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強い政治家を求める間違い
(マルコによる福音書 12:35-37 )
池田真理
多くの日本人にとって、戦後、今ほど政治が自分たちの日常に大きく関わっていると感じたことはないと思います。日本だけでなく、多くの世界の国々で同じことが感じられていると思います。そして、自国優先主義や強権的な政府を求める主張が、正当化されているように思います。経済の悪化が社会の不満を生み、排他的な政治を正当化するというのは、人間の歴史が繰り返してきたことです。過去の過ちを繰り返さないように、法が整備され、国際秩序を守る枠組みが作られてきましたが、それを放棄することも人間にはできてしまいます。実際、この混乱に乗じて、私たちの不安を利用して、安倍さんは憲法改正の話を進めたいと思っているようです。私たちは一人ひとり、変わっていく社会の中で、不安に支配されずに、変わらない価値のあるものを守る責任があります。私たちの心は揺れ動きますが、イエス様が教えてくだることは、時代を超えて揺れ動きません。今日も、イエス様から聞き、私たちがどうあるべきなのか、教えていただきましょう。マルコ12:35-37です。
35 イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。36 ダビデ自身が聖霊を受けて、こう言っている。『主は、私の主に言われた。「私の右の座に座れ。私があなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』37 このように、ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。
A. 自分の利益を守ってくれる強い政治家を求める私たち
「メシアはダビデの子だ」という主張は、当時のユダヤ人の間で一般的に信じられていたことでした。メシアというのは、ヘブライ語で油を注がれた者という意味です。人々を救うために神様によって選ばれた者ということです。旧約聖書には、そのメシアはダビデの子孫から現れると預言されていました。
そして、イエス様はその預言通り、ダビデの血を引くヨセフとマリアの間に生まれました。正確には、イエス様は聖霊様によって生まれたので、ヨセフとは血がつながっているわけではありません。でも、確かにダビデの子孫の家に生まれ、旧約聖書の預言は成就しました。私たちもクリスマスによく旧約聖書を取り上げるのはそのためです。メシアはダビデの子孫から生まれるという意味では、「メシアはダビデの子」というのは間違っていなかったのです。
では、イエス様はここで何を問題にしているのでしょうか?それは、人々が「メシアは、ダビデのような、ユダヤ民族の王様だ」と期待していたことです。つまり、人々は、ユダヤ民族を他国の支配から救ってくれる政治的・軍事的指導者を期待していたということです。イエス様はここで、そのような期待自体が間違っていると言われています。旧約聖書で預言されているメシアというのは、単にダビデの再来のような人間の王様ではありません。ユダヤ人だけのための王様でもありません。それは旧約聖書の預言を正しく読めば分かるはずなのですが、人々は自分たちに都合のいい解釈を好みました。
これは当時のユダヤ人だけの問題ではありません。自分たちを救ってくれる王様を求める気持ちは、全ての人間が持つものです。特に、当時のユダヤ人と同じように、暮らしに不満があり、自分たちの国の先行きが不安であれば、その状況を打破してくれる強い指導者が現れることを願ってしまいます。自分たちの利益と安全を守ってくれる人であれば、誰でもヒーローに見えるようになります。第一次世界大戦に敗戦して、経済的に困窮したドイツでは、ヒトラーが人々の支持を集めて、合法的に独裁政権を築きました。同じく、世界恐慌によって経済に打撃を受けた戦前の日本は、アジアの国々を侵略することを日本とアジアの発展のためだと正当化しました。日本国民の多くはそれを信じたのです。アメリカ・ファーストを掲げるトランプ大統領は、国内で拡大した貧富の差に不満を持つ人々の心を掴んだと言えます。私は、ドイツ人や日本人やアメリカ人をけなしているわけではありません。私たち人間は、いつの時代も、自分の属するグループ、社会、国の利益を最優先します。自分の利益を自分で守るのは当然だと言われるかもしれません。確かに、私たちは誰でも幸せな人生を送る権利を持っています。でも、誰もが自分の都合を最優先していたら、世界が成り立つはずがありません。私たちが自分の安全と利益を守ってくれるかどうかで政治の指導者を選んでいたら、世界は間違った方向に傾いていき、気がついた時には誰にも止められなくなるということを、歴史は教えてくれています。
では、イエス様は私たちに何をもたらしてくれるメシアなのでしょうか?ここから先は、今日の聖書箇所にはありませんが、聖書の他の箇所も参考にしてお話ししたいと思います。
B. 全ての人の僕になった指導者
1. 人となられた神様
今日の箇所は、イエス様が質問を投げかけたところで終わっています。「ダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」では、イエス様はメシアは何だと言われるのでしょうか?その答えは、マルコによる福音書の冒頭の一文にあり、また十字架で死なれたイエス様を見た百人隊長が告白した言葉にあります。
(マルコ1:1) 神の子イエス・キリストの福音の初め。
(マルコ15:39)「まことに、この人は神の子だった」
メシアは神の子、単なる人間の王ではなく、神様ご自身であるということです。
このことは、イエス様がこの世界に来られるまで、誰も想像もしていなかったことでした。神様ご自身が人としてこの世界に来られるなんて、誰にも思いつかなかったのです。でも、神様はそれを望み、自らこの世界に来て、人間を救いたいと願われました。それは、単に特定の時代の特定の民族を救うためではなく、時代も民族も超えて、この世界の全ての人を愛しておられることを証明するためでした。
