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あなたに会って、喜びに満たされたい
2テモテ 1:3-14
池田真理
2020年最後の日曜日です。毎年、年の初めには一年を通して心に留めたいと思う聖書箇所を取り上げて、年末には一年を振り返って同じ箇所からお話ししています。今年の年始は、テモテへの手紙第二の1章から、「委ねられている良いものを聖霊様によって守ろう」というお話をしました。今回この年末のメッセージを準備するにあたって、コロナという非常事態を通ってきた私たちに、果たして当てはまる内容なのか不安に思いながら読み返しました。でも、読み返しながら、神様の深い配慮があったことに気が付かされました。この手紙は、獄中にいるパウロが、自分の一番の弟子であり、息子のような存在であるテモテにあてて書いた手紙です。離れ離れになって会えないでいる悲しさと、それでも同じ神様を信じて互いを信頼している喜びの両方が言い表されています。それは、まさに今、世界中の教会で感じられている悲しさと喜びだと思います。神様は、この箇所のパウロの言葉を通して、互いに顔を合わせて会うことができなくなってしまった私たちを励ましてくださっていると思います。最初に3-5節を読みます。
A. 神様が私たちを出会わせてくださる (3-5)
初めに5節まで読みましょう。
3 私は、夜も昼も祈りの中で絶えずあなたのことを思い起こし、清い良心をもって先祖以来仕えている神に感謝しています。4 私は、あなたの涙を忘れられず、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。5 また、あなたが抱いている偽りのない信仰を思い起こしています。その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。
この数行の文から、パウロがテモテのことを個人的に深く信頼していたことが分かります。パウロにとってテモテは、信頼できる弟子であり、息子のような存在だったと同時に、宣教のために苦労を共にしてきた同志でもありました。テモテにとってもパウロは、最初は先生であり父親のような存在でしたが、やがて苦労を共にする仲間になりました。4節でパウロが「あなたの涙を忘れられない」と言っているのは、おそらくパウロとテモテが最後に別れた時に、パウロともう会えなくなるかもしれないことを悟ってテモテが涙を流した時のことを指しています。パウロは、自分のことを思って泣いたテモテの顔を思い出して、「あなたに会って、喜びに満たされたい」と言っています。冒頭の3節では、夜も昼も祈りの度にテモテのことを思い出して、神様に感謝していると言っています。今は会えなくて寂しいけれど、あなたの存在を神様に感謝せずにはいられない、ということです。そして、この手紙は、そんな大切な存在であるテモテが、どうか元気で、悲しんだままでいないで、同じ方向を向いて歩み続けてほしいというパウロの願いが込められた手紙です。
今日最初に心に留めておきたいと思うのは、イエス様を信じて歩むということは、このパウロとテモテのような深い信頼関係を持てる人と出会えることだということです。
私たちはみんなそれぞれの弱さがあり、限界があります。誰かに過度に期待したり、期待に応えようとしたりするなら、互いに満たされないまま、傷つけ合ってしまいます。何度かそういう経験をすると、もう誰にも何も期待しない方がいいのだと諦めてしまう人もいます。それでも私たちは、それぞれの人生を自分で歩むしかありません。それは実際、時にはとても孤独で苦しい現実だと思います。多くの人は、その現実の重さを、何かや誰かで忘れようとしたり、気を紛らわせたりして、どうにかやり過ごそうとしますが、大抵のものは一時的なものに過ぎません。
イエス様は、そんな私たちに根本的な解決を下さる方です。私たちは互いに互いの抱える傷を癒すことはできませんが、イエス様にはできます。そして、イエス様にはできるということを、私たちは互いに思い起こさせて、励まし合うことができます。そういう関係がなければ、誰もひとりでイエス様のことを信じ続けられる人はいません。だから神様は、私たちにそういう励まし合える関係を必ず与えてくださいます。それも、一方通行の関係ではなく、互いの弱さと間違いも知りながら、それでも互いに励ましあえる関係です。それは、パウロとテモテのように、非常に個人的な関係で、神様がくださる出会いです。
もしそういう関係が自分にはないと思われるなら、おそらく理由は二つです。一つは人に期待しすぎていること。もう一つは神様に期待しなさすぎていることです。厳しく聞こえるかもしれませんが、続きのパウロの言葉がヒントになると思います。6-14節を途中を省略して読みます。
B. それぞれの場所で (6-8, 12-14)
6 こういうわけで、私はあなたに注意したいのです。私が手を置いたことによってあなたに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせなさい。7 神が私たちに与えてくださったのは、臆病の霊ではなく、力と愛と思慮の霊だからです。 8 ですから、私たちの主を証しすることや、私が主の囚人であることを恥じてはなりません。むしろ、神の力に支えられて、福音のために、苦しみを共にしてください。…12 そのために、私はこのような苦しみを受けているのですが、それを恥じていません。私は自分が信じてきた方を知っており、私に委ねられたものを、その方がかの日まで守ることがおできになると確信しているからです。 13 キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全な言葉を手本としなさい。14 あなたに委ねられた良いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
1. イエス様を愛する
