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私たちは今もイエス様逮捕の現場にいる
マルコ 14:43-52
池田真理
マルコによる福音書も終わりに近付いてきました。今日はいよいよイエス様が逮捕される場面を読んでいきます。この場面は、2000年前に実際にあった出来事であると同時に、今も私たちの周りで繰り返し起こっている出来事でもあります。私たちは、時にイエス様と同じように他人に苦しめられることもあります。でも、どんな人でも、イエス様を苦しめた側の人たちと同じ罪と弱さを持っています。そんな私たちのためにこそイエス様は命を献げてくださったので、私たちには救いがあるのですが、今日の箇所は救いよりも私たちの罪と弱さに焦点が当てられています。まず50節までを読んでいきましょう。
43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二人の一人であるユダが現れた。祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。44 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「私が接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と、前もって合図を決めていた。45 ユダは、やって来るとすぐにイエスに近寄り、「先生」と言って接吻した。46 人々は、イエスに手をかけて捕らえた。47 そばに立っていた者の一人が、剣を抜いて大祭司の僕に打ちかかり、片方の耳を切り落とした。48 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。49 私は毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたがたは私を捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」50 弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
A. 私たちはイエス様逮捕の現場にいる
最初に一つ覚えておきたいのですが、この場面にはイエス様を殺す計画の首謀者は直接現れていません。首謀者は祭司長、律法学者、長老たちですが、彼らは次回の箇所で登場します。そのことは今日の箇所を理解する上で少し役に立ちます。というのは、首謀者である彼らは私たちの罪の根本を表しており、今日登場する人々は私たちの罪の結果を表していると言えるからです。罪の根本とは、神様を神様とせず、自分を神様とすることです。その結果として、私たちは時にユダのように、時に群衆のように、時に弟子たちのように、イエス様を苦しめ、この世界に苦しみをもたらしてしまいます。私たちの神様に対する誤った態度が、私たちの他人に対する誤った態度や行動を生みます。罪の根本を解決しなければ本当の解決にはなりません。でも同時に、私たちの罪が引き起こす様々な問題を知ることによって、罪に気が付くこともあります。今日の場面に登場する人々を通して、そのことを今日は考えていきたいと思います。
1. ユダ:浅はかで他人の苦しみに対する想像力に欠ける
まず、ユダです。イエス様と最も親密だったはずの十二人の弟子の一人だったユダが、なぜイエス様を裏切ったのか、はっきりした理由は誰にも分かりません。ただ、彼はここではためらいなくイエス様を裏切っていますが、後で後悔して自殺したと言われています。そこから推測できるのは、ユダは少なくとも熟慮の上でイエス様を裏切ったのではないということです。彼は、何かの理由でイエス様に対して一時的な憎しみか失望かを抱き、目先の小さな誘惑に負けたと推測できます。そして、自分の行動が何をイエス様にもたらすのか、それがどれほど間違っていて苦しいことなのかを、想像できていませんでした。
私たちはユダと同じように、自分の抱える負の感情から軽はずみに動き、人を苦しめます。憎しみや失望という感情は、人間である以上誰でも持ってしまうものですが、それを他人に向けて攻撃に使うかどうかは、一人ひとりの選択です。そして、自分の行動が他人に与える影響について、私たちはなかなか想像することができません。特に負の感情を持っている時はさらに難しいと思います。
2. 群衆:無責任な好奇心と無知な正義感で権力者に従う
次に、群衆です。武器を持ってイエス様を捕らえにやってきた群衆は、数なくとも数日前まではイエス様の教えに喜んで耳を傾けていた人たちです。それは、宗教指導者たちが、群衆が騒ぎ出すと困るから、すぐにはイエス様に手を出さないでおこうと言っていたことからも分かります。何が群衆の態度を変えたのでしょうか?それはおそらく、宗教指導者たちが彼らに「イエスは神を冒涜する悪人だ」という間違った情報を与えて、扇動したことによります。群衆は、その情報が正しいかどうか自分で判断せず、イエス様を悪人として蔑むようになりました。宗教指導者たちが言うことには従っておいた方がいいという思いもあったかもしれません。また、それまで人々から尊敬を受けていた人物が逮捕されて、人生を転落する様を見てやろうという好奇心もあったと思います。
この時だけでなく、いつの時代も、集団が無責任な好奇心や無知な正義感から権力者に従い、個人を攻撃したり、特定のグループを迫害することが起こってきました。戦時中の日本やナチスドイツがそうでしたが、一人ひとりがただ権力者に従うのではなく、自分で考え、自分の言動に責任を持つことが求められているのは今も同じです。また、権力者の影響があるかないかにかかわらず、特定の個人やグループに対する偏見や間違った情報に基づいて、その人たちのことを自分で知ろうともしないで、差別したり見下したりしてしまうのが私たちです。有名人に対するネット上の誹謗中傷、日本人の外国人に対する差別、技能実習生の問題などはそれにあたると思います。
3. 弟子たち:臆病で保身に走り、不正義を見過ごす
三番目は弟子たちです。ほんの数時間前に、「あなたと一緒なら死んでもいいです」と言っていたのに、一人残らずイエス様を見捨てて逃げてしまいました。ユダや群衆とは違い、彼らはイエス様が逮捕される正当な理由はないと知っていたにもかかわらず、保身に走りました。
