しかし、イエスもそこに

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しかし、イエスもそこに

詩編88編

永原アンディ

 今日の詩は詩編の中で最も希望の見えない詩だと言われています。なぜこのような詩が詩編に加えられたのか?疑問に思うのは皆さんだけではありません。聖書学者の中にも、最後のハッピーエンドの部分が失われたのだろうと考える人もいたほどです。この詩にどんな意味があるのか?ここから光を見出すことができるのか?一緒に検証してゆきましょう。少し長目ですが、最初の全体を読みましょう。

1 歌。賛歌。コラの子たちの詩。指揮者によって。マハラト・レアノトに合わせて。マスキール。エズラ人ヘマンの詩。】

2 主よ、我が救いの神よ 私は昼も夜も 御前で叫びました。3 私の祈りが御前に届きますように。私の叫びに耳を傾けてください。

4 この魂は災いを知り尽くし この命は陰府に届きそうです。5 私は穴に下る者のうちに数えられ 助けのない人のようになりました。6 死人の中に捨てられ 刺し貫かれ 墓に横たわる者のようになりました。もはやあなたはそのような者に心を留められません。御手から切り離されたのです。7 あなたは私を地の底の穴 闇の中、深い淵に置きました。8 あなたの憤りが私に迫り あなたの荒波がことごとく私を苦しめます。〔セラ

9 あなたは親しい人を私から遠ざけ 彼らにとって忌まわしい者となりました。私は閉じ込められて、逃れることができません。10 目は苦しみのあまり衰えました。主よ、私はあなたを日ごとに呼び求め あなたに向かって両手を広げます。

11 あなたは死者のために奇しき業をなさるでしょうか。死者の霊が起き上がって あなたをほめたたえるでしょうか。〔セラ12 あなたの慈しみが墓の中で あなたのまことが滅びの国で語られるでしょうか。13 奇しき業が闇の中で あなたの義が忘却の地で知られるでしょうか。14 しかし、主よ、私はあなたに叫び求め 朝には、私の祈りはあなたに向かいます。15 主よ、なぜあなたは私の魂を拒み 御顔を私に隠すのですか。

16 私は若い時から苦しみ、息絶えるほどでした。 あなたへの恐れを身に負い 絶え果てるばかりです。17 あなたの憤りが私に襲いかかり あなたの恐ろしさが私を滅ぼしました。18 それは日夜、水のように私を取り巻き 一斉に私を取り囲みました。19 あなたは私から愛する者と友を遠ざけ 闇だけが私に親しいものとなりました。

A. 切り離され、戻れる見込みのない絶望

 この詩人は、レビ記に書かれているような、イスラエル共同体で隔離されなければならない病に侵された人だと考えられます。共同体全体の危険を考えれば、隔離は仕方ないことですが、若い時にこの病にかかった詩人にとっては、人との関わりを一生持てないことを意味していました。肉体的な苦しみとともに孤独という社会的苦しみも加わって何の希望も持てなくなっている状態です。

 最近、「リメンバー・ミー」(COCO)というディズニーのアニメーション映画を見ました。 メキシコでは、年に一度、死者が帰ってくる、日本でいえばお盆のような祭日があります。普段は死者の国で楽しく暮らしている死者が生きている親族に会いに来る日とされています。その映画には、死者の国には第二の死があるということが描かれています。それは地上で、その人を思う人が一人も居なくなったときに起こる死で、死者の国からも消え去るというものなのです。 

 私たちは、肉体の痛みが地上での歩みを終えるときに取り去られることも、主イエスが永遠に共にいてくださることも知っています。イエスにつながることを通して、他の人々とも永遠につながれていることも知っています。

映画のように、人の記憶だけが頼りなら、歴史の教科書に載るような人でなければ、誰もがいずれ第二の死を迎え「永遠の無」の中に飲み込まれてしまうことになります。しかし命は人の記憶によって支えられているわけではありません。神様の記憶によって支えられているのです。そして神様は決して忘れません。

 私たちには遅かれ早かれ肉体の死が訪れますが、私たちを迎えるのは「永遠の無」ではなく「永遠の命」です。感覚としては、この詩人を打ちのめしているかのように思える、地上におけるどんな苦しみも、あなたとイエス、そしてあなたの愛する人々を切り離すことはできないのです。

