聖霊様によってキリストの体になろう

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聖霊様によってキリストの体になろう

聖霊降臨祭
(使徒2:1-6,43-47; ヨハネ6:53-57,63; ヨハネ14:15-26, 13:34-35; エフェソ4:1-16)  

池田真理

  今日はペンテコステの日です。聖霊によって教会が誕生したことを思い起こす日ですが、教会には集まれない状態が続いています。この状況の中で、教会とは何なのか、教会に集まるとはどういう意味があるのか、改めて考えさせられてきました。皆さんも考えていると思います。なぜ、私たちには教会という人間の集まりが必要なのか。ひとりでイエス様を信じているだけではいけないのか。なぜ神様はこの世界に教会を置かれたのか。そして、神様が望まれる教会の姿とはどういうもので、私たちはどうあるべきなのか。今日は、ペンテコステの記事と共に、イエス様の言葉を読んでいきたいと思います。最初にペンテコステの出来事を確認しておきましょう。使徒言行録2章から2箇所を読んでいきます。

 

A. 聖霊様によって教会は誕生した (使徒2:1-6, 43-47)

 

1 五旬祭の日が来て、皆が同じ場所に集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだした。5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国出身の信仰のあつい人々が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、誰もが、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられた。

 

 聖霊の注ぎは、超自然的な出来事でした。人間の力によるものではないことは明らかな、でも人間の目と耳で分かる不思議なものでした。それは弟子たちだけに隠されていたのではなく、物音を聞いてやってきた大勢の人たちにも分かりました。
 この不思議な出来事の後、教会が始まりました。43-47節にはこうあります。

 

43 すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議な業としるしが行われていたのである。44 信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、45 財産や持ち物を売っては、必要に応じて、皆がそれを分け合った。46 そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に集まり、家ではパンを裂き、喜びと真心をもって食事を共にし、47 神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加えてくださったのである。

 

 不思議な業としるしというのは、超自然的な奇跡や癒しの働きのことでしょう。また、信者たちは物質面でも助け合っていたことも分かります。そして、神殿や家で集まっていたことが分かります。46節の「パンを裂く」というのは聖餐式を指します。当時は、みんなで一緒に聖餐にあずかることと食事を共にすることを両方大事にしていました。このように、信仰生活も日常生活も共に支え合うために集まるということは、私たちも見習うべき教会の姿だと思います。

 でも、こんな素晴らしい状態は長くは続きませんでした。それは、福音書に続く新約聖書全体から明らかです。教会内で誤った教えが広まったり、ユダヤ人優先主義が強まったり、身分や貧富の差による差別が起きたりしました。教会は生まれてすぐ、問題だらけになったのです。聖霊を注がれても、人間は人間だからです。
 それでも、教会が立ち戻る場所は、昔も今も、このペンテコステです。私たちは何度も失敗を繰り返し、何度も聖霊によって道を正されて、少しずつ進んでいくしかありません。それは、最初のペンテコステのような超自然的な現象を求めるということではありません。そういうことが時には起こされるかもしれませんが、それ自体が目的ではありません。
 では、教会とは何か、何を目指すべきなのか、聖霊によって正されて導かれるとはどういうことなのか、考えていきたいと思います。まずヨハネによる福音書6章です。

 


B. 教会はイエス様の体を食べて生きる (ヨハネ6:53-57, 63)

 

53 イエスは言われた。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。54 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、私はその人を終わりの日に復活させる。55 私の肉はまことの食べ物、私の血はまことの飲み物だからである。56 私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。57 生ける父が私をお遣わしになり、私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。…63 命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である。

 

 イエス様は「私を食べなさい」と言われています。食べ物を食べるという行為は、生き物を殺して、その命を食べて自分が生きるということです。それと同じで、私たちはイエス様を殺して、その命と引き換えに生きています。でも、イエス様はただ受け身で殺されたのではなく、自ら命を差し出されました。そこには、私たちの罪の問題だけではなく、イエス様の愛と意志が働いています。ですから、イエス様が「私を食べなさい」と言われたのは、「私の命を受け取って、私の愛のうちに生きていきなさい」ということです。

 そして、それが本当の命だと言われています。56節「私の肉を食べ、私の血を飲む者は、私の内にとどまり、私もまたその人の内にとどまる。」イエス様が死なれて、私たちは生かされました。同時に、私たちのうちにイエス様は生きておられ、イエス様のうちに私たちは生かされています。イエス様と共にいるということが、生きるということであり、本当の命なのです。

 だからイエス様はこう言われました。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。」イエス様と私たちの関係は、私たちの肉体を超えて永遠に続きます。それが永遠の命であり、霊の命と言えます。私たちは聖餐式で、実際に、パンを食べ、ワイン(ぶどうジュース)を飲みます。それは、私たちがイエス様によって肉体の命を超えた霊の命を与えられていることを覚えているためです。パンとワインを口にするという身体的なことでありながら、私たちはそこでイエス様と霊的に結びつけられています。そして、その結びつきは私たちが切ってしまわない限り、永遠に切れることはありません。

 私たちは、イエス様を食べ続けなければ、生きていけません。イエス様のうちに本当の命があり、永遠の命があり、霊の命があります。聖餐式は、そのことを心で信じるだけでなく、体で体験する機会でもあります。教会は、イエス様というひとりの方の体を分け合う集まりです。私たち一人ひとりがイエス様の命を食べて生きることがなければ、教会は教会ではありません。そして、聖霊の助けがなければ、私たちはそのように心をイエス様に向け続けることもできません。そのことを、ヨハネ14章で確認しましょう。