パウロはここで、いろいろな言い方を使ってテモテを励まそうとしていますが、言おうとしていることはただ一つです。それは、「イエス様を誰よりも愛することを続けなさい」ということです。パウロがテモテに教えたのは、イエス様を愛する心です。福音、良い知らせを伝えるという仕事は、あなたはイエス様に愛されていて、イエス様を愛して生きる生き方ができますよと人々に伝える仕事です。それは、自分自身がまず、この世界の誰よりもイエス様は素晴らしい方で、私たちを正しく導いてくださる方だと信じて、信頼していることがなければできません。パウロは、自分が獄中にいて、自分の死が近いことが分かっていても、イエス様は良い方であると信じていました。そして、自分のことを心配しているテモテにも、同じように信じていてほしいと願いました。状況が悪い時でも希望を失わないでいられることこそ、イエス様の力です。だから、不安なままでいないで、あなたもイエス様を信頼して、イエス様は良い方なのだと証し続けて欲しいと、パウロはテモテに望みました。神様は、私たちにも同じことを望まれています。パウロとテモテが離れ離れだったように、私たちもそれぞれの場所で、イエス様は世界中の誰よりも素晴らしい方だということを忘れないでいましょう。そして、希望と喜びを失わずにいましょう。
2. 聖霊様を頼る
ただ忘れてはいけないのは、パウロがここで強調しているように、これは私たちの力によるのではなく、聖霊様の力によってしかできないことです。14節をもう一度読みます。
14 あなたに委ねられた良いものを、私たちの内に宿っている聖霊によって守りなさい。
私たちは生きている限り、弱さを持っています。どんなにイエス様についていこうと決心していても、不安で揺れることがあります。それ自体は人間である以上自然なことで、自分を責める必要はありません。でも、だからこそ私たちは、誰も自分の力でイエス様を信じ続けられる人はおらず、誰もが聖霊様の助けを必要としているということを、謙虚に受け止める必要があります。私たちは弱いですが、聖霊様は私たちに力をくださいます。私たちの愛は乏しいですが、聖霊様が私たちを変えて、人を愛することができるようにしてくださいます。私たちは正義を求めるよりも自分に都合のいいことを求めますが、聖霊様は私たちに神様の視点を与え、物事を正しく判断できるように導いてくださいます。聖霊は「力と愛と思慮の霊」であるとは、そういうことです。パウロがテモテに勧めたように、私たちも、一人ひとりが聖霊様の助けを求めましょう。そうすれば私たちは、パウロと同じように、確信を持って他の人を励ますことができます。
C.「あなたに会って、喜びに満たされたい」
今日は、パウロの手紙から、互いに離れていて会えなくても、それぞれが置かれた場所で聖霊様に助けられてイエス様を愛して生きていこう、ということを教えられました。互いの状況がどうであれ、それぞれがイエス様を誰よりも愛しているなら、それ自体が互いを励ますことになります。
でも同時に、今日の最初にパウロが言った言葉も、やはり真実だと思います。「あなたに会って、喜びに満たされたい」という言葉です。どんなに技術が進歩して、地球の裏側にいる人とリアルタイムで顔を見て話せても、実際に会えることはやはり違います。何が違うのか、言葉で言い表すのは難しいですが、何かが違います。だから会えない寂しさは当然だと思います。
それでも、神様が与えてくださる大切な人間関係というのは、物理的な距離に左右されないということも事実です。パウロとテモテは、互いの人柄だけを信頼していたのではなく、それぞれが誰よりもイエス様を愛しているということを信頼していました。だから、再会して、互いのイエス様との歩みを報告し合えることを願っていました。ですから、「あなたに会って、喜びに満たされたい」という言葉には、「あなたと一緒にもう一度イエス様をほめたたえたい」という願いが込められています。
あなたにとって、パウロのような存在は誰でしょうか?テモテのような存在は誰でしょうか?誰もイエス様の代わりにはなれませんが、誰にでもパウロとテモテのような関係が必要です。直接会うことのできない期間が続きますが、それぞれの場所でイエス様を愛し、励ましあう関係を続けていきましょう。
(お祈り)神様、あなたは私たちをこの教会に集め、互いに出会わせてくださいました。それぞれに弱さがあり、限界がありますが、その中であなたを共に見上げ、励まし合うことができる関係をありがとうございます。でも、直接顔を合わせることがなくなって、あなたのことを見失って苦しんでいる人の存在に、私たちは気づけていないかもしれません。どうか、苦しい時に助けを求めることをためらう人がいないように、聖霊様、一人ひとりに働いて導いてください。いつもとは違う1年でしたが、あなたがいつも私たちの必要を満たし、一歩一歩を導いてくださったことをありがとうございます。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。
メッセージのポイント
神様は不思議な形で私たちをこの教会に集め、出会わせてくださいました。コロナによって自由に集まることができなくなってしまった1年でしたが、離れていても、イエス様を愛する心ではいつもつながっています。互いの顔を見て会えない寂しさを、会えなくても同じ主を信じている喜びに変えていきましょう。聖霊様に頼って、それぞれの場所でイエス様を愛し、人を愛することを続けましょう。そして、互いのために祈り、祈られていることを覚えていましょう。
話し合いのために
- この1年を通して「教会」に対する考え方は変わりましたか?今あなたにとって教会とは何ですか?
- パウロとテモテのような関係をあなたは誰かと持っていますか?誰もがテモテの立場から始まりますが、あなたにとってパウロの立場になるとは具体的にどういうことだと思いますか?
子供たちのために(保護者のために)
今年は途中から教会にほとんど行けなくなってしまいました。人は、会わなくなるとお互いに忘れていってしまうことが多いです。でも、どんなに会えなくなっても、お互いに忘れられない大切な友達もできます。パウロとテモテはそんな関係でした。二人はお互いのことを尊敬していました。でも、それぞれ何かがよくできたから尊敬していたわけではなく、二人ともイエス様のことが大好きだったので、お互いのその気持ちを尊敬して意気投合していました。そして、お互いに会えない間も、それぞれの場所でイエス様を愛し、周りの人たちを愛し続けました。今はみんなも教会に来られませんが、それぞれの場所でイエス様のことを大好きでいてください。そして、会えなくても、みんなが元気でいられるように祈っている友達や大人たちがいることも忘れないでください。