いじめは、子供の間だけでなく、大人の間でも日常的に起こります。いじめを始める人が一人いるだけでは、いじめは成立しません。気付いていながら自分もいじめられることを恐れて黙って見過ごしたり、いじめに加担したりする人たちがいるから、いじめになります。前々回、ペトロの裏切りの箇所を読んだ時にもお話ししましたが、自分の身の危険を冒してまで正義を貫くことができる人はそんなに多くありません。自己嫌悪に陥りながらも、弱い自分をなかなか変えることができないのが私たちです。
4. 裸の若者:ありのままをさらされたら逃げるしかない
さて、今日最後に登場するのは、解釈が難しい謎の人物です。51-52節を読みます。
51 一人の若者が、素肌に亜麻布をまとってイエスについて来ていた。人々が捕らえようとすると、52 亜麻布を捨てて裸で逃げてしまった。
この若者は誰だったのか、そして、この出来事にどんな意味があるのか、謎に包まれています。マルコ福音書だけにある記述で、他に情報がなく、聖書学者によって様々な解釈がされてきましたが、確かなことは誰にも分かりません。なので、これからお話しするのは私の解釈で、間違っているかもしれません。
私は、この若者も私たちの姿を表しているのだと思います。亜麻布は上等な衣で、それをまとっている間は立派に見えます。でも、イエス様についていくということは、その衣をはがされて丸裸になることを意味します。人の前では本当の自分を隠して立派に見せることができても、神様の前に、誰も自分を取り繕うことはできません。誰でも、神様にはありのままの姿を知られています。私たちのありのままは、浅はかなユダであり、無責任な群衆であり、臆病な弟子たちの姿です。自分の力ではどうしようもない罪と弱さを抱え、それがさらされてしまったら、逃げ出すしかない私たちです。
イエス様は、私たちが誰もこの状態に留まっている必要がないように、新しい上着を与えてくださいました。最後に、2コリント5:1-5を読みます。
B. でも、イエス様は新しい住まいを与えてくださっている(2コリント5:1-5)
(2コリント5:1-5)1 私たちの地上の住まいである幕屋は壊れても、神から与えられる建物があることを、私たちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住まいです。2 私たちは、天から与えられる住みかを上に着たいと切に望みながら、この地上の幕屋にあって呻いています。3 それを着たなら、裸ではないことになります。4 この幕屋に住む私たちは重荷を負って呻いています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではなく、死ぬべきものが命に呑み込まれてしまうために、天からの住まいを上に着たいからです。5 私たちをこのことに適う者としてくださったのは、神です。神は、その保証として霊を与えてくださったのです。
私たちは、イエス様によって、罪と弱さに支配されず、神様を愛し、人を愛して生きる生き方を与えられています。それは、古い自分の上に新しい服を着させてもらうようなものです。ここのパウロの言い方で言うなら、壊れかけた古い住まいの上に新しい住まいを着ようとしています。私たちから罪と弱さが消えたわけではなく、私たちは生きている限りその重荷を負っていかなければいけません。でも、イエス様は私たちの代わりにその重荷を担い、十字架で打ち砕かれて、私たちの代わりに死なれました。だから、私たちはもう決して、自分たちの罪と弱さの中でつぶれて死んでしまうことはありません。ありのままがされても恐れることはありません。イエス様の霊が私たちを導き、内側から私たちを造りかえてくださっている途上にあります。そして、神様は私たちを通して、この世界に新しい住まいを用意しようとされています。人間の手が作り出す住まいではなく、永遠に壊れない住まいです。それは、私たちが罪と弱さに支配されず、聖霊様に導かれて互いに愛し合う時に、少しずつ私たちの周りに建てられています。私たちは、イエス様が逮捕されたのは、やがてイエス様が死からよみがえられるためだったと知っています。だから、今もイエス様が逮捕される現場にいる私たちは、そこはやがてイエス様が死からよみがえられるところだと知っています。互いの間で、この世界の中で、イエス様が生きておられることを伝える者になりましょう。
(お祈り) 神様、あなたをたたえます。私たちは恐れずにありのままの姿であなたの前に出ます。弱い私たちを変えてください。自分の感情や周りの人の意見に流されず、あなたの思いを求めることができるようにしてください。与えられている様々な人間関係の中で、あなたの愛を届けられる者にしてください。また、この教会が社会の中でオアシスのようになれるようにしてください。ここに集う私たちが本当に互いに愛し合い、あなたが送ってくださる人々を迎えることができるようにしてください。コロナで世界が変わっていく中で、変わらないあなたの愛と希望をいつも伝え続けることができますように。私たちを導いてください。
メッセージのポイント
イエス様逮捕の現場は、この世界の現実を映し出しています。私たちはみんな、ユダのように浅はかで、群衆のように無責任で、弟子たちのように臆病で、ありのままをさらけ出されたら逃げ出すしかないような存在です。でも、イエス様はそんな私たちを、この世界に神様の愛を届ける器にしてくださっています。聖霊様によって内側から造りかえられ、導かれて、互いに愛し合い、世界を愛する者になりましょう。
話し合いのために
1. 私たちの心の中、またこの世界の中にある、イエス様逮捕の現場は具体的にどういうものですか?
2. 自分を変え、この世界を変えるために、私たちにできることは具体的になんですか?
子供たちのために(保護者のために)
子どもたちにとって身近な「イエス様逮捕の現場」は、いじめかもしれません。自分が誰かをいじめていないでしょうか?誰かがいじめられているのに気が付いたらどうすればいいでしょうか?そして、自分がいじめられたらどうすればいいでしょうか?いじめられていい人なんて誰もいないにもかかわらず、大人の世界でもいじめが起きるのが現実です。イエス様は壮絶ないじめの経験者とも言えます。親子で話し合ってみてください。