 


C. 聖霊様によって見えないイエス様を見る (ヨハネ14:15-26, 13:34-35)

 

15 「あなたがたが私を愛しているならば、私の戒めを守るはずである。16 私は父にお願いしよう。父はもうひとりの弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、それを受けることができない。しかし、あなたがたは、この霊を知っている。この霊があなたがたのもとにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。18 私は、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る。私が生きているので、あなたがたも生きることになる。20 かの日には、私が父の内におり、あなたがたが私の内におり、私があなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。…25 私は、あなたがたのもとにいる間、これらのことを話した。26 しかし、弁護者、すなわち、父が私の名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる。

 

 イエス様は、「聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、私が話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と言われています。私たちはもうイエス様と直接会うことはできません。それでも、イエス様は生きておられると信じることができるのは、ただ聖霊様によります。聖霊が私たちに、イエス様がどういう方であるのか、教えてくださいます。聖書を理解できるようにしてくださるのも聖霊です。イエス様は「しばらくすると、世はもう私を見なくなるが、あなたがたは私を見る」と言われました。これは、歴史的人物としてのイエスはもういなくても、イエス様は聖霊様として私たちと共におられるということです。
 また、聖霊はイエス様が与えた戒めを私たちが守るように導く方でもあります。その戒めとは、直前のヨハネ13章にあります。

 

34 あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを、皆が知るであろう。

 

私たちはこの戒めを決して自分の力で守ることはできません。聖霊によって、イエス様の愛の大きさを教えていただいて、私たちは自分の小ささが分かるようになります。そして、内側から少しずつ造り変えられて、人を愛することができるようになります。それによって、私たちは私たちのうちにイエス様が生きておられることを、この世界に証明します。互いに愛し合うという奇跡の中に、イエス様が生きておられることを自分で見ると同時に、この世界にも見せることになります。

 それでは最後に、パウロの言葉を読みたいと思います。コリントの人々への手紙1の12章です。

 


D. 聖霊様によってイエス様の体になる (1コリント12:12-27)

 

12 体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様です。13 なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの霊によって一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊を飲ませてもらったからです。14 実際、体は一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。15 足が、「私は手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。16 耳が、「私は目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。…27 あなたがたはキリストの体であり、一人一人はその部分です。

 

 私たちは一人ひとり、人生のどこかでイエス様に出会い、イエス様と共に生きるように招かれて、そう生きることを選びました。それぞれの歩みは様々ですが、イエス様の方に向かって歩んでいるという点で一致しています。その道の途中で、私たちはどういうわけか、この教会に集められました。誰もが道の途中にいて、不完全です。でも、私たちは同じ一つのイエス様の体の中の様々な気管であり、それぞれにしか果たせない役割があります。それは具体的に牧師であるとかワーシップリーダーであるとかということよりも、あなたがあなたであることによる役割です。あなたにしかつながれない誰かがいます。私の近くは嫌だけれども、あなたの側なら一緒にいたいと思う人がいるはずです。そして、そのようなつながりの中で、見えないイエス様を一緒に見ることができます。また、イエス様を食べるおいしさ、イエス様と共に生きる喜びを共有することができます。私たちは、そのように、互いに結び合わされて、一つのイエス様の体の一部となっています。そして、このイエス様の体は、この教会だけにとどまらず、世界に一つだけのキリストの体につながっています。教会は、同じ一つの霊に導かれて、何度も失敗してはやり直し、成長している体です。この体の頭はイエス様のみです。一人ひとりがイエス様を食べ、聖霊様に導かれて成長しましょう。そして、互いに結び合わされて、キリストの体となりましょう。


メッセージのポイント

私たちは誰も、聖霊様の助けなしには、イエス様のことを知ることも信じることもできません。イエス様に愛されていることも、互いに愛し合うことも、私たちはすぐに自分の罪の性質によって分からなくなってしまいます。聖霊様によって、もう一度、イエス様が私たちのために死なれたことを思い起こしましょう。そのことを互いに思い起こし合い、励まし合い、一緒に世界に伝えるために、私たちは集められました。聖霊様によって自分を変えていただき、互いの関係を成長させられ、世界に一つだけのキリストの体の一部になりましょう。

 

話し合いのために

1)教会とは何だと教えられていますか?また、あなたにとって教会とは何ですか?
2)聖霊様はどのように私たちを成長させてくださいますか?

 

子供たちのために

神様とイエス様に比べて、聖霊様というのは少し分かりにくい存在だと思います。神様の霊、イエス様の霊でもあるので、はっきり区別しなければいけないわけではないのですが、私たちの心を神様とイエス様に向けさせてくださるのが聖霊様です。イエス様のことが分かるように、私たちの考えや思いを助けて導いてくださるとも言えます。だから、聖霊様の助けがなければ誰もイエス様のことを信じることはできません。イエス様のことを信じているということは、もうすでに聖霊様が助けてくださっている証拠です。イエス様のことが分からなくなる時、イエス様に呼びかけてもいいのですが、聖霊様にも呼びかけてみてください。きっと助けてくださるはずです。(聖書を読むとしたらヨハネ14章がいいと思います。)