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「あなたがたに平和があるように」×2
(イザヤ書 53:4-12)
池田真理
今日は教会にとって1年で一番大切な日、イースターです。本当なら、世界中の教会でイエス様の復活が祝われて、子どもたちは卵探しをしていたはずですが、今は世界中の教会が扉を閉ざしています。そして、世界中の人たちが家に閉じこもっているしかありません。この状況でイースターに何を話すべきなのか、しばらく前から考えていましたが、この箇所以外にはないとすぐに思いました。ヨハネによる福音書20:19-23です。ほぼ1節ごとに読んでいきます。まず19節です。
A. イエス様と私たちの間の平和
1. 私た恐れの只中に平和をもたらす方 (19)
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸にはみな鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
イエス様はこの三日前に十字架で死なれ、お墓に入れられました。弟子たちは、自分たちも捕まって殺されるのではないかと怯えていました。それで、家の戸には全て鍵をかけて、家の中に閉じこもっていました。それなのに、気が付くとイエス様は家の中に入ってきていて、彼らの真ん中に立っていました。驚く彼らにイエス様が最初にかけた言葉は、「あなたがたに平和があるように」でした。
今日、私たちもそれぞれが家の中に閉じこもっているしかない状況ですが、イエス様は私たちそれぞれの家の中に入ってこられ、真ん中にいてくださる方だということを知りましょう。そして、私たちにも「あなたがたに平和があるように」と言っておられます。どんな恐れや不安の中でも、イエス様は私たちに平和をもたらしたいと願っている方です。そして、私たちがイエス様のその声を聞くなら、必ず平和を与えてくださいます。
これは、私たち一人ひとりの心の真ん中にイエス様が入りたいと願っているということでもあります。弟子たちはユダヤ人を恐れて家に閉じこもったとありますが、彼らが家に閉じこもった理由は恐怖だけではないと思います。主を裏切ってしまった罪悪感と自己嫌悪、主を失ってしまった絶望、孤立感、これからどうすればいいのか分からない不安、そういうものが全部一緒になって、彼らは閉じこもっているしかありませんでした。イエス様は、そんな彼らの暗い心の中心に入ってこられました。私たちがどんな不安の中にいても、悲しみの中にいても、イエス様はその真ん中に立ってくださる方です。私たちの心を全て知っておられ、その心のままで私たちを受け入れてくださる方です。私たちの心にどんな鎖がついていようと、鍵がかけられていようと、イエス様には関係ありません。暗い心の中に入ってこられ、その中心で、「あなたに平和があるように」と言ってくださいます。
では、イエス様が私たちに望んでくださる平和とはどういうものなのでしょうか。それは次の20節から知ることができます。前半と後半に分けて読みます。
2. 死の力に打ち勝った方 (20a)
そう言って、手と脇腹とをお見せになった。
なぜイエス様はご自分の手と脇腹を弟子たちに見せたのでしょうか?それは、イエス様の手には十字架に付けられた時の釘の痕が残っており、脇腹には兵士の槍で刺された傷痕が残っていたからです。そして、弟子たちはそれを見る必要があったからです。イエス様は確かに死なれたけれども、死に打ち勝ってよみがえられたのだということを、弟子たちは知る必要がありました。
私たちはもう、弟子たちのように、よみがえられたイエス様の体を直接確認することはできません。でも、彼らと同じように、よみがえられたイエス様と出会う必要があります。イエス様は確かに死なれたけれども、死からよみがえられたと知るということです。それによって、体の死は全ての終わりではなく、体の命を超えた新しい命があると分かるようになります。それは、イエス様の苦しみと引き換えに私たちに与えられた命であり、勝利であり、平和とも言えます。イエス様が十字架で無力なまま敗北してしまったように見えたのは、神様が私たちに新しい命を与えるための計画のうちにありました。イエス様は負けてしまったのではなく、死の力を打ち砕き、よみがえられました。それが、私たちの新しい命の始まりとなり、平和の始まりとなりました。神様と私たちの新しい関係の始まりとも言えます。
弟子たちはこの時点でまだ神様の計画全てを理解できたわけではありませんが、目の前にイエス様が生きておられるのを見て、喜びました。20節後半です。
3. 罪の赦しと愛をくださる方 (20b)
弟子たちは、主を見て喜んだ。
イエス様はここで「あなたがたに平和があるように」と言われ、手と脇腹の傷を見せただけで、言葉では何も説明していませんが、弟子たちにはそれで十分でした。復活したイエス様が会いに来てくださったというだけで、彼らは自分たちが赦されたことが分かりました。イエス様を裏切って見捨てた自分たちでも、イエス様はまだ共にいたいと思ってくださるのだと分かりました。そして、死なれたはずの方がよみがえるという、人間の力では不可能なことが起こったことを知り、神様の大きな計画が動いていることを感じました。
イエス様がこの世界に来られた時から、こうなることは全て神様の計画でした。神様は私たちを愛しておられ、私たちの罪を赦して、共にいたいと願われました。そのために大きな犠牲を払われました。イエス様の十字架は、自らの命を捧げるほどに私たちを愛してくださっている神様の愛の証です。ご自分の命を捨てても、神様は私たちとの関係を回復して、共にいたいと願われました。この神様の愛は、私たちがどんな状況に置かれても、体の死を前にしても、どんな恐怖を前にしても、取り消されることはありません。私たちは、イエス様の十字架を通して、罪を赦されて、神様の愛のうちに生かされています。そして、その愛のうちに永遠に生きることができるようにされています。それが、神様が私たちに与えたいと願われた平和です。そして、イエス様が命を捧げてもうすでに私たちに与えてくださった平和です。
