必要なことはただ一つ

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必要なことはただ一つ

ルカ 10:38-42, 6:46-49

池田真理

 先週のAndyさんのメッセージに引き続き、私も今日は新しい1年を始めるにあたって、心に留めておきたいと思う聖書の箇所を取り上げてお話ししたいと思います。ルカによる福音書の2箇所です。まず、10:38-42、マルタとマリアという姉妹の話からです。

A. 主の言葉を聞くこと

38 さて、一行が旅を続けているうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。39 彼女にはマリアという妹がいた。マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。40 マルタは、いろいろともてなしのために忙しくしていたが、そばに立って言った。「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことに気を遣い、思い煩っている。42 しかし、必要なことは一つだけである。マリアは良いほうを選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 私が今回この箇所を選んだのは、コロナという非常事態が続く状況の中で、コロナのこともそれ以外のことも、私自身が日々いろいろなことを心配して、心が落ち着いていないからだと思います。皆さんも同じだと思います。コロナのことと同時に、ご自分の病気や、遠くに住むご家族のこと、仕事や将来のこと、それぞれに心配を抱えていらっしゃると思います。でも、必要なことは、マリアのように、ただイエス様の足元に座って、イエス様の話を聞くことだけです。自分が何をすべきか、何ができるかということを一旦脇に置いて、ただイエス様の言葉に耳を傾ける時間を持つことを、イエス様は何よりも私たちに望まれています。でも、イエス様によく聞くことは、そんなに簡単ではありません。その理由の一つは、私たちはマルタと同じように、自分の考えや社会の常識に囚われてしまいがちだからです。

1. 自分の思いや社会の常識が邪魔になる

 マルタは、自分の家にイエス様を招きました。マルタはおそらく責任感が強く、面倒見のいい人だったのだと思います。旅の途中のイエス様に、温かい食事を用意して、疲れを癒してもらおうとしました。それが、女性である自分のすべきこと、できることであり、イエス様も喜んでくださると思ったからです。当時、食事の支度は女性の仕事であり、食事の席では女性は給仕をするのみで、男性と一緒に食事をすることはほぼありませんでした。まして、旅人を家に招いておきながら、妹のマリアのように、何もしないでただ話を聞いているなんて、マルタには考えられない非常識なことでした。でも、その非常識なことを、イエス様は必要なことで良いことだと言われました。マルタはびっくりしたでしょう。
 私たちも、マルタと同じように、無意識のうちに自分で自分を縛り、社会の常識に縛られていることがあります。「女性はこうあるべき、男性はこうあるべき」という固定観念は、今でも多く残っています。性別だけでなく、年齢や婚歴、家族構成、職業、そして人種や国籍など様々なものが、偏見や差別の原因になっています。問題なのは、それらを問題だと感じなくなってしまっている私たちの感覚です。社会で当たり前とされていたり、差別だと認識されていないために、それを普通だと受け入れてしまっています。そして、イエス様のことすら、そういう間違った感覚でとらえてしまいます。その結果、マルタのように、イエス様を喜ばせるつもりで、実は必要ないことで一生懸命になっていたり、他の人を妬んだりしてしまいます。

2. 主だけに集中する

 イエス様によく聞くことが難しいもう一つの理由は、私たちが自分で思っているよりも実はまだまだ自分のことが中心で、イエス様のことを本気で自分の主だと思っていないからです。マルタはイエス様にこう訴えています。

「主よ、妹は私だけにおもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」

ここは日本語よりも英語の方がわかりやすいですが、マルタは「なぜ私だけがやっているのか」「私を手伝ってほしい」と、「私」を連発しています。「私」のことが中心です。
 また、マルタはこの不満をなぜ妹のマリアに直接ぶつけないで、イエス様に訴えたのでしょうか?それは、マルタが、イエス様は自分の考えに同調して、味方してくれるはずだと思い込んでいたからです。マルタは、自分が正しいと思い込んで、自分を正当化するためにイエス様を使おうとしたのです。それは結局、自分が自分の主で、イエス様を自分のサポート係にしか見ていないことになります。このことを、この福音書を記録したルカも気付いていました。ルカは、39節と41節で、「イエス」と言わずに「主」と言っています。

 

39 …マリアは主の足元に座って、その話を聞いていた。
41 主はお答えになった。…

ルカは、主を主としていないマルタ、そして私たちに、主はイエス様ひとりだと、静かに語りかけています。私たちも、イエス様に自分の味方をしてくれるように求めるよりも、自分の思いを一旦脇に置いて、静かにイエス様の言葉に耳を傾ける必要があります。

 そして、このイエス様の言葉を聞くということは、ただそういう静かな時を持って終わりにはなりません。「主に聞くこと」は同時に主に聞いたことを「実践すること」も意味します。それによって、私たちは少しずつ考え方や行動を変えられて、神様に似た者につくり変えられていきます。このことについて、ルカによる福音書のもう一つの箇所を読んでいきたいと思います。ルカ6:46-49です。


B. 主の言葉を聞くことは聞くだけで終わらない

46 「私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。47 私のもとに来て、私の言葉を聞いて行う者が皆、どんな人に似ているかを示そう。48 それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて家を建てる人に似ている。洪水になって水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、びくともしなかった。49 しかし、聞いても行わなかった者は、土台なしで地面に家を建てた人に似ている。水が押し寄せると、家はたちまち倒れ、その壊れ方がひどかった。」(ルカ6:46-49)

