します。「あなたの全てを捨てて、私に従ってきなさい」というイエス様の呼びかけを聞きましょう。
メッセージのポイント
イエス様は私たちに、全てを捨てて従ってくることを求めています。私たちは、自分自身よりも、財産よりも、愛する人たちよりも、イエス様を愛しているでしょうか?一人ひとりが自分とイエス様の関係の中で、一生を通して問い続ける必要があります。イエス様は私たちに、私たちが自分の力では手に入れることができない、人間には与えることのできない、お金では買うことのできないものを与えたいと願われています。永遠になくならない愛と希望と平和です。
話し合いのために
- どうしたらイエス様のために全てを捨てることができますか?
- イエス様のくださる永遠の命とはなんですか?
子供たちのために
イエス様は、お金持ちはお金持ちでなくならなければ神様の国には入れないと言いました。お金持ちとはどれくらいのお金を持っている人のことでしょうか?「お金持ちでなくなる」とは、どれくらいのお金を持っていていいことを指すのでしょうか?みんなは日本にいるというだけで、世界の多くの国の人よりもお金持ちです。じゃあみんなはこのままでは神様の国には入れないのでしょうか?その答えは、これから大人になっていく中で、世界で起こっているいろんなことを学んで考えていってください。でも、覚えていてほしいのは、神様がみんなに求めているのは、神様のことを怖がることではなくて、神様のことを喜んでいることです。