イエス様は、今日も、私たちにこの平和を与えたいと願っておられます。神様は私たちのことを見捨てているわけではなく、罪の罰を与えているのでもありません。もし神様がそういう方だったとしたら、自分を裏切った弟子たちのところに戻ってきたはずがありません。まして、彼らを責めることなく、ただ「あなたがたに平和があるように」と言われるなんて、あるはずがありません。イエス様は、私たちの恐れの真ん中に入ってこられ、共に生きておられることを私たちに知ってほしいと願われています。そして、さらには、私たちが恐れから自由になって、イエス様からいただいた平和を、この世界に届ける役割を担うことを望まれています。後半の21-23節に入っていきましょう。
B. 私たちと他の人たちの間の平和
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
1. 聖霊によって新しく生まれ変わる (22-23)
順番が逆になりますが、まず22-23節の方に注目したいと思います。
イエス様は、弟子たちに息を吹きかけて、聖霊を受けなさい、と言われています。それは、聖霊を受けて新しく生まれ変わりなさい、ということです。創世記にある人間の創造には、土からできた人間に神様がご自分の息を吹き込んで生きる者とされたとあります。神様の息を受けなければ、人間は生きることはできませんでした。ここでイエス様がされていることはそれと同じです。息には霊、命という意味があります。イエス様は、私たちがイエス様の息を受け、イエス様の霊である聖霊様によって、新しく創造されることを望まれました。聖霊様によらなければ、私たちは生まれ変わることができません。
次にイエス様は、生まれ変わった私たちには新しい役割があることも教えられています。他の人の罪を赦すという役割です。23節「誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」これは、誤解してしまいがちですが、私たちに他の人の罪を罰する権利が与えられているという意味ではありません。その反対に、誰の罪でも赦してあげなさいという意味です。ただ、本来、人間の罪を赦すことができるのは神様だけです。私たちにできることは、イエス様が自分を赦してくださったように、他の人を赦すと決めて生きることだけです。自分の罪すら忘れてしまうことの多い私たちが、完全にイエス様のように他の人を赦して愛することなんて、できるはずがありません。それでも、それがイエス様が私たちに与えられた役割です。それは、自分自身の罪の中にいながら、イエス様に何度も赦され、立ち上がり、罪の赦しと愛を信じて生きていくことを意味します。自分が赦されたように他の人を赦し、自分が愛されているように他の人を愛して生きていくことです。
これは、誰も聖霊様によらなければできないことです。聖霊様は、何度でも私たちを新しく生まれ変えさせてくださいます。イエス様の愛を確信し、私たちが自分の内側に喜びと平和をいただき、他の人を愛することができるように、聖霊様が私たちを変えてくださいます。今、自分の心に平和がないと思われる方、他の人を愛せないでいる方は、どうぞ自分の力をあきらめて、ただ聖霊様を頼ってください。そして、新しく生まれ変えさせてくださる聖霊様の力を体験してください。
2. 私たちはこの世界に遣わされている (21)
21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす。」
イエス様が弟子たちのもとに戻ってこられたいちばんの理由が、ここで語られています。イエス様は、弟子たちをこの世界に遣わすために戻ってこられたのです。それは、神様がイエス様をこの世界に送られた目的と同じ目的のためです。神様が私たちを愛しておられること、この世界を見捨てていないこと、を世界に伝えることです。
私たちは今この世界に遣わされています。どこにいても、私たちがそこに遣わされているということは変わりません。この世界に生きている限り、神様の愛を伝える役割を委ねられています。実際に会える機会は本当になくなってしまいましたが、郵便は届きますし、電話やメールや様々なツールで人とつながることができる時代に生きているのはラッキーでした。また、だからこそ、そういうツールを使って人と関わり続けてください。実際に会えなくなってしまっても、神様の愛を互いに伝え合い、重荷を分かち合うことは続けられます。それが私たちがこの世界に置かれている目的です。教会の家族だけでなく、それぞれの家族、一緒にいる家族も遠くにいる家族も、神様の愛を必要としています。通常とはがらりと変わってしまった日常の中で、落ち着いてイエス様のことを考えることもできないと感じていらっしゃる方も多いと思います。経済的な不安も深刻になってきています。それでも、私たちの平和の源はイエス様にしかありません。そのことを自分で確かめ、そして互いに確かめあっていきましょう。私たちがイエス様からいただく平和が、他の人にも広がっていくように。
今日イエス様は、2回「あなたがたに平和があるように」と言われました。私たちに平和がるように、そしてこの世界に平和があるように、という二重の意味です。聖霊様によって、今日もう一度新しく、イエス様の愛と平和を受け取りましょう。
メッセージのポイント
家の中に閉じこもっているしかなくても、イエス様はそれぞれの家に入ってこられ、私たちの恐れを希望に変えて、平和をもたらすことができる方です。私たちが悲しみや不安によって心を閉ざしていたとしても、イエス様はその心の真ん中に入ってきて共にいてくださる方です。私たちの全てを赦して、愛してくださっています。イエス様の体には、そのために苦しまれた傷跡が残っています。イエス様が死からよみがえられたように、私たちも自分の罪の中で死ぬことなく、新しく生きることができます。どんな状況においても、自分が赦されたように他の人を赦し、自分が愛されているように他の人を愛することができます。イエス様がこの世界に来てくださったのは、私たちがこの世界でイエス様のように生きることができるようになるためなのです。
話し合いのために
1)自分の心に平和がない時、どうすればいいですか?
2)今の非常事態の中で、私たちがこの世界に遣わされているとは、具体的にどういうことですか?
子供たちのために
心が落ち着かないとき、不安なとき、イエス様は私たちの心を落ち着かせてくれます。どうやってでしょうか?