 しかしそれは誰かを、絶望的な気分の中に放っておけばいいということでは決してありません。パウロが勧めているように「泣く人と共に泣き、笑う人と共に笑う」べきです。イエスはそのような人を通して絶望のうちにある人に近づくからです。だから、神様の存在を知っていても、人が近づくことを許されなかった詩人は絶望して、闇のうちにいると感じているのです。イエスを知っているあなたは、ただそれだけで光となれるのです。


B. そこにさえイエスはともにいてくださる希望

 希望は、それでも詩人が神様に呼びかけ続けているところに見出せます。人々との交流が絶たれても、神様に向かって叫び続けています。皆さんには、神の家族の誰かが寄り添ってくれていると思いますが、そう感じられない時もあることを知っていてください。私たちの感覚は、最も簡単にそう錯覚します。

 『墓の中の死せるキリスト』(The Body of the Dead Christ in the Tomb)という絵画がスイスのバーゼル美術館に所蔵されています。宗教改革直後にドイツ人画家、ハンス・ホルバイン(Hans Holbein the Younger
)という人が描きました。ショッキングな絵なので、週報にもモニターにも載せませんでしたが、よほどホラーが苦手な人でなければ、どうぞ探してご覧ください。イエスに従って歩んでいる皆さんなら、この詩編と合わせて深いインスピレーションを得られると思います。その絵はドストエフスキーに多大な影響を与えたことでも知られています。イエスを象徴する人物を主人公として書かれた『白痴』(The Idiot)に登場する肺病で死の迫る若者に「この亡骸を目の当たりにしたら、誰一人、その復活を信じることはできないであろう。」と言わせています。

 イエス自身が、命を狙われ、弟子たちに裏切られ、十字架につけられ、殺される苦しみ、悲しみ、絶望のなかで、この詩人の感じたすべてを自身のこととして感じたのです。言い換えれば詩人は、自覚しないままに、この詩でイエスの受難を預言したということになります。

 私たちが受けている、受けるかもしれない苦難、痛み、孤独、絶望にあって、私たちは、イエスに来て下さいと願う必要はないのです。なぜならイエスは、あなたより先にそこに居てくださる方だからです。耐えられない痛みに癒しを求めて叫ぶことは良いことです。主は癒してくださいます。孤独もそうです。そして、感覚としての苦難には終わりがきます。神様は、イエスを死からよみがえられました。私たちのことを闇の中から救いだすためにです。

 皆さんの愛する人々がそのような状態にあるのなら、共にいてください。ヨブの友達のように、あれこれ言う必要はありません。あなたが黙ってそこにいるときに、イエスもそこにおられます。その人にも、そのことがますますはっきりとするはずです。

(祈り) 祈ります。主よ、私たちが苦しみの中で、孤独の中で、病の中で、絶望の中で嘆くとき、あなたがすでに、そこにいてくださることをわからせてください。頭ではわかっていても、体と心はひどく痛みます。あなたの声を聞かせてください。あなたの平安で包んでください。あなたの恵みによって、再び立ち上がった人々をここに置いてくださっていることを感謝します。この人たちを絶望する人々のところに派遣してください。そのようにしてユアチャーチをあなたの生きた体として用いてください。感謝して、期待して、イエスキリストの名前によって祈ります。


メッセージのポイント

絶望の中で、信じていた神様のことも感じられない、息はしていても死んでいるような状態にあって、思い起こすべきは、十字架につけられ、殺され真っ暗な墓に横たわるイエス・キリストです。イエスは、死によって、差別によって、病によって、貧困によって社会から切り離された人とともにいることのできる唯一の存在です。イエスとともにいる人もまた、イエスにあって絶望する人に寄り添えるのです。

話し合いのために

1. この詩の中に見出せる希望とは?

2. あなたは誰かに希望を与えられる理由は?

子供たちのために(保護者のために)

全体ではなく数節で良いので、子供の年齢に合わせてパラフレーズして話してあげてください。友を失う経験、学校に行きたくなくなってしまう出来事、入院。子供たちも様々な、肉体にとどまらない苦しみを体験し、苦しみます。イエス様だけはその苦しみ、悲しみ、さびしさを自分のこととして知っていて
、寄り添っていてくださることを教えてください。そして、自分もまたイエスを信じる人として、そのような絶望の中にある人に寄り添うことができることを伝えてください。