でも、イエス様は、人々の想像に反して、あまりにメシアらしくない、神様らしくない方でした。だから、当時も多くの人がイエスが神様だとは思わなかったし、今でも思わないのだと思います。イエス様がこの世界に来られて成し遂げられた最大のことは、十字架に架けられて死なれるということでした。普通は、神様が殺されるなんて起こるわけがないし、死んでしまったらメシアも神様もないのではないかと考えます。でも、それが神様が私たち全てを救い、正しい方向に導くために選ばれた方法でした。
今日の箇所より少し前の、マルコ10:42-45のイエス様の言葉を読みます。
2. 全ての人の僕となられたイエス様 (10:42-45)
42 そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。43 しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。45 人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。」
イエス様は、自分の愛する者たちのために、自分の命を捨てた神様でした。神様ご自身が、人間に捕らえられ、殺されるというありえないことが起こりました。また、イエス様が十字架の上で「わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫んだ時、神様ご自身が神様に見捨てられるということが起こりました。イエス様は、人間が経験しうるあらゆる苦しみを私たちと分かち合ってくださいました。体の痛みも、孤独も、絶望も、死も、全てです。そして、何よりも、それは全て私たち人間の罪が引き起こした苦しみであり、イエス様は私たちの罪を引き受けてくださったということでもあります。神様は、私たちが自分で引き起こした苦しみの中でつぶれてしまわないことを願われました。そして、私たちが罪と苦しみから自由になって、新しい生き方を始められるようにしてくださいました。
最近読んだ本に、こう書いてありました。「イエスは他のために存在する。」普通、私たちはそれぞれ自分のために存在していると言えますが、イエス様は最初から最後までその正反対でした。この世界に来られた理由も、死なれた理由も、全て自分は抜きで、他人のためです。45節をもう一度読みます。
人の子は、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。
イエス様においては、偉いとは他人を使うことではなく他人に使われるということであり、上に立つとは一番下になることです。それが、他のために存在するということであり、愛するということです。神様は愛の方なので、神様の支配とは愛の支配です。そして、愛の支配を広げる唯一の方法は、自分を抜きに他のために存在し、行動するということです。だから、イエス様は私たち全ての僕となられました。神様のやり方は人間の常識とは正反対なのです。
「イエスは他のために存在する」と書いた人は、こうも書いています。「教会は、他のための存在である時にのみ教会である。」イエス様が言われたのと同じことです。
あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、44 あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
最後に、このことも少し考えてから、終わりにしたいと思います。
C. 私たち一人ひとりがこの世界に仕える責任を持っている
ここのところ日本全国で地震が続いていて、コロナで大変な時にここで東京で大地震が起こったらもうおしまいだ、という声を聞きます。でも、東京で大地震が起こることはもう何十年も前から科学者たちが警告してきたことであり、今起こらないという理由はどこにもありません。こんな時だから神様はどうにか外してくれるだろうというのは、傲慢だと思います。私たちは、たとえそうなっても被害を最小限で済むように賢く準備しておくべきです。そして、そうならないことを私も祈らずにはいられませんが、本当に最悪の事態が起きたとしても、私たちはいつでも、「他のために存在する」ことを求められています。
私たちは、どんな状況においても、イエス様の愛の上に立って揺らいではいけません。自分が揺れてしまう時、聖霊様に助けを求めることを忘れないようにしましょう。そして、互いに祈り合い、支え合うことを遠慮するのはやめましょう。そして、それぞれがイエス様の体である教会として、この世界の中でしっかりイエス様の愛を届ける存在になりましょう。また、この世界がイエス様の望む方向に動いているのか、そうでないのか、周りの意見に流されずに、イエス様によく聞きましょう。社会が不安に陥り、世界が危機にあるとき、私たちに必要なのは、強い政治的指導者ではありません。そうではなく、私たち一人ひとりが、自分の不安に支配されずに、イエス様の愛を確認し、愛に基づいて行動することです。周りの人を愛することをやめず、この世界をあきらめないで、希望を失わないことです。一緒に、互いのために祈り合い、聖霊様の力によって、この世界の中で「他のために存在する」者になりましょう。
メッセージのポイント
私たちは、自分の安全と利益を守ってくれる強い政治的指導者を求めがちですが、それは危険です。神様は、私たちが自分の利益や安全を放棄しても、他者と共に生きる方を選ぶことを望まれます。それがイエス様の生き方でした。神様が人となってこの世界に来られ、十字架で死なれたのは、全ての人のために自分を献げるためでした。それによって、イエス様は全ての人の指導者になりました。導くことは仕えることであり、仕えることは他の人の必要を満たすために自分を献げることです。私たちはこの世界で、自分自身がそうなることと、指導者たちがそのように行動することを求めていく責任があります。
話し合いのために
1)イエス様は私たちを何から救うメシア(救世主)なのですか?
2)私たちがこの世界に仕えるとは?
子供たちのために(子供たちと共にいる大人のためにも)
10:42-45の方が分かりやすいと思います。イエス様は全ての人の王様ですが、人間の王様とは違いました。なんでもできる力を持っていますが、なんでも自分の思い通りにしようとはされません。誰にでも命令することができますが、「愛しなさい」以外はあまり命令はされません。そして、自分が殺されてしまうことも受け入れました。イエス様は人間の王様とどう違うのでしょうか?話し合ってみてください。