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2020年の過越(すぎこし)
(イザヤ書 53:4-12)
永原アンディ
皆さん、体調はお変わりありませんか?新コロナウイルスの感染はさらに深刻になっていますが、可能な方はできるだけ家にいるようにしてください。通勤されている方のために、神様の守りを祈りましょう。経済的な影響も出ています。家族のこと、自分のことも、思いつく全ての方のために祈りましょう。困ったこと、心配なこと、苦しいこと、悲しいこと、祈ってほしいことがあれば遠慮しないで伝え合いましょう。
この状況で、今がレント(受難節)であることも忘れられがちですが、今日はしゅろの日曜日、イエスが十字架にかけられた週の始まりです。東京都から外出自粛の要請が出て、facebookのfellowship roomで、イザヤ書の53章を読みましょうと皆さんに宿題を出しました。このテキストがイエスが世界に登場するずっと前にイザヤが残した預言なのに、イエスが今この危機を迎えている私たちにとって唯一の希望であることを正確に、詳しく教えてくれているからです。イエスはこの危機を私たちと共にいてくださり、私たちにもユダヤの民の原体験「過越(すぎこし)」を経験させてくださいます。
それはこの箇所が、イエスの十字架に向かう道、十字架の出来事、その出来事によって起こった変化を預言として伝えているからです。例年なら、福音書の受難週のテキストを取り上げてお話しするのですが、このテキストからも私たちは、自分にとっての十字架の意味を知ることができます。4節から読み始めます。
A. 十字架への道
1. 私たちの病を担うイエス (4)
彼が担ったのは私たちの病 彼が負ったのは私たちの痛みであった。 しかし、私たちは思っていた。 彼は病に冒され、神に打たれて 苦しめられたのだと。
前回、ウイルスの悪影響はエデン追放の時から始まっているとお話ししました。聖書では、早くも出エジプト記に疫病のことが書かれていて、民数記ではモーセの時代の疫病の犠牲者の数まで記されています。病は罪と深く関係していますが、個人の罪への神様の罰ではないことを忘れないでください。人類全体の罪の性質があたらしい病を発生させたり、また誰かの利己的な都合で犠牲者を増やすことになってしまいます。しかし病にせよ、事故にせよ、人は必ずこの地上を去る時を迎えます。神様は、その先のことは私に任せておきなさいと言われます。それよりも、今私たちが心に留めるべきことは、神様がこのような私たちであるにもかかわらず、見捨てるどころか、私たち以上の痛み、苦しみを受けることもいとわず、私たちと同じ弱い存在としてこの世界に来てくださったことです。イエスを実際に間近に見た人々にとって、受難週のイエスは救世主でもヒーローでもなく、弱々しい姿で十字架につけられてしまった負け犬のようだったのです。しかし真相はそうではありませんでした。イエスは私たちの痛み、苦しみの全てを引き受けて私たちを癒すためにこられたのです。それは永遠というスパンでなされることなので、私たちも永遠というスパンで生きることを求められています。生きている限り癒されることのない痛みはあります。しかし、それを覆う十分な慰めがイエスの内にあるのです。
2. 私たちの過ちを負うイエス (5)
しかしイエスが負ったのは私たちの肉体の痛み、心の苦しみだけではありませんでした。5節を読んでみましょう。
彼は私たちの背きのために刺し貫かれ 私たちの過ちのために打ち砕かれた。 彼が受けた懲らしめによって 私たちに平安が与えられ 彼が受けた打ち傷によって私たちはいやされた。
世界の悲惨な出来事の原因=罪=つまり、神様に対する背きもまた、イエスは背負って十字架にかかられたのです。自分の姿に似せて作った人間の不始末を、創造者である神が引き受けるために、一人の人イエスとして、たった一人で十字架に向かわれたのです。 私たちは生まれながらに神様に背いてゆく性質を持っており、過ちを犯すものです。それによって人生に苦しみ悩みは尽きません。けれども、イエスが来てそれらの全てを引き受けてくださったのだとわかった時、心に平安がとどまるのです。体の傷は残って消えなくても、魂には、その痕跡は無くなってしまうのです。
3. なぜ私たちは過ちを犯すのか (6)
次の6節に私たちの罪、過ちの本質がシンプルに表現されています。
私たちは皆、羊の群れのようにさまよい それぞれ自らの道に向かって行った。 その私たちすべての過ちを 主は彼に負わせられた。