1. 「聞いても行わない」のはちゃんと聞いてないから

 このたとえ話で少しややこしいのは、この話のポイントが、イエス様の言葉を聞いたか聞かなかったかではなく、それを実践したかしなかったかにあるところです。聞いている人はしっかりした土台を持ち、聞いていない人には土台がない、という話ではありません。そうではなく、聞いて行う人はしっかりした土台を持っているということで、聞いても行わない人は土台がなかったということだ、と言われています。つまり、主の言葉を聞いて実践しているかどうかで、本当に主の言葉を聞いているかどうかが分かるということです。「聞いても実践しない」のは、実はちゃんと聞いていないからだということです。 

2. 主は私たちを根本から強くつくり変える

 では、イエス様の言葉を聞いて実践するとはどういうことなのでしょうか?イエス様はそれを、しっかりした土台に建てられた家で、洪水が来てもびくともしないとたとえられました。それはもちろん、イエス様を信じれば財産を築けるとか、社会的地位を手に入れられるとか、個人的な成功を手に入れられるという意味ではありません。イエス様を土台として建てられる家とは、イエス様を中心にした人間関係のことです。
 このことは、先週の「イエス様は関係づくりの達人」だということとつながっています。イエス様の言葉、教えの全ては、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)という言葉に集約されます。イエス様が私たちをどのように、どれほど愛してくださっているかは、十字架という出来事と聖書から知ることができます。イエス様は、私たち一人ひとりが喜びに満ちた人生を歩んでほしいという願いから、何の見返りも求めずに、ご自分の命を捧げられました。また、その愛は特に、人間の社会では嫌われている人や、差別されたり、排除されたりしている人たちに向けられていました。イエス様は、神様がこの世界の誰のことも忘れておらず、一人ひとりをそのままで愛しておられるということを、身をもって教えてくださいました。その神様の愛は、何が起こっても決して変わらず、永遠に揺るぎません。イエス様は、この愛を土台にして、私たちも互いに見返りを求めずに愛し合う関係を築いていくことを望まれています。
 でも、私たちは自分の努力でそのような関係を築かなければいけないと思う必要はありません。家と土台のたとえ話で、イエス様は、しっかりした土台があるのに上に立てられた家が崩れてしまった話はしませんでした。土台があるなら、その上の家は必ず強いのです。イエス様の愛をしっかり受け取るなら、イエス様は私たちを根本から強くし、人を愛することができるようにし、互いの関係を強くしてくださいます。


C. 人(自分・他人・社会)に惑わされず、主の思いを知ろう

 コロナの状況が悪化していて、日々様々な情報が耳に入ってきます。私たちは不安な中でイエス様に助けを求めますが、ただ助けを求めるだけでなく、それぞれの状況でイエス様は何を望んでおられるのか、よく聞くようにしましょう。そのために、自分の思いを一旦脇に置いて、ただイエス様に向かって「主よ、お話しください、僕は聞いております」(旧約聖書に出てくる少年サムエルの言葉)と語りかけてみることが大切です。イエス様は、マルタを驚かせたように、私たちを驚かせて、新しい一歩を踏み出させてくださるはずです。それは、ある人にとっては、自分で背負わなければいけないと思ってきた重荷からの解放かもしれません。またある人にとっては、他人から受けた傷や、「あなたには価値がない」という呪いからの解放かもしれません。またある人にとっては、自分がそれまで常識だと思ってきたことが、実は間違っていたと気づかされる経験かもしれません。やならければいけないと思っていたことを、やる必要はないんだと気付かされる経験。自分にはできるはずがないと思っていたことを、やってもいいんだと励まされる経験。イエス様の言葉は一瞬で聞こえるようになるものではありませんが、繰り返し聞こうとしていれば、心の中に聞こえてきます。そして、私たちを少しずつつくり変え、壊れた関係を修復していきます。私たちは常に、不安定な自分という土台の上に立とうとしてしまいますが、イエス様という揺るがない土台は、いつも私たちを受け止めてくれています。そして、愛し合うという関係の中に私たちを招き、互いを組み合わせて、この世界に神様の家を建てる一部としてくださいます。
 どんな状況に置かれても、この一年を通して、私たちの主は誰か、私たちの土台は何か、繰り返し思い起こしましょう。そして、主が何を望んでおられるのか、この世界で何を建てあげようとされているのか、よく聞きましょう。
 
(お祈り)神様、どうか私たちが、必要なことは一つだけだということを忘れないようにさせてください。焦りや不安の中でも、あなたに静かに耳を傾け、忍耐強くあなたの言葉を待つことができるようにしてください。私たちは、あなたに仕える僕、あなたのものです。イエス様、あなたのお名前によってお祈りします。アーメン。


メッセージのポイント

コロナという非常事態が続く中、誰もが先の見えない不安の中にいます。それぞれが抱えている問題や困難もあります。それでも、全ての出来事の中で、イエス様は私たちの主です。私たちはただイエス様に助けを求めるだけでなく、イエス様が何を自分に望んでおられるのか、よく聞きましょう。そのために、自分の思いや他人の意見、社会の価値観は時に邪魔になります。イエス様の思いを知ることは、どんな状況においても私たちに新しい一歩を踏み出す力を与えてくれます。

話し合いのために
  1. イエス様によく聞くとは、具体的にどういうことですか?
  2. イエス様の思いが分からない時はどうすればいいですか?
子供たちのために(保護者のために)

子供たちが、大人を通してではなく、自分で直接イエス様と話せることを教えてください。「誰かがこう言うから」とか「これをするのが普通だから」ではなく、イエス様は自分に何を望んでおられるのか、一人ひとりが自分でよく聞くことが大切です。そのためには、イエス様がどういう方なのかを知る必要があります。それは、大人から教えてもらう必要がありますが、自分で聖書を読んで考えてみることが大切です。今回はマルタとマリアの話から、イエス様がどういう方なのか、一緒に考えてみてください。