神様が私たちの羊飼いです。そして人間は一人では生きられない人類という群れの中の一人です。牧者に連れられて進んでいる羊の群れを想像してみてください。その中の何匹かがあらぬ方向に逸れてゆきます。それらに引きずられて逸れてゆくもの、さらに全く別の方向に進んでゆくもの、もはや羊は散り散りバラバラで羊飼いは一人ぼっちになってしまっている。それが今の人類の姿です。イエスはシンプルに私たちの見失った方向を伝えくれました、イエスの言葉に従って生きる道です。
B. 十字架の意味 (7-10)
さてイザヤは十字架の出来事を次のように預言しています、7-10節です
7 彼は虐げられ、苦しめられたが 口を開かなかった。 屠り場に引かれて行く小羊のように 毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように 口を開かなかった。8 不法な裁きにより、彼は取り去られた。 彼の時代の誰が思ったであろうか。 私の民の背きのために彼が打たれ 生ける者の地から絶たれたのだと。9 彼は暴虐をなさず 口に偽りがなかったのに その墓は悪人どもと共にされ 富める者と共に葬られた。10 主は彼を打ち砕こうと望まれ、病にかからせた。 彼が自分の命を償いのいけにえとするなら その子孫を見、長寿を得る。 主の望みは彼の手によって成し遂げられる。
福音書では、皆さんも何度も読み返してきた十字架のイエスの姿です。イザヤ書は預言ですから、表現は象徴的であったり、比喩的であったりしますが、そうだからこそ十字架の本質がよく見えるともいえます。コインに裏表があるように十字架という出来事には二つの側面があります。福音書の記録は人間の目から見た側面をよく表しています。王や宗教指導者への民衆の不満、不信が渦巻いていた当時のユダヤ社会でした。権力者たちには、イエスを殺さなければ自分たちが立場を失うという危機感がありました。そこで、現代社会のメディア操作と同じようにイエスを極悪人に仕立て上げ、スケープゴートとして十字架につけ社会のガス抜きを図ったのです。宗教指導者たちはメディア操作に成功して群衆は「イエスを十字架にかけて殺せ!」と叫び出しました。社会現象としては、その通りのことが起こったのです。しかしその裏側には神様の教える深い意味が隠されていました。神様はご自身をイエスというひとりの人間として世に表し、イエスとして自らをいけにえとして献げられたのです。イエスの子孫、それはイエスに従う私たちのことです。そして長寿を得ると預言されましたが、それどころか永遠に共にいてくださる方としてよみがえられたのです。最後の行で、それが神様の望むことだったとわかります。
C. 闇から光へ (11-12)
最後にイザヤが十字架の出来事の先にある希望を預言している11-12節を読みます。
11 彼は自分の魂の苦しみの後、光を見 それを知って満足する。 私の正しき僕は多くの人を義とし 彼らの過ちを自ら背負う。
12 それゆえ、私は多くの人を彼に分け与え 彼は強い者たちを戦利品として分け与える。 彼が自分の命を死に至るまで注ぎ出し 背く者の一人に数えられたからだ。多くの人の罪を担い 背く者のために執り成しをしたのは この人であった。
十字架の出来事の二つの側面を合わせて考えると、それは神様の正義と人類の不義がぶつかり合う出来事であったことがわかります。その中心で、人の過ちと病を背負ったイエスが打ち砕かれ、神様の前に献げられたいけにえとなって、希望に満ちた新しい時の扉が開らかれたのです。これが今、私たちが経験している過越です。この災いから逃れられる印はユダヤ民族に取っては子羊の血でしたが、私たちにとってはイエスの十字架なのです。
私たちの向かって進む方向が、イエスによって示された神様の望まれる方向である限り、恐れるものは何もありません。イエスと共に歩み続けるかぎり、乗り越えてゆくことができます。このウイルスの感染によってこの世を去る人も、決して死に負けたわけではありません。私たちの魂は永遠の主と共に永遠の存在であるからです。まだ地上に置かれている私たちは、するべきことがたくさんあります。イエスの十字架の出来事を通して、新しくされた私たちは、神様の愛を、神様の正しさを行う者としてここにいます。自分の弱さ、醜さは、愛さないでよい、正義を行わなくてもよいという言い訳にはなりません。イエスは今もあなたと共にいて、このように声をかけていると思います。「あなたの弱さも、病も、罪も、私が負っているのだから、こんな時でも心配せずに、ただ愛し続けなさい」
メッセージのポイント
受難週はイエスの十字架に心を向けるときです。私たちはパンデミックの中でイエスから目を逸らしがちですが、私たちの唯一の希望はイエスにしかありません。イエスはただ一人、十字架に向かい、十字架で苦しみ、十字架の呪いを打ち砕いた方なのです。
話し合いのために
1)私たちの過ちとは何ですか?
2)なぜイエスを信頼